第百十一話 曇天の霹靂カーボン・リベラ(濃い口)
111.a
ようやく起動準備を終えた「バルバトス」と共にカーボン・リベラの街々を見て回った。テンペスト・シリンダーの外壁に支柱を立てその上に街を築いた発想と建築力はタイタニスの為せる技だ、いや、苦肉の策と言うべきか。
「とくに変わったところはないぞ」
[もう少し見て回ろうか、こんな機会は滅多にないんだから]
「目的変わってなくないか?それ」
[というかだね、そもそも君が遅れるから悪いんだよ?おかげで先を越されて良い所を持っていかれちゃったし]
「…………」
パイロットシートに身体を沈めた彼から返事がない、そろそろ限界かな?と思った矢先ようやく口を開いた。
「あのなぁ…俺だって大変なんだぞ?昨日だって………あれ、何だっけ………う〜ん……」
[ほら、操作に集中して]
「………」
僕の声が届いていない訳ではない、これはタイムラグだ。通信距離が離れるとどうしたって届くのに時間がかかる、それと同じようなもの。あるいは双方向通信装置に何らかの異常がある場合にも起こる。
(ふぅむ……彼にはそろそろ関わらない方が良いかもしれないね……残念だ)
もう、一人っきりの「生」に慣れているつもりだ。それは仕方がない事だった。
「おいバルバトス、もう全部見て回ったんじゃないの?にしても変な街だなぁ、雲海にそびえる街なんて聞いたことないぞ」
[うん、それなら一度高度を上げてくれないかな]
「あいよ」
緩やかに高度を上げていく、彼の言う通りに揺蕩う雲海の中を泳ぐようにして突っ切るとカーボン・リベラのその全容を視界に収めることができた。
「うっひゃー、天空の街だなこりゃ」
[そうだね、写真に収めるのも悪くないかもね。それぐらいに綺麗な景色だよ]
一部の区、ノヴァグの襲撃にあった第一区のセントラルターミナル周辺と第六区だけ明かりを落とされているが、それでも十分に見応えはあった。一つの大きな原子に二つの原子がくっ付いているような形をしている、その一つ一つの原子にはさらに小さな電子が明かりを灯し街全体に輝きをもたらしていた。「カーボン・リベラ」とは良く言ったものだ。
「で、こっからどうす………んん?」
[レーダーに感有りか……行こうぜ我が友よっ!!]
「急にテンション上げるなよ……何だこれ、もしかしてこいつを探していたのか?」
[そうとも!僕らも良い所は見せておかないとね!]
「…………」
駄目だ、彼の声が届かない。何かを喋っているのだろうけど、僕の所まで届かなければ会話ができない。けれどそれは一瞬のことですぐに直ったようだ。
「聞いてんのか?」
[あぁごめんね、もう一度言ってくれる?]
「だから、この街は今危険に晒されているのかって聞いてんの」
[うん、おそらくだけどレーダーに映った相手は敵で間違いないよ]
「それなら早く行って何とかしないとな!」
[だったら早く飛ばして!]
「相変わらずせっかちな奴だな…お前…」
機体の出力制御を一時的に解放し、突き破ってきた雲海に再びダイブした。
◇
アラート。アラート。アラート。
「おいっ!何なんだよっこいつはっ!」
パイロットの悲鳴、機体の装甲板が剥がれていく不吉な音。エンジン内が溶解温度に達した警告音、残弾数の低下による早期離脱を促す警告音、さらに機体の疲労度が限界に達した警告音。
アラート、アラート、アラート、これは予期していなかった、想像の範囲外の事象だ。
(何ていうことだ…まさかこの僕が敵を見誤ってしまうなんて…)
レーダーに映っていた敵はあろう事かテンペスト・シリンダーの外壁を直で登って来たのだ。さらに外壁を穿ち中に侵入し、街を支える柱の根元に潜伏していた。その大きさたるや、移送用トンネル内に生息していた「親機」の数倍、まさしく人類に終焉をもたらすに相応しい出で立ちをしていた。
さらに新たな警告音が加わった、パイロットの身体機能低下だ。これ以上の戦闘は命が危ぶまれる、彼にも彼の人生がある。「バルバトス」の機能の一部を肩代わりするために生み出した存在だが、彼は「家族」を手に入れたのだ。ここでその「心」を散らしてしまえば、孤児院で眠っている彼の体は二度起き上がることはない。
(これは僕の本意ではない、ティアマトに習って子離れする時が来たと思えばいい)
「バルバトス!これ以上は無駄だぞ!あれを使え!」
[それは駄目、君にこれ以上迷惑をかける訳にはいかないよ]
「何言ってんだよ!この間やった時は何ともなかっただろ!……うわっと!」
敵から射出された針を避けながら距離を取る。(僕は直接聞いていないけど)アマンナから報告があったように、有機生命体としての身体構造と人型機にも似た無機物による身体機能が融合した敵だった。全体のシルエットは蜘蛛に近い、翅は蚕のように四枚あり白く細かな毛で覆われている。頭部から腹部にかけて長い胴体をしており背中側が黒と青のまだら模様、お腹側は赤の一色だった。
再び敵が腹部の先端にある針を構える、八足ある足先にはパイルドライバーが装備されており、あの巨体でも仰反る姿勢を取りながら壁から落下することがない。
「何発撃てば気が済むんだよ!バルバトス!」
[えぇい!こうなったら「仮解放」!]
「こんな状況でふざけるなよ!」
[ふ、ふざけてないやいっ!]
