夕焼けメロンパン
その子は、水を飲んでいた。
渇きを満たすためじゃなく、まるで砂漠でオアシスを見つけたかのように、がぶがぶと、ペットボトルに詰めた水を飲んでいたのだ。
冬が近づいてきたことで、夜の帳が下りるのも早くなった体育館のステージの裏。
行くところも行きたい場所もない、手持ち無沙汰なあたし──水瀬有朱が、いつも暇を潰すために使っていた場所だ。
そこにその子は陣取って、まるでこれを飲まなければ死んでしまう、というような勢いで水を飲んでいた。
「ねえ」
「……っ!? ごほっ、けほっ……!」
話しかけようか迷った末にそうしたけれど、どうやら放っておいた方が良かったらしい。
あたしは小さな後悔を胸に抱きながら、盛大にむせ返ったその子の背中をそっと撫でてあげる。
いやまあ、それもそうかと、そう思うのだ。
だって水飲んでる時にいきなり話しかけられたらむせ返るのは道理で、だったらなんで、あたしはこの子に話しかけたのか、という疑問が出てくるわけで。
衝動がそうさせていた、といえば多分聞こえはいいのかもしれないけれど、それで導き出されたものが、どうしようもない結果だったのなら笑うことだってできない。
けほっ、けほっ、とむせ返っているその子は、確かクラスメイトだったはずだ。
薄明かりが差し込むだけの空間で、まじまじと顔を覗き込めば、なんだか陰鬱そうに、目の下に隈を浮かべているその子の顔と、名簿に記されている名前が、脳裏を過ぎる。
「えっと、大丈夫?」
「……は、はい……ご、ごめんなさい……」
「確か……小日向結衣さん、だったよね」
クラスメイトの顔と名前を全て覚えているのは何かの自慢になったりするのだろうかと、そんな具合に思考を横道に逸らしながら、あたしは、探り当てたその名前を確かめるように、暫定小日向結衣さんへと問いかけた。
「は、はい……わたし……その……小日向、結衣です……ごめんなさい……」
「……なんで謝るの?」
小日向、という陽だまりを連想させる名字の子が、薄暗い体育館裏にじっと息を潜めている、というのもなんだかおかしな話に思えてくる。
けれど、それ以上にあたしは、突然謝ってきたことの方が気にかかった。
小日向さんは別にあたしと仲がいいとか悪いとか、そういう話以前に会話したこともない。
そして、特定の誰かであったり、誰かが属しているグループとの折り合いが悪いという噂だって、あたしは聞いたことがなかった。
じゃあなんで謝るんだろう、と、首を傾げて問い掛ければ、それ以上に小日向さんは困惑した様子で、ペットボトルを後ろ手に隠してしまう。
「ご、ごめんなさい……その、わたし……わたし、人と……話すのに、慣れてなくて……その……」
そして、ぺこぺこと頭を必死に下げる姿は、どこか可哀想でさえあった。
慣れてないなんて、別に珍しいことでもないと思う。
あたしの疑問と小日向さんの答えはどこまでも平行線だった。
喋れば喋るだけ反比例のグラフを描くように逸れていくような気がして、あたしも結局言葉を失って黙り込んでしまう。
人と話し慣れてないというのは、謝らなきゃいけないほど悪いことなのだろうか。
それともあたしの見た目が不良っぽいから、大人しそうな小日向さんに威圧感を与えてしまっているのだろうか。
よくわからないけど、考える。
確かに髪は薄茶色に染めているし、ピアス……は、開ける度胸がないからイヤリングもしている。
そんなあたしはやっぱり不良で、小日向さんのような人種からすれば存在しているだけで天敵なのだろうか。
とりあえずは彼女の隣に座り込みながら、あたしはそんな益体もないことを考えて小さく唸り声を上げる。
「むう……」
「あ、あの……その……」
「あたしってそんなに不良に見える?」
ドラ娘である自覚はある。
別に家族と折り合いが悪いとかそういうわけじゃないけれど、家に帰ってもどことなく居心地が悪くて、身の置き場に困るから、こうして昼休みだとか放課後だとかはここで音楽を聴きながら時間を潰しているのがあたしという人間だった。
思えば家族と最後に会話したのは、ちょっと前に百点を取った小テストの結果がどうこう以来で、あとは淡白な、いただきますだとか、ご馳走様だとか、そういうやり取りがそこに横たわっているだけだ。
だから、小日向さんと、噛み合いはしないけれど言葉を交わしているというのはあたしにとってはどこか新鮮だった。
そこに小さな興味の種が埋まっているのだと、脳の回路が導き出した演算の結果に従って、あたしはどことなく無遠慮に、黒髪を綺麗に切り揃えながらも腰まで届くほど伸ばしている彼女の顔を覗き込む。
涙に潤んでいる鳶色の瞳は、まるで琥珀を押しかためて研ぎ出したかのように綺麗だし、さりげなく右側の髪束を纏めているバレッタのセンスだって悪くない。
