揺らめく暗示
――暗闇の中を飛んでいる。
ユラユラと羽を揺らしながら、暗闇の中を黒い蝶が飛んでいる。その暗闇と呼べる空間には何も無く、光すらも確認する事が出来ない。飛んでいる蝶が微かに白く発光している様子も確認出来るが、それでも眩しいと思える程ではない。
微かな光が点滅しているだけで、他に目立つ物は何も無いのが見て分かる。暗闇に包まれた空間の中で飛んでいた蝶は、やがてこちらへゆっくりと近付いて来る。その蝶が停まるのかと思い、その蝶へとゆっくり手を伸ばしてみた瞬間だった。
ジリリリリリリリリ……。
「ん~~……」
耳鳴りにも似ている騒音に襲われ、微かな頭痛にも襲われながら目を開けた。数回瞬きしてボーっとしていると、徐々にぼやけた視界がクリアになっていく。その瞬間、自分がさっきまで見ていた光景とは真逆の空間に居る事を理解出来た。
そこは良く知っている天井が広がっていて、僕は目を擦りながら状況を把握する。未だに耳障りな騒音が聞こえている中で、微かな寝苦しさを覚え始めて寝返りを打った。
「……もう、朝?」
外ではミーンミーンと蝉の鳴き声が聞こえる。夏空の代表とも言っても過言ではない照り付ける太陽の明かりが、カーテンの間から顔と腰に直撃しているのが原因だろう。かなり寝苦しく、寝汗はびっしょりと布団に染み込んでしまっている。
冷たい感覚と汗で肌にくっ付いている気持ち悪さを感じながら、僕はむくりと気怠く起き上がって伸びをする。大きな欠伸をしながら伸びをしていると、コンコンと部屋の扉がノックされる。
『おにい、起きてる?起きないと遅刻しちゃうよ?』
「……ふわぁ~あ、起きてるよ。今行くから下で待ってて」
『はいはーい。……――何だ、起きてたんだ』
何かブツブツと言いながら、妹の足音が部屋から離れていく。下の階へと向かって行く様子を耳で聞きつつ、僕はベッドから降りて汗塗れのシャツから制服へと着替える。べったりとして気持ち悪い事から解放されたいが為に脱ぎ捨て、新しいシャツに袖を通して制服のズボンを穿いて部屋を後にした。
寝惚けた頭のまま階段を一段ずつ降り、定期的に来る睡魔に抵抗しながらリビングへ向かう。
「ふわぁ~あ、おはよう、未来」
「随分と眠そうだね?また夜更かしでゲーム?」
「ゲーム『も』してたの。テスト勉強もちゃんとやってたよ?少しだけど」
妹――瀧本未来とそんな言葉を交わしながら、僕は朝食が並んだテーブルの椅子に腰を下ろす。目玉焼きとベーコンに食パンというシンプルな朝食だが、僕はこういう朝食が一番好きである。
「おにいが勉強ねぇ。……出来たの?」
「ある程度は進んだと思うけど、正直言って微妙かな。結局ゲームの方が力入れちゃったし」
「おにいはそうだろうね。テスト勉強、あたしもやらないとなぁ」
「何だよ。僕に言っておきながら、未来は何もしてないんじゃないか」
「だっておにいの妹だよ?テスト勉強だけで集中力が持つ訳ないじゃん」
「いや、そこを威張られても困るんだけど」
何を威張っているのかと思いつつ、僕は食パンに目玉焼きを乗せて一口齧る。未来も朝食に手を付け始めている。キッチンの流しには、未来が洗う予定であろう調理道具が入っている。誰でも出来る簡単な料理だが、家事全般は未来に任している。
両親の不在が多いという事もあり、一日交代で僕と未来で家事を担当している。そして今日は、未来が担当しているという訳である。そんな事を思いながら、僕は朝食を完食して食器を片付けをし始めていた。
「あ、おにい、あたしがやるから洗わなくて良いよ?」
「別に良いよ。昨日の夜、一緒に洗ってたんだし」
「ほんと?じゃあ、お願いしようかなぁ……」