空気振動によって機体のコントロールが低下する程の発射音と共に放たれた針を避け、すかさずシークエンスに突入する。狙いは敵のアナライズ、分析をし身体構造からくまなく調べ上げる。
《介入対象へ照準固定、やっちゃうよ〜!》
対象以外の事物を全てシャットアウトする。意識の外へ放流し彼我の距離を電子的に縮めていく行為、それが「仮解放」。
「お前やっぱりふざけてるだろ」
《解析始めっ!ちなみにだけど仮解放の「仮」は名前が決まっていませんの「仮」じゃないからね》
「何だって?聞こえないぞっ!」
そうか、もう既にこの段階から監視されているのか。今の僕の発言はカットされたようだ。
気を取り直し、バルバトス=敵となりつつある内在世界から敵=バルバトスの情報を読み取っていく。僕が一番嫌いなタスクだ、ただの間違い探し、つまらないにも程がある。けれどこのタスクを消化しないと介入対象を自分の事のように知ることができない。
ジグソーパズルが揃いつつある中、頭部にある二つのカメラアイがぎょろぎょろと動き、閉じたままになっていた顎ががくんと垂れた。
「っーーーーーーーーー!!!!!」
「いっ?!」
《が、該当データ…………な、無しぃ?!!》
声としての物理伝播を伴わない敵の「絶叫」の後、僕の内在世界で完成しつつあったジグソーパズルが粉々に吹き飛んでしまった。そのおかげで答えは「バルバトス」のまま、つまりはデータ無しというあり得ない結果が出てしまった。このタスクを完了しないと次の段階へ移行することができない。これは困った...大いに困ってしまった。いや別のいいのかな、そうなればエフォルは無事でいられるわけ、はっ!
「お…………ぶかっ!………っ………っ!」
ノイズ、ノイズ、不快なノイズ。深い、深い、どこまでも深くノイズに塗れていく意識。視覚は乱れ、聴覚は途切れ、本意が揺らぎ、心意が何処かへ流されていく。アラート、あらーと、ALERT、流されているのは自分か周囲か、そこでがばりと腕を取られた。
「はっ!」
...全身を引き裂かれそうな痛みは何百年振りだ、久方ぶりに味わったおかげで目眩が酷い、しかし「生きている」という実感が津波のように押し寄せてきた。
「大丈夫?」
「あ……」
「どうだった?今度も失敗?」
にんまりと笑って偉そうに見下ろしている相手は僕より身長が高く、そして女の人だった。逆光のせいで良く見えないけど長い金髪を一つに纏めて後ろへ流している。
「かも……あぁ……ちょっと待って……まだ理解が追い付いていない……」
「一つ目の段階まではこっちでも確認したけど、ガイアの息が全くかかっていない事象に吹き飛ばされていたよ」
曲げていた腰をやおら延ばし、山間に吹く強い風にその髪が大きく靡いた。彼女の背後に聳える山肌にはいくらか雪が残っている、彼女と僕の生まれ故郷で最も有名だったマッターホルンの山だ。
「あぁ……そうだ……そうだよ、あの子は無事?エフォルは無事かな?」
「エフォル?………あぁ、それについては私は分からないかな。それって没後の話しでしょ?」
そして彼女が生涯を通じて最も愛した山でもある。まぁ...気の多い彼女のことだから、僕が知らないだけで様々な物を愛したことだろう。
マッターホルンに抱かれた高原に一つの古ぼけた小屋がある、前にガニメデ達が利用したセーフティゾーンだ。彼女が僕の手を引っ張り無理やり立たせて、
「痛い、痛い、痛い」
腕、それから付け根も酷く痛む。
「お兄ちゃんでしょうが、しっかりして」
「むむ?もう一度言ってくれない?凄く元気が出てきた」
「はいはい。向こうの小屋に着いてからね」
彼女に引っ張られながら小屋を目指した。
◇
「何という……まさかプログラム・ガイアにまで出し抜かれてしまうなんて……」
「良く出来てたよ、あの生き物。まさに化身って奴だね、バッチリ私らの対策まで取っていたし打つ手がない感じかな。このままだと不味いよ」
「ううん、この紅茶は凄く美味しいよ?」
暖炉に焚べた薪が爆ぜる音と、彼女が立てるティーカップの音は僕にとって何よりの安らぎだった。何度目ぐらいからだろうか、もうすっかり忘れてしまったけれどここにセーフティハウスを作って「解放」から逃れ始めたのは。彼女の一言がきっかけだった、「もうやってらんない」目覚めたばかりなのに経験則として紡がれたその言葉はとても歪に聞こえたものだ。
「いやそっちじゃないから、お兄ちゃんの状況がってこと」
「ううっ……」
「何で泣くの?」
「ようやく言ってもらえたから…なかなか言ってもらえないんだよ…それに別の人を兄と呼び出す始末……ううっ」
「……へぇ〜、楽しくやってんだね、それを聞いて安心したよ」
「安心してる場合じゃないからっ!兄の尊厳を取り戻さないといけないのにこの体たらくっ!」
「だから先走ったわけ?何というか、昔から情に走るというか…さっきもエフォルという人のことを心配してたよね?」
「そういう君は普段遊び回っているくせにいざという時は抜け目がないよね。ガニメデとその友人はこの為に用意したんだよね?」
「それがねぇ〜…全く足取りが掴めないの…いやはやどうしたものか…」
流麗な眉をはの字に変えて天井を見上げている、滴のように整った顎に指を添えて思案顔だ。
「………そういえば、グガランナという新造されたマキナと行動を共にしていたみたいだよ。まさか……とは思うけど……」
すると一転、
「はぁっ?!何でそんな事になってんの?!」
がしゃんっ!とティーカップが倒れるのも構わず机を叩いて身を乗り出してきた。豊かな谷間にちらりと視線をやってから質問に答えた。
「え、えーとね……確か、ガニメデとグガランナの容姿がそっくりなんだよ。もしかしたらあの子は間違えてしまったのかも……しれない」
「………ぷっ、あーはっはっはっ!何それ!ちょーウケる!何やってんの私馬鹿丸出しじゃんっ!」
「いやいや自分の事だよ…どうするの?このままだと…」
「いいよ、いいよ。兄だと慕える程の存在が出来るぐらいに交友関係が広いんでしょ?そっちの方が断然良い」
「……僕は嫌だけどね、君が君でなくなってしまうのはさすがに堪えられないよ」
「んな事言って、私があの山を好きなのは知ってるでしょ?またここに来ればいいんだよ」
「……また何か隠してる?」
「さぁね、その時のお楽しみってやつだよ。それにここではもう秘密会議もできないでしょ、バレっちゃってるんだから」
そう、晴れやかにアマンナが笑い、倒してしまったティーカップを元に戻そうとすると視界に砂嵐が襲ってきた。彼女の言った通りバレているらしい、ここも使えなくなってしまった。
「じゃ。また後でね」
僕達の時間を邪魔されているのに気にした風でもなく、いつものようにアマンナが僕を見送ってくれた。
最後だ。次がきっと最後、次を逃せば機会は永遠にやってこない、それは死することより恐ろしいことだ。アマンナと会話したおかげでようやく解明できた、誰が僕達の邪魔をしているのかということ。案外犯人は近くにいたようだ。
プログラム・ガイア。彼女は一体何を成し遂げようとしているのか、その「心意」が見えない。人とマキナの理想郷を目指していたはずなのに、最後の砦であるカーボン・リベラに終焉の使者を送り込むなんて矛盾している。
(まだ解明すべきことが残っていた、このままでは解放しても意味がない)
最後の旅路へ今行かん、まずは「彼女」と接触しよう、話しはそれからだ。
111.b
第二区にいるファラから連絡があった。
「受け入れ拒否っ?!何言ってんだよ!!」
[ほ、本当なの!エフォルが急に熱を出してしまって病院へ連れて行きたいのにどこも対応してもらえないのよっ!]