なのに、この子はどうしてこんなに怯えているんだろうと、あたしはそんな疑問に首を傾げつつ、体育館裏の壁に背中を預ける。
「……そ、その……そうじゃ、なくて……わたし、お友達とか……いないから……その、水瀬さんを……不愉快にさせてるかどうか、不安で……」
えへへ、と、精一杯に笑顔を作ろうとしたのだろう。
まるで無理やり、向きの合わないジグソーパズルのピースを嵌め込もうとして、そして壊してしまったような笑顔だった。
そんな風に笑う小日向さんは、ううん、違う。
笑えていないんだ。
あたしは自分の唇の端を指先で持ち上げる。
不器用な、そしてどこかで破綻してしまった小日向さんの笑顔に、不謹慎かもしれないけど、どこかでシンパシーを感じていたんじゃないかと、そう思う。
上手く笑えないとか、そういうことじゃなくて。
どこかで何か、ピンが抜けてしまったような、そうじゃなければ間違ったところで折り目をつけてしまったような、そんな感覚。
あたしはそこに、流行りのポップスを静かに想う。
間違い探しがどうたらこうたらというあの歌は、そんなに嫌いじゃなかった。
それでも一つ、どこかでボタンをかけ間違えたなら「間違い」の方に押し込まれて、得体の知れない、もやもやとした感情を抱えて生きていかなきゃいけないこの時代は、ちょうどこの体育館の舞台裏のように息苦しい。
──別に、気にするようなことでもないと思うんだけどな。
そんな風に、無責任に否定することで、逆説的に彼女を肯定することは簡単なのかもしれない。
でも、それでいいのかと、本当にそんな、無責任に、何も知らないあたしが深入りしてもいいのかと、どこかで理性が警告を出して、舌を上顎に貼り付かせている。
人の心に踏み入るのには資格がいると、どこかの誰かが嘯いていた。
それって人の心検定何級を取れば、誰かの心に踏み入れるのだろう。
逆に誰かが人の心検定何級を持っていれば、あたしの心にそいつは踏み入ってくれるのだろうか。
気怠く、重たい時間だけがあたしたちの両肩にのしかかって、ゆっくりと、ゆっくりと秒針を押し進める。
でも、そんな検定なんて、きっとこの世のどこにもない。
人の心なんて言葉で普遍化できるならきっと世の中はもっと簡単だったんだろうか。
クオリアを、夢を共有できる世界を描いた映画のことを思い返す。
あれだって、誰かの夢を勝手に流し込まれた誰かが、気が狂った果てに身投げじみたことをしていたはずだ。
いつか、生きるのって難しいね、と、小さい頃に点けたテレビの中で、死に瀕するヒロインが、主人公に向けてそう零していた。
くう、と、気が抜けるような音が聞こえたのは、その光景と小日向さんの横顔が、ふと重なり合ったその時だった。
「……あ、あ……え、えっと……ごめんなさい……っ……!」
「……お腹空いてたの?」
「……あ、あの……え、えっと……その……えへへ……ごめんなさい……」
──だから、水を飲んでいたんです。
どこか懺悔をするように、小日向さんはそう呟いた。
お昼ご飯はどうしたの、なんて聞けるような話じゃないことぐらい、泣いているのを取り繕おうとして失敗した、笑顔の残骸を見ていればそれだけでわかる。
ああ、と、合点が行ったようにあたしは心中でぽん、と右の拳で左の掌を打ち据える。
だから、小日向さんは水を飲んでいたのだ。
空腹をごまかすために。
今日という日を食いつなぐために。
それはきっと、あたしが考えているよりも遥かに過酷で、そして、あたしなんかがきっと踏み入っちゃいけないくらい、途方もないもので。
「……これ、食べる?」
それでも、あたしは。
あたしはどうしてか、小日向さんに話しかけていた時と同じように、学食で買ったのはいいけれど、持て余していたメロンパンを学生鞄の中から取り出して、彼女へと手渡していた。
「……え、あの……そ、その……」
「あたし、お腹空いてないから」
「……い、いいんですか……?」
「うん。多分きっとメロンパンもその方が喜ぶだろうし」
モノに気持ちがあるかどうかなんてわからないし、考えたくもない。
けれど、それでもあたしは、きっと小日向さんに手渡さなければ家のゴミ箱に放り込むか、鞄の中にしまったままにしていたであろうメロンパンのことを想う。
「……あ、ありがとう、ございます……っ……ありがとう、ございます……!」
ぽろぽろと涙をこぼしながらメロンパンに齧り付く小日向さんの姿はきっと、見る人が見れば痛々しく映るのかもしれない。
そしてあたしが、一体こうすることで彼女にとって、なんの役に立てているのかだってわかったもんじゃない。
──それでも。
それでも、生きることが、ただ生きていくことそれ自体が難しいなんて、あってたまるかって、そう思ってしまったんだ。