未来は「えへへ」と言いながら、僕の提案を受け入れてパンを齧る。キッチンにある洗い物をしつつ、僕は未来が食べ終わるのを待つ。キッチンにある洗い物が終わり、腕まくりをしていたシャツを元に戻した。
やがて未来も食べ終わったらしく、ブレザーに袖を通し始めた所で僕は呼び止める。
「制服取ってくるから、戸締りよろしく~」
「はーい。なる早でヨロシク」
そんな事を言った僕は、自分の部屋へと行って制服と鞄を取りに行く。夏だというのにもかかわらず、僕と未来が通っている学校は常にブレザーを羽織らなくてはならない。暑い季節だというに着なくてはならないというのが、個人的に溜息が止まらない案件である。
「おまたせ」
「戸締りは大丈夫だよ。鍵持った?」
「あれ?未来、今日は部活?」
「一応、部活。テスト期間だから、私物を取りに行くだけだけどね」
「そっか。じゃあ今日はそのまま夕飯買いにでも行くか?」
いつもは家事担当となったどっちかが買い物をするのだが、たまには一緒に買い物をするのも良いだろう。何度も買い物に行くより、一ヶ月分の買い物をしてしまおうと思っていたところだ。その考えが伝わったのか、未来は少し考えてから結論を出した。
「――じゃあ、一緒に行こうか」
「分かった。んじゃ、放課後に未来の教室に行くよ」
「そ、それはダメ!!」
「っ!?」
突如として身を乗り出して、頬を膨らませて未来はそんな事を言った。その行動に驚いた僕は、後ろに仰け反りつつ首を傾げて理由を尋ねた。
「何で?」
「だ、だって……からかわれるじゃん。友達とかに、さ」
「???」
両手の指先を互いにもじもじとしながら、未来がほんのりと赤くしてブツブツと言っている。何をそこまで拒否する理由があっただろうか?という疑問が浮かんだが、僕は理由が思い当たる事が無いまま別の提案をし始める。
「じゃあ、校門前に集合?」
「そ、それで!あたしの友達、くだらない話とか大好物だからさ。それをダシに色々と聞かれるのは、ちょっと……ね、あはは」
「そっか。じゃあ校門前に集合って事にしよう。無理そうになったら連絡くれな?」
「わ、分かった!そうする」
そう言って頷く未来。やがて学校に辿り着き、僕達は互いの教室へと向かう。その途中、僕は廊下から外に視線が動いた。するとそこに広がる景色を見た瞬間、僕は足を止めざるを得なかった。
何故なら、夢で視た世界とは違うけれど――夢の中に出て来た蝶が外で飛んでいたのである。正夢かと思いつつも、白く発光する黒い蝶なんて目立つに決まっている。僕の他にも気が付いている生徒が居るかもしれないと周囲を見てみる。
だがしかし、その蝶を見ているのは僕しか居ないようだった。誰も外は見ておらず、廊下で談笑する生徒や自分の教室へと欠伸をしながら向かう生徒。視界に入る生徒達は皆、そういう生徒の姿しか見つける事が出来なかった。
黒い蝶に気付いている人間というのが、僕しか居ないという事をその時に悟った。どうして?正夢?それとも偶然?そんな思考をグルグルとしつつ、僕は窓の向こう側に居る蝶から目を離す事が出来なかった。
やがて夢でやった事をリプレイするようにして、窓を開けて蝶へと手を伸ばしてみた。すると蝶はゆっくりと僕の手に近寄ったが、しかし停まらず事は無く空へと飛び立ってしまった。
「……」
その様子を見届けている間にチャイムの鐘の音が響き渡り、ハッとして我に返って教室を目指す。この時の僕は、何も知らなかった。いや、この不思議な光景を深く考える事を放棄していたのだろう。その結果が、あんな結末を迎える事になるとは想像も付かないだろう。
――黒い蝶を見た。