そんな馬鹿な話しがっ!
「ちょっと待ってろ!私から聞いてやるっ!」
アリュールからもコールが入ったがそれを一先ず無視して、以前私がお世話になった主治医へ連絡を取ると仰天する答えが返ってきた。
[か、確認を取りましたら、何でもピューマを預かる区の人は近付けない方がいいとか…セントラルターミナルを襲ったビーストはピューマに関連する人を優先的に攻撃していくと…]
「なわけあるかっ!!そんな世迷言を信じて未成年の入院を拒否するというのかっ?!だったら今すぐにあんたらの病院に人型機を向かわせて落とすぞコラぁっ!!」
第二区は区の規模的な問題から有志によるピューマの管理が行われていた。管理と言うと聞こえは悪いが、一つの施設にまとめるのではなく一般家庭、あるいは商業施設に預けられ「ピューマ共存」という一つのモデルとして第二区が位置付けられているというものだ。それもこれも、あの日ピューマを恐れていた市民が自ら面倒を見たいとの申し入れがあり、それに端を発して今の形へと発展していった訳だが...私の怒鳴り声を受けて主治医が短く悲鳴を上げ、すぐに受け入れの準備を進めると確約してくれた。
(全く!度し難いにも程がある!)
怒鳴り声を上げた後になって、しまったと思い周囲に視線を巡らせる。到着した第二十二区の集合駐車場は閑散としており、私の車以外は数台しか停まっていなかった。最も新しく作られた区という事もあり、どこを見ても真新しくそして人の気配が希薄な寂しい所だった。集合駐車場は高速道路を下りてすぐ、第二十二区の街並みを一望できる場所にあった。街のあちこちは今尚建設途中であり、それらに埋もれるように民家が並んでいる。端から端まで見渡せるこの区にテッドの両親がいる、動かしにくくなった左足と共に歩き出しすっかり馴染んだ杖の音を響かせた。
◇
気さくな人だ、自分の息子が亡くなったというのにその動揺を見せることも、また私に当たるようなこともしなかった。その対応がいよいよこの区に対する薄ら寒い印象を強調させてしまった。
「息子の事はもう既に聞いております、私達もただただ冥福を祈るばかりです」
「大変申し上げ難いのですが、ご遺体がこちらに戻ってくるまで時間を要します。良ければ区として葬儀を執り行わせていただいてもよろしいですか?」
「いやいや、息子もああ見えて意固地な所がありまして、自分だけ弔われるのは嫌だと固辞することでしょう」
テッドと同じように癖っ毛が目立つ男性だった、髪の色は同じだがそれ以外は一切似ていない、中年の偉丈夫であった。その男性がじっと、私に視線を向けていたので気になった。不躾とは違う、純粋な好奇心がその瞳に宿っていた。
「何でしょうか」
「あなたのご活躍はこの区にも届いております、先の連盟事件で亡くなられた方々のご遺族の元へ足を運んでいると」
連盟事件とは、ピューマを人質に取って第十九区を封鎖していたあの事だ。
「そして本来であれば処すべき相手である第十九区所属の警官隊を受け入れておられる。それだけでなく、中層に生息していたピューマという生物を率先して各区へ送りまた法案も整備された」
そこで一旦言葉を区切って、ギラリと目の色を変えた。
(あぁ…この手の手合いか…)
「あなたの行いの心意が見えない、遺族の家を一件一件回る区長なんて聞いたことがない、何故私共の家に?」
穏やかな受け答えはただ探りを入れていただけ、これが本音だろう。区長として各家を回ってきたが玄関先で怒鳴られるのが殆どだった。中に招き入れてくれる家庭は少ない、そして中に入れてもらえてもこれが理由だ、懇々とした話し合いの上で相手を罵倒する、どのみち腹に据えたものをぶちまけるための方便でしかなかった。けれど、私はいつもこう答えてきた。
「自身が掲げた目標のためです」
そらみろやっぱり!お偉方は自分のことしか考えていない!と、言われるのが常であったが今回は違った。
「それはどのような?」
聞き返されたのは初めてだ。
「禍根を無くす為にやっています。家族を奪われる悲しみや憤りは痛い程良く分かります、ですがその恨み辛みがあっては今後立ち行かない。いつまでもいつまでも誰かが面倒を見てくれる訳ではありませんから」
「自分達の足で立ち上がる他にないと?」
「そうです」
「それはあなたがすべき事ですか?」
「そうです。まぁ、私も家族を奪ったビーストが挨拶に来ようものなら弾丸をくれてやりますがね、しかし私はまだ誰にも撃たれていない」
「であれば、何故この家に?私の息子は中層で戦死したと聞きましたが」
「隊長きってのお願いです、それに私も息子さんとは懇意にしていましたから、ただそれだけです」
「その隊長というのは、」
まだまだ続きそうな質問責めの途中で、
「もう、あなた、その辺にしたらどうなの?区長さんが可哀想よ」
(っ?!)