生きていく上で決めていかなきゃいけないあれこれだとか、そういうことに悩んだり、吐いたり、四苦八苦を重ねて七転八倒するのはまだいいとしよう。
それでも、今日この日にメロンパンを食べられなくて、そして三百円かそこらで買えるメロンパンにありついて涙を流している子がいる。
だったらそれって、間違ってるんじゃないだろうか。
あたしでも、小日向さんでもなく、世界の方が。
このろくでもない新自由主義に蝕まれて、歯車から振り落とされないことに追い回されて生きなきゃいけない、世界の方が。
だからあたしは、爪を立てるように、いつか剥がれて痛い目を見るとしても、必死に抵抗するように。
この夕暮れの体育館で、彼女にメロンパンを手渡したのだ。
もそもそと、鳥が啄むような速度でメロンパンを消化し切って、残りを水で流し込む小日向さんの瞳からは、大粒の涙が零れ落ちていた。
それはどこか、血を流しているようで。
「……ありがとう、ございます……水瀬さん……ありがとうございます、わたし、おなか、すいて……っ……」
「……有朱でいいよ、ついでに気にしなくてもいいよ」
だって、そっちの方がきっとメロンパンにとっても、小日向さんにとっても幸せだろうから。
だったらそこに謝る必要もなければ気にする必要もない。
青臭くて、子供染みていて、だけどシンプルな理屈を振りかざして、あたしは世界の歯車に爪を立てる。
「……あ、あの……え、えっと……わ、わたし……」
「ん、そっか……あたしだけ名前呼びなのもあれだよね。結衣って呼んでいい?」
「え、えっと……!」
キャパオーバーを起こしているのか、頭から蒸気でも吹き出しそうな勢いで、小日向さん改め結衣は、手をぶんぶんと左右に振りながら、頬を真っ赤に染めていた。
──可愛い。
これはきっと、ううん、間違いなく不謹慎だけど。
それでも、顔を真っ赤にしている結衣の姿は、あたしが見てきたどんな芸能人よりも、そして誰よりも愛らしく、この瞳に映ったのだ。
「……そ、その……いい、ん、ですか……?」
「ん、別にいいよ」
「……え、えっと……わたし、ですよ……? 暗くて、なんの取り柄もなくて、気持ち悪い、わたしなんかが……」
「あたしはそう思ってないよ」
随分自己評価が低い子だな、と、そんな具合に苦笑したけれど、きっと笑い事じゃあないんだと思う。
どうしてだろうか。
よくわからないけれど、結衣が泣いていると、あたしに何ができるかはわからないけれど、どうにか、なんとかしてあげたいという気持ちが湧いてくる。
でも、悲しいことにあたしは一介の女学生でしかないわけで、結衣が抱えている茫漠に、どれだけ触れることができるのか、触れる資格があるのかなんて、さっぱりわからない。
それでも。
「……有朱、さん……」
「ん……やっと名前呼んでくれたね、どしたの、結衣」
「……え、えっと、その……ごめんなさい、呼んでみた、だけで……」
「あはは、そっか」
まあ、呼んでほしいって言ったのはあたしの方だし、本当に律儀な子なんだなあと、そんなことを思ってしまう。
多分それは、気持ち悪くなんかないよ。
きっと、人が優しさと呼ぶ、結衣の綺麗なところなんだよ。
なんて、初対面で口に出すのはまだ気恥ずかしいけれど。
思うことぐらいは間違ってないんじゃないかな。
そう、照れを隠すようにあたしは学生鞄からルイボスティーを取り出して、一息に、舌先まで出かかった言葉と共に、なんとも言えない味のする液体をくいっ、と飲み下す。
「ねえ、結衣」
「……は、はい……有朱さん……」
「明日もここ来る?」
別にどっちでもよかったけれど。
それでも、あたしにできることがあるならこれぐらいだろうな、と思いながら、そんなことを問いかける。
「……そ、その……いい、ん、ですか……?」
「だってここ、誰のものでもないし」
強いていえば学校のもので、あたしと結衣が黄昏時の今、不法に占拠しているというだけの話だ。
そんな具合に苦笑しながら、あたしは結衣の疑問を肯定する。
確かに、あたしだけの秘密基地のつもりだった場所に、知らない誰かがいるというのは小さなストレスだったかもしれないけど。
今、知り合いになったからそれでいい。
多分、きっと。生きるのなんて、このぐらい簡単な方が望ましいのかもしれない。
なんて、人生の半分も生きていない、青二才もいいところなあたしは考えて、考えて。
「明日もメロンパン、買ってくるから」
「……っ……有朱、さん……」
「じゃあ、また明日。結衣」
そんな答えと約束を、明日へと、そして三百円のメロンパンへと託して、あたしは黄昏の体育館裏を後にする。
きっと明日も、結衣がここに来てくれることを、願いながら。
以前に書いていた打ち切り作品への供養と現在執筆中の「悪役令嬢は追放されたので錬金術師としてアトリエを開くようです」の息抜きに書いた百合です