バイト先
「もしかしてここか?」
「そうです。思い出しましたか?九条くん、ここで厨房やっているそうです。メニューとかみたらなにか思い出すかも知れませんね」
そう言いながら一樹は店のドアを開けると店員が入り口に飛んできた。
「いらっしゃいませー……。あっ!紅月先輩!大丈夫なんですか!?なんか記憶をなくしたとか何とか……」
「ああ、大丈夫だ。奏ちゃんには迷惑をかけたな……」
「え?九条くん、奏さんのことは覚えてるんですか!?」
「いや、顔を見たら自然に。笹原奏、だよな?俺の後輩」
「そうです!よかったぁ。私のことは忘れないでいてくれたんですね」
「えーっと……。如月さんが聞いたら怒るかもしれませんね。でも、なんにしても思い出すのは良いことだと思います。この調子で思い出していけばいいと思います。アルバイト先に来たのは正解でしたね」
「それじゃ、紅月くん。早速なんだけど厨房、入れるかい?ゆっくりでいいから」
店長らしい人にそう言われてバックヤードで制服に着替える。どこのロッカーに制服が入っているのか迷わずに身体が動いた。ここのこれは俺の記憶なんだろうな。
「すみません。ちょっとメニュー、見せてもらっても良いですか?」
まずはなにを作るのかを見れば、ここの記憶がどうなっているのか分かる。
「それじゃ、僕が試しに注文してみますね。オムハヤシをよろしくお願いします」
「オムハヤシ……」
次々に身体が動く。オムハヤシ……、それはこの店の看板メニューだ。卵を割る手も手慣れているのが分かる。一度も戸惑うことなくオムハヤシは完成した。
「どうだ?」
「そうです!この味です!この店のオムハヤシの味です!」
「そうか。ここの記憶は思った通りの内容みたいだ。店長、ちょっとやってみます」
そのあとも色々な注文が入ったが、戸惑うことはなにもなかった。メニューで完成品の写真を見ることなく手が勝手に動いた。
「紅月先輩、記憶をなくしたなんて嘘なんじゃないですかぁ?だって今日は完璧だったじゃないですか」
閉店後に掃除をしながら奏ちゃんがそんなことを言う。確かにそうだ。なんでこの店の手順だけこんなにはっきりと覚えているんだ。
「俺にも分からないんだよ。なんでこの店の働き方というか動き方はこんなに身体がはっきり覚えているのか。最近まで学校に行くのだって、転校したてのような感覚だったんだ。この店だって一樹に連れてきて貰わなかったら分からなかったんだぞ」
「まぁまぁ。店長としては大事な戦力がいなくならなくて良かったよ。紅月君がいない間、大変だったんだから。でも戻ってきてくれると思って新しいバイトは雇わなかったんだよ」
「ありがとうございます」
その日、家に帰ってからは写真でも見て自分の記憶を呼び覚まそうとしたけど……。
「俺は今、なにをしようとしたんだ?」
ポケットに手を突っ込んで何かを取り出そうとしていた。地図を探しているときと同じような感覚だ。ポケットの中に写真なんてあるわけがないのに。
俺はなにも写真を撮らない主義だったのか?もしくは捨てたか。アルバムには家族と如月美桜、瀬見原夏海との写真以外はなにも無かった。他のアルバムは無いかと母さんに聞いたけど、自分の部屋にあるもので全部だという。
「うーん……参ったな……。手がかりなしじゃないか。まぁ、仕方ない。ここまで来たんだ。悩んでもなにが変わるわけででも無い」
もうここまで来たので悩む必要はない。ここから新しく学生生活を送ればいいんだ。そう言い聞かせてベッドに潜り込む。
「紅月~、美桜ちゃんから電話」
ベッドから起き上がってドアを開けると母さんが電話の子機を持って来てくれていた。
「もう寝てた?奏ちゃんから聞いたんだけど、バイト先のカフェの記憶、全部覚えてたんだって?」
一樹は美桜が聞いたら怒るとか何とか言ってたから怒られるのかな。なんか気まずい。
「ああ。不思議と。奏ちゃんの事も覚えていた。後、メニューとか全部」
「私はオムハヤシ以下ってことなのね……。なんか怒る気も無くすけど、奏ちゃんの事だけは覚えていたのはちょっと