豪華なリビングの奥から一人の子供が入ってきた...え、あなた?ということはあの可憐な容姿をした人が...テッドのお母さんっ?!
「ごめんなさい、この人あまり手加減を知らないのよ」
「あ……いいえ……それは」
カップを乗せたトレイを運んできたのは子供と見紛う程、小柄で可憐かつ清楚な人だった。とても大人には見えないが、その手の甲に刻まれたシワを見てようやく実感が持てた。それにしたってあの姿は何だ、まるで天使ではないか。なるほど、テッドの容姿は母親譲りだったんだな。
「良い所だったんだけどね、こんなに肝が座った区長は見たことがないよ」
「だからといってわざわざ挨拶しに来てくれた人を虐めなくてもいいでしょ。気に入ったものをすぐに虐めるのはあなたの悪い癖よ」
あなたもすぐに虐められたのですかと、口から出かかったが何とか堪えた。
「はっはっはっ、嫉妬かい?いつも可愛いね」
「もう!誰もそんなこと言ってないでしょ!」
頭の上に作ったお団子がぷるんと揺れた。
(帰りてー)
「ところで区長さん、私の息子は立派でしたか?」
向けられた涼やか笑みの奥には、確かに母の顔があった。きっとこの二人はとうに覚悟が出来ていたのだろう。
「息子さんのおかげで、中層で部隊の指揮を取っている隊長が助かりました。勲章を授かってもいい程に立派です」
「そうですか…それは良かった、あの子もきっと鼻を高くして私達のことを待っているでしょう」
「…………」
隣にちらりと視線を寄越すと目尻がほんの僅か濡れていることに気付いた。さっきまでの強面な雰囲気はなく、そこにいるのは一人息子の死を悲しんでいるただの父親だけだった。その様子を見てかくんと頭が垂れてしまった、見せて良いものではない。
「……区長さん?どうかされました?」
「いえ、お手洗いを貸してください」
「リビングを出て角の扉です」
すっと席を外したかったがそうもいかず、情けない姿を見せながら一人トイレへ駆け込んだ。
◇
トイレを済ませゆっくりとリビングへ戻っている最中、壁に掛けられたいくつもの写真が目に入ってきた。木材を利用して作られた壁には細かな模様が彫られており、額縁を飾る洒落た取手も備え付けられているようだ。その写真はやはり家族で映ったものが多く、撮影用ドローンから撮られた家族写真にはむすっとしたテッドが何枚も映っていた。
(ガキの頃はもっと女の子みたいだったんだな)
中にはスクール写真もあり、変わらずテッドはむすっとした顔をしている。生前のあいつは写真を撮られるのが嫌だったのかと思ったが、すぐに思い直した。きっと男っぽく映りたくて凛々しい顔をしているつもりなのだろうと。
また目頭が湿っぽくなってきたので慌てて目を逸らし、壁に手をつきながらリビングへ向かっているとファラから連絡があった。どうやらエフォルは無事に入院することができたらしい、しかし安堵のしたのも束の間、発熱の原因が全く分からないとさらに声を落胆させたファラから教えてもらった。
「命に別状は?」
[それも分からない……あぁ、私は一体どうしたら…こんな事今まで一度もなかったのに…どうしてビーストではなく病に倒れなければいけないのよ]
「落ち着けって、今はまだ診ている最中なんだろ?」
[そうだけど…こっちに来られない?私一人では心細くて…他の皆んなは家に残してきたままだから…]
何ともしおらしい声だ、すぐに行ってやりたいがそうもいかない。それにしたって随分早く到着したんだなと思い聞いてみると、運用が始まったばかりの救急用人型機に搬送してもらったみたいだ。とても便利な事だ、空を行き交うそのスピードは物や人をあっという間に運んでしまう。
「あぁ…何とか都合をつけて行くからもう少し辛抱していてくれ」
待ってるから、そう力強く返された言葉を聞いてしまっては行かざるを得ない。
リビングに戻ってくると、テッドの両親が私を待ち侘びていたようにくるりと椅子の上で向きを変えた。
「ほらあなた、言った通りでしょう?あの子を思ってくれているのよ」
「そうだね、僕の勘違いのようだ。お詫びにキスをしてあげよう」
「もうあなたったら、お客様の前よ?後でして」
(ちっ)
口に出さなかっただけ褒めてほしい。
「ところで区長さん、この後時間はあるかな?良ければここで食事を取っていかれてはどうだろう。わざわざこんな辺境な所まで来てもらったんだ、無手で帰すわけにはいかないよ」
天使の母親の言う通り、どうやら私は気に入られたらしい。是非とも(あなた抜きで)食事を取りたいが、ファラのこともあるので慎んで辞退をすると理由を聞かれてしまった。
「私の出身孤児院から急病の子供が出てしまいまして、今から病院へ行かなければなりません」
「まぁ…それは大変…」
「良ければこの区に配備された人型機に応援を頼もうか?」
「え?」
その言葉が出てくるとは思ってもみなかったので失礼にも素で聞き返してしまった。
「あの、失礼ですが…ご職業は何を…まさか私と同じ区を治めている方なのですか?」
「いやいや、僕はそんな大層な事はしていないよ。この辺りの開発と調整を任されている…そうだな、実業家とでも名乗っておこうか」
「えぇ?!」
「ふふふっ、仕事の事でこんなに驚く人はあなたが初めてだわ」
「そんなにおかしいかな?まぁ単に販売ルートや生産管理をしている僕が、人型機の管理権限を持っているのは確かにおかしなことだけどね」
HAHAHA!と絵に描いたような笑い声を上げて奥方と戯れあっている。どうせならと人型機の応援を頼み、到着するまでの間にファラの身に降りかかった話しをすることにした。
✳︎