黒い何かが過ぎったとか、黒い猫が目の前を通った。そんな話を聞くと、僕の知る限りは不吉な事が起きるという話を聞いた事がある。だがそんな物は迷信だと思いつつ、心の底では怖いもの見たさという好奇心もありつつ、そんな話を聞いていた記憶はある。
だが、それでも現実味が無いというのが本音である。だってそうだろう?身近にある話の中で、自分の見た物以外の話をどう信じれば良いのかという根本的な話になってしまうのだ。
「……ふわぁ~あ」
『瀧本、眠そうならこれを解いてみろー』
「げっ……はーい」
『解けるなら寝てても構わんぞ』
「めちゃくちゃ頑張ります」
そんな傍から聞けばクダラナイ会話をしつつ、黒板に板書された問題を解こうとする。先生からチョークを受け取り、問題の前でしばらく解き方を考える。別に頭を良い訳ではないけれど、体裁を保つ為には問題を解くように考え込む。
ちなみに結果は問題を解く事は問題なく終わり、全ての授業が終わって放課後である。未来との待ち合わせの事も考えて、時間を潰す為に図書室に向かおうとしていた時だった。
――再び、あの黒い蝶が目の前を過ぎったのである。
次は、校舎内に入ってしまっているらしい。そう思った僕はその蝶を追い、校舎内でゆっくり歩を進める。やがて上り階段へ差し掛かった時、未来から通話が掛かって来た。どうしたのかと思いつつ、僕はその受話ボタンをタップして耳に当てる。
依然として足取りは蝶を追いながらで、僕は未来と言葉を交わす。
『おにい、今どこ?』
「あ、うん。今三階から屋上に行くところかな」
『え、何で?』
「珍しい蝶が居てさ、それをちょっと追ってる」
『あはは、何猫みたいな事してるのさ。もうあたし校門で待ってるよ?』
「あぁ、分かった。すぐに向かうよ」
『はーい。なる早でヨロシクねぇ』
ピッと通話を消した時には屋上へと辿り着き、僕は夕日の陽の光を浴びながら黒い蝶を見つめた。やがてフェンスに停まった蝶は、羽を休めるように停まっている。それに手を伸ばすとすぐに蝶は危険を察知して飛び立ってしまい、僕は肩を竦めつつ未来の待つ校門へとかかとを翻す。
やがて校門に辿り着いた僕は、未来の小言を受けつつも買い物へと向かう。結局、不吉な事なんて起きないではない。そう思った瞬間であった。
キキーーーーーーッッッ!!!!
甲高いスキール音が脳内に響き、反射的に僕はその音のした方を見た。するとそこには、急ブレーキをしているらしいトラックが赤信号を通り過ぎている。危険な行為だと思いつつ眺めていると、徐々にそのトラックはこちらへ近付いて来ているような気がした。
「おにい?」
だが身体が思うように動かなくて、僕は渡り途中の横断歩道の中心で足を止めてしまっていた。振り返っている未来の声が微かに聞こえる中で、トラックの動きがスローモーションに見えている。だがしかし、そのスキール音だけが妙に激しく聞こえて来ている。
まるで「逃げろ」と本能がざわついているかのように。だがしかし、僕は動く事が出来なかった。
「っ!?」
僕の視界が回転し、グルグルと視界全体が回転し始める。やがてドサッという鈍い音を響かせながら、僕の視界にはオレンジ色に染まった空が広がっていた。微かに視界が霞みつつある中で、未来が覗き込んで僕の身体を揺らしているのが分かる。
だが声は聞こえず、聞こえたとしても徐々に遠くなっているのが分かる。朦朧としてきた意識の中で、僕の視界にあの黒い蝶が飛んでいた。それはゆっくりと僕の鼻先で動きを止め、羽を休めるように停まり始めた。
それを見届けた瞬間、僕の視界は真っ暗に染まった。そしてそれは白く、微かに発光しながら羽を揺らすのであった。
僕の意識は――……そこで途絶えた。