警官隊の第十五分署から見える街並みは雨にしっとりと濡れていた。日没と同時に雨雲が忍び寄り、五冊目になる父の日記に目を通したあたりから重力に逆らうようにして軽い雨が降っていた。
向かいの席には、キリが自宅から持ち出してきた僕の古い端末が置かれている。ここで発見した事柄を記録するためだ、持ち出した本人はつい今し方に席を外しており、椅子の背もたれにはお気に入りのブランケットが掛けられていた。
(誰とも連絡が取れないなんて……僕はここに居てもいいのだろうか……)
単に疑り深いだけだ、もしくは気が弱い。自分の身の周りで何か大きな異変が起こったのではないかと勘繰ってしまう。キリからは「リューさえいれば、私は他はどうでもいい」と聞き捨てならないことを言ったのでつい説教をしてしまい、怒って部屋を出て行ったのだ。
父の日記の内容についてもそうだ、僕一人では到底抱えきれるものではなかった。マキナによる統治が行なわれていた時代、人と人との戦争が何度も起こりその時の「禍根」が現代にも受け継がれていることや、過去に起こった第三区の爆発事故はビーストの襲撃に端を発していないと記述があった。この街は幾たびもビーストの危機に瀕してきたが、あの時の襲撃事件は類を見ない程に沢山の負傷者を出してしまっていた。その最たるものが第三区だ、ビーストによる殺戮と爆発事故による死傷者、たった一日で一つの区が壊滅してしまったのはあの時だけだった。
(父は一体、何を見ていたんだ…僕が絵に囚われていたのが可愛く思えてしまう…)
日記は数百冊に及ぶ、それら全てが「アンドルフ」による記述であればそれは即ちこのテンペスト・シリンダーの歴史となる。それもガイア・サーバーに保存されたアーカイブだけでなく、一個人の観点から記された記録だ。
(……父を殺害した相手がマキナだと推測したマギールさんも…あながち的外れではない)
では僕はどうだろう、こうして父の日記を見て知識を得ている僕は?その時ゆっくりと扉が開かれたので肝を冷やしてしまった。扉を開けた先には眉尻を下げたキリが、部屋の中に入ろうとはせずただそこに立っていた。不審に思った僕は声をかけると、
「私のせいじゃ…ないよね、街が襲われたのは…」
「何を言って……そんなの当たり前じゃないか」
ふざけているようには見えない、初めて見る程に落ち込んでいた。
「でも、ここにいる人達が…私達ピューマのせいで街が狙われたって…早く中層に帰れって……」
「……キリ、こっちにおいで」
「うん…」
僕の前に立ったキリの腕を取り、ゆっくりと引き寄せた。僕より少しだけ高いキリの頭を撫でて、少しだけ緊張しながらその細い体を抱き締めた。キリの悲しげに吐かれる息が僕の耳に当たっている。
「もし、本当に中層へ行くことがあるようならその時は僕も付いて行くよ。だから悲しまないで、それに警官隊の人達も不安でいっぱいなんだ」
「………」
「大目に見てあげて、彼らも吐け口に君を利用しただけなんだから」
「許せない…でも、私一人では何も言い返せない…それが悔しくて…皆んな街のために頑張ってるのに…」
「うん、分かっているよ、分かってる。皆んなが皆んな、不当な扱いを受けているわけじゃないってキリも知っているだろう?ここの区は最近までピューマが一体もいなかったんだ、仕方のないことだよ」
その時、机の上に置いていた端末が細かく振動した。ホログラムディスプレイにはアオラの名前が浮かび上がっていた。
「ちょっとだけいいかな」
「……駄目」
「キリ、実は元気だよね?僕はこれでもいっぱいいっぱいなんだよ」
「……私を吐け口に使うつもり?」
雨に濡れた街と同じようなしっとりした視線を向けられ慌てて体を離した、それから逃げるようにして端末に手を伸ばし通話ボタンをタップした。
「も、もしもし、僕なんだけど」
[んなこと知ってるよ、こっちから掛けたんだから。先ずはあんたから用件を話してくれ、さっきは出られなくて悪かったな]
ちらりとキリの様子を窺うと、僕の視線かれ隠れるようにして目元の涙を拭っているところだった。
(どうして僕の前では気丈に振る舞おうとするのか)
[おい聞いてんのか、こっちも忙しいんだぞ]
「あぁごめん、実は父の日記で相談したいことが…あぁそれこそ山のようにあってね、僕一人では手に負えそうにないんだよ」
[バルバトスの坊主は?]
「連絡が取れないんだ、彼から依頼されたことなのに…」
[日記ってのはどれくらいあるんだ?]
「数百冊はあると思う、それに書かれている内容も秘匿事項に属するものばかりでね、おいそれと他人に明け渡せるものではないんだ」
ややあってから、少し疲れたような溜息と共に返事があった。
[……審議会を招集するってのも手だが、何せ依頼主があの坊主だからなぁ…それにマギールも今は手が離せそうにはない。その日記はいずれあんたの所に帰ってくるんだろ?なら、それまで放置しておけ、手に負えないならもう付けるな]
「……その方がいいかもしれない。それで君の用件は?折り返してくれたって訳でもないのだろう?」
[街の様子はどうだ?何かおかしな所はないか?]
あまりに抽象的過ぎて返答に困っていると、彼女が遭遇してしまった理不尽な経緯を教えてもらった。それは偶然にも今、キリがここの警官隊から言われた中傷に近いものだった。
「その子は?無事に入院はできたのかい?」
[こっちは問題無い。そうか…やっぱりそんなおかしなデマが広がりつつあるのか…]
「無理もない話しだと思う、復興の目処がようやく立ったところなのにまた敵が現れてしまったんだ]
通話口の向こうでやるせない空気を感じた時、彼女が何かに気付いたようだった。
[待て、さっきの日記とやらはその区の警官隊が預かっているんだったな?]
「そうだけど…」
[あんたが初ではないんだろ?既に鑑識班が目を通しているんじゃないのか]
「…まさか、ノヴァグがピューマを狙うというデマを広げたのはこの区の警官隊?」
[いいぜ、それならいくらでもやりようがある。これは立派な違反行為だ]
111.c
「もう一度言ってみろ!こんのクソ忙しい時にお前さんは何と言ったんだ!!」
[だから、第十五区の警官隊へ秘匿権に関する違法行為で即時撤退命令と解散指示を出せって言ってんだよ。いいのか?このままだとノヴァグはピューマを襲うっつうデマで街が混乱してしまうぞ?]
「お前がやれっ!」
[私にその権限が無いからあんたに言ってんだろ!政略やってる暇があるなら仕事しろっ!こっちは人命がかかってんだよ!]
医師から立つなと言われていたのにあまりの怒りに腰が浮かんでしまった。政略をやっている暇があるなら?仕事しろ?だと?
「儂とて…セルゲイの為に政略などやりたくないわぁっ!!だというのにあちこちから詳細な報告を求められて…分かるかっ?!この儂の気持ちがっ!!」
[知るか!それに子供が一人入院を断られていたんだぞ?!そんなに席が欲しけりゃ総司令にくれてやれっ!]
「それが出来るならとうにやっておるわ馬鹿たれじゃじゃ馬がっ!儂が席を空けてしまったらアオラ!貴様の区長としての立場も無くなるのだぞっ?!」
[いいかマギール!こっちは私が何とかするから何が何でも総司令を退けろっ!今さらのこのこと戻ってきた野郎が座る席は歓楽街にしか無いって言ってやれ!]
「もう既に言っておるわっ!二度と儂に掛けてくるなっ!」
そのまま部屋の入り口に端末を投げてみせた、扉に当たって跳ね返り虚しい音を立てながら床に転がった。頑丈さというものは時として煩わしいと、床に落ちた端末からまだ響くアオラの声を聞いてそう思った。
[私に権限を寄越せっ!絶対にデマを潰してやるっ!ふざけた連中が、人がどんな思いをして中層からピューマを連れて来たと思っていやがるんだ…]
「それは儂の台詞だ馬鹿たれっ!後は頼んだぞっ!!」
ようやく通話が切れた端末を見届けてから大きく息を吐いた。次から次へと...為政の場に置いて、仕事は片付けるものであって生むものではないといつか懇々と説教してやりたい気分だ、見てみろこの仕事の山を!アルプス山脈を踏破した登山家も裸足で逃げ出すことだろうさ!
「酒だ…誰でもいいから酒を持ってきてくれ…」
「随分と荒れているな、これで少しは理解出来たか」
部屋に入ってきたのは、久方ぶりにその姿を見たヒルトンであった。床に落ちていた端末を拾い上げ儂に投げて寄越してから応接用のソファにその重たそうな腰を下ろした。
「何の用かね、この儂を担ぎ出した張本人が」
「総司令から通達があった、すぐにあんたの解任要求を政府に出すようにとな」
「はん、そんなもので退けるなら、」
「これに答えない場合はマギール、あんたが秘匿している事項を政府に陳述書として提出し、政治犯として身柄を押さえると言っていた」
「何かね、その秘匿事項というものは」
「ノヴァグと深い関わりがあるそうじゃないか。あんたが前に言っていたメインシャフトでの争い事というのは嘘では無かったんだな、それにだ、あの擦れた女が言っていた事も嘘ではなかった。マキナというSF的存在がこの街を支配していたということも」
「………」
「あんたは何者なんだ、本当にただの恩返しでこの街に訪れたのか?答えろ、場合によっては俺達も総司令につかざるを得なくなる」
「その前に一つよいかヒルトンよ、お前さんが預かる第十五区へ解散指示を出す予定だ。セルゲイの身内が隠し持っていたある資料について警官隊の中から口外した者がいる。さらに、それが原因でノヴァグにまつわる誤情報が街に出回り市民達を混乱させている。さて、政治犯の裁きはどちらに下るかな?」
「その話しは本当なのか?」
寝耳に水のようだ、こちらに身を乗り出している。
「第一区の区長からの報告だ、公的立場にある者からの話しとなれば虚偽申告として扱われまい。だがセルゲイはどうだね、ここ最近まで席を外していた者が街に帰るなり書き上げた陳述書など誰が信じる。信頼と時間は比例しておるのだよ」
「………」
「お前さんが儂の敵に回るというのなら止めはせん。ただ、その場合は解散後の再編成でいたく時間を取られることだろうな、これから夕食にでも出掛けるのか?最後の晩餐だと思って優雅に過ごしてくるがいい」
「分かったよ降参だ、俺から解任要求は出さない。ただ、さっきの質問には答えてくれ」
「無論、白だ。確かに儂はマキナと関係はあるが、それは私利私欲のものではないしこのテンペスト・シリンダーを憂いてものだ。マキナに体と心を持たせたのがこの儂だ、これで分かってくれたかな」
「…あぁ、あんたが一番敵に回してはいけない手合いだと理解できたよ。そうか…だからあんたは俺達に任せたがっていたんだな」
「理解するのが遅いわぁっ!!」
まだアオラのことで腹に据えていたものが口から出てしまっていた。ヒルトンよ、どうか許してくれ、そして儂に土産として酒を買ってきてはくれんか。
✳︎
降り出した雨によってコクピットの視界は煙りレバーを握る力を弱めていた。向かう先はカサンさんが搬送された病院だ、突貫工事で設けられた病院屋上の人型機発着場には既に何機か駐機されていた。どれも真新しく、病院のロゴマークがショルダーアートとして描かれている。カサンさんに会うのは躊躇いがあった、何故ならマギールさんの公務室で八つ当たりをしてしまったから。マギールさんを疑っていた訳ではなく私の質問に答えなかったマギールさんを怒ってくれたのだ。それだというのに...それにセントラルターミナルでの出来事も深いダメージを残していた。「戦いたくない、逃げ出したい」そう強く願ったのは生まれて始めて、守らなければならない市民を目の前にして私は逃げ出そうとしていたのだ。
発着場に機体を下ろし、雨に濡れた案内に従って機体を進め「臨時」と四角四面に書かれた場所に駐機させた。カサンさんが搬送された病院は第四区にあった、第六区とは隣接していることもあり(空路の場合)レジャー施設が軒を連ねる第六区の緊急搬送先として登録されているのだ。コンソールから機体制御のロックをかけてエンジンを落とした、ローターの回転音がまだ耳鳴りとして残る中、暫くの間私はシートでじっとしていた。
降りるのが怖かった。第一区の状況を聞いたらカサンさんは何と言うだろうか、厳しいあの人のことだ、怒られるならまだしも(勿論それも嫌だが)幻滅されてしまうかもしれない。そう思うとシートに沈んだ腰が上がらなかった。
◇
なかなか降りてこようとしない私を不思議に思い、病院の係りの人が迎えにやって来てしまった。これはさすがにマズいと思い、慌てながら機体から降りて係りの人に用件を伝えると快く案内してくれた。
夜の病院はとてもひっそりとしている、動き回る人は勿論、お喋りをしている人だっていない。
「先程まで起きていらしたのですが…」
そう、案内してもらった集中治療室の前で教えてくれた。ガラス張りの向こうでカサンさんが管に繋がれて横たわっていた。その痛々しい姿を見て胸が締め付けられ、セントラルターミナルの惨状がまざまざと脳裏に蘇ってきた。
(第六区の敵も同じ…カサンさんもああなっていたのかもしれない……)
集中治療室から看護師の方が手に何かを持って出てきた、私を見るなり小走りで駆け寄りその手にしていた物を渡してきた。
「関係者の方ですか?搬送された方の通信機をお預かりしてほしいのですが」
「あ、はい…」
搬送される時に取り忘れたのだろうか、カサンさんが使っていたインカムを渡された。そして、少しだけ迷惑そうにしていた看護師の方が取って付けたように「すぐに良くなりますよ」と言うだけ言って再び治療室へと戻っていった。
機体の中でぐずぐずしていなければ少しだけでも会話することができたかもしれない、そんな私に追いうちをかけるように治療室の明かりが落とされ外へ出るように促された。
◇
集中治療室から再び人型機発着場へ向かう道すがら、手にしていたインカムにコールが入った。リバスターの隊員か、あるいはマギールさんがかけてきたものと思い慌てて私が取ると相手はナツメさんからだった。
[その声は……スイか、どうしてお前が…]
耳元から驚きの声が上がり、言い訳をするようにカサンさんの現状を伝えた。
[あの結婚逃しもついにヤキが回ったか、街に帰ったら馬鹿にしてやらないとな]
「………」
ナツメさんの冗談にも答えられないでいると、
[何かあったのか?あのスイが黙りだなんて珍しい。「もぅ!そんなこと言ったら駄目ですよ!」ぐらいは言うかと思ったんだがな]
私の声真似だろうか、ちっとも似ていない。けれどわざとらしいその冗談には答えることができた。
「わたっし、そんな…声っ、してませんよ」
声に出した途端、自分の事がよぉく分かった、ずっと涙を堪えていたことに。前にもカサンさんとアオラさんから「もっと甘えてこい」と言われたばかりなのに、またしても自分の内側に塞ぎ込んでしまっていたのだ。
[で、何があった?]
「……こ、怖くて逃げたんです、目の前で殺されてしまう人達を見ながら、な、何も出来ませんでした」
びくびく怯えながら本音を話し、それでもやっぱり変わらなかったナツメさんの声を聞きながら頬に涙が伝っていくのを感じた。
[皆んなそうさ、私も未だに敵と戦う時は怖い。スイのその恐怖心は当たり前の事なんだよ、何故だか分かるか?]
「…わ、分かりません」
[死ぬのが嫌だからさ、誰だって死ぬのは怖い。だから人は「恐怖」という感情を持っているんだ、それがなかったらどうなる?]
「…す、すぐに怪我をしたり、」
[そう、命がいくつあっても足りなくなってくるんだよ。スイ、いいか、お前はもうただの女の子なんだ、気負う必要もないし危険に身を晒す必要もない。戦いたい理由と死にたくない思いを天秤にかけて、それでもまだ怖いんならすぐに前線から離れろ]
もう、お前は十分に戦ったんだよと、ナツメさんに優しく諭された。その言葉は怯えていた私の心を解してさらに熱い涙へと変わっていった。嗚咽を漏らしている間もナツメさんは通信を切ったりせず、ただ黙ってくれていた。
[そんな泣き虫のようでは私のお嫁さんにはなれそうにないな、グガランナから聞いたぞ、将来は私と結婚するってな]
「…い、言いまひた…」
ぐずぐずと鳴る鼻を何とか押さえながら返事を返した。発着場へ向かう廊下から見た第四区の夜空は未だ雨模様、けれど今はその雨音が火照った私の心を宥めてくれているようだ。
[私の嫁になりたいなら尚のこと前線から引いてもらわないとな、夫婦揃って前線を駆け巡るだなんて家庭崩壊もいいところだ。けど、お前は引くつもりはないんだろう?]
「………はい」
[いいか?もう一度だけ言うが、お前はもう戦う必要はないんだ。次、戦場に出る前はきちんと自分の中で整理しろ。敵と戦って家族を守ることと、家族の生活を支えるために家で家事をしているのも同じ戦いだ]
ああ...その考えは...今まで私の中になかったものだ。そうか、二人の為に家事をするのも守ることに繋がるんだ、戦う事しか知らなかった私にとってナツメさんの言葉はまさに晴天の霹靂だった。
(そっちの方が良い、けど今は…)
「はい、きちんと整理しようと思います」
[それでいい、その方がいいさ]
「その為にも今は、敵を退けたいと思います……ってあれ、ナツメさん?」
インカム越しでも分かる、ナツメさんがずっこける音がした。
[……何でそうなるのかなぁ…今の話しの流れは退くんじゃないのか?]
「いやいや、そんな悠長に家の中で待っていられませんよ。敵がいつ襲ってくるかも分からないのに、出来る事があれば全力でそれをやりたいのです」
[はぁー……その言葉、アマンナにも聞かせてやりたいぐらいだ…]
ここまで元気が出せるようになったのはナツメさんのおかげだ。私一人だけではきっと立ち直れなかったに違いない、改めてお礼を伝えるとインカムの向こう側がさらに騒がしくなった。
[はぁー!こっちにいるアマンナと交代してほしいぐらいだ!………スイ、今からでもこっちに来れないか?ここにいる穀潰しと、]
少し遠くから「誰が穀潰しだ!」と怒る声が聞こえてインカムを取り合う音、そして久しぶりに聞いたその声は、
[やっほースイちゃん、元気にしてた?]
「はい!アマンナお姉様!」
[いい?ナツメが変なこと言ってたけど気にしなくていいからね。それよりスイちゃんは大丈夫なの?]
その後暫く、基地へ帰投して報告しなければならない事も忘れてアマンナお姉様とお喋りの花を咲かせた。私が戦闘機だった頃にお世話をしてくれた初めての家族だ、その優しさは今も変わらず私に向けてくれてさらに元気が出てくるのを実感したのであった。
111.d
⁂
「あれは……何だ?」
カーボン・リベラ領空内を飛行していたリバスター第一小隊に所属するパイロットが、仮想投影された先にある異物とレーダーに反映されている光点を見比べながら独りごちた。第一区の街基盤を支える大支柱のその根元には、セントラルターミナルを襲撃したものと似た生物がいた。しかしその大きさが明らかに違う、カーボン・リベラの空を飛ぶこと自体に未だ慣れていないパイロットが慌てて基地へ連絡を取った。
「こちら第一小隊夜間パトロール、第一区の根本に敵の姿に似た異物を発見した、至急確認を取ってくれ」
その日、当直として基地のクリアランス・デリバリーに詰めていた通信員がやや呆れつつ返答した。
[報告は明瞭にお願いしますよ、何ですか異物って]
「見れば分かる、今そっちに画像を送るからマギール総司令に伝えてくれ」
リバスターの部隊構成は大きく二つに分けられる。一つは夜間を含むパトロール隊ともう一つは人命救助も視野に入れた前線部隊だ。パトロール隊の装備は哨戒ならびに斥候に向いた物ばかりで直接的攻撃力のある武器が殆ど無い。その頭部に設置された光学式カメラを用いて根本に存在している異物を撮影し、基地で待機している通信員に送ろうとメッセンジャーを起動した途端、その異物がにわかに動き出した。
「待ってくれ、動き有り……んん?」
[ちょっと待ってくださいっ、何ですかあなた達はっ……]
「おい!どうした?!」
異物を注視していたパイロットはさらに慌ててしまった、目前の異変にどう対応したらいいかと頭を悩ませていたのにコンソールからも何やら不穏な空気が流れ始めたからだ。まさか侵入者?そう訝しむのも束の間、コンソールから聞こえてきた声はセルゲイ総司令のものだった。
[夜間にご苦労だ。ここの基地とお前達の部隊には明朝にも解散命令が最高裁判より下される、早々に撤収しろ。これは命令だ]
(何が最高裁判だ…あんたの息がかかったただの身内じゃないか…)
コンソールを睨みはするが文句は言えない、何と情けないことかとパイロットが忸怩たる思いに沈んでいる間にも、根元潜んでいた異物が移動を開始していた。だが、それに気付かずパイロットはコンソールから流れてくる声に苛立ちを募らせているばかりで見向きもしなかった。
[マギールと名乗る男の狙いはこの街を掌握することにある、奴の行動には何ら正当性も無ければ未来性もない。直に審判が下されるはずだ]
そんな事はないと尚もパイロットは返答を拒んだ。マギールという人物は確かに得体の知れない相手だが、この街にもたらした恩恵は余りある程大きいものだった。ピューマによるカリブン最資源化に始まり、実に様々な職が生まれ基地の解体と同時に仕事にあぶれてしまった者達へ活気を与えてくれたのだ。さらに人型機という新しい特殊兵装の登場もあり、今やカーボン・リベラの街は今までに無い程「人手不足」に陥りどんな落ちこぼれでも引くて数多の大賑わいを見せていた。それに比べてあんたはどうだとパイロットは思う、昔がいかに閉塞的で怠惰な街であったことか、それらを指揮していたこの男、セルゲイ元総司令に従う心などもう残っていなかった。
「……申し訳ありませんが、私はリバスター部隊の隊員です。あなたのご指示には従えません」
[それが答えか?]
「はい。マギール総司令に感謝している者は沢山いるはずです、」
まだ何か言いたそうにしていたが、パイロットの頭上に現れた別の人型機によってその言葉が遮られてしまった。
[やれ、夾雑物は速やかに取り除かなければならない]
「あれは…確かターミナルを救ってくれた……な、何だ?!」
真円に近い月の下、深緑に彩られた機体がその手を掲げセルゲイ総司令に歯向かったパイロットへ向けられた。その一瞬の挙動でパトロールの任に就いていた人型機がコントロールを失い、異物が潜む大支柱の根元、タイタニスが作り上げた空間保護システムが行き届かない仄暗い底へと滑空を始めてしまった。伝えるべき情報を伝えられず、パイロットが生きては帰れない天空の底へと落ちてしまった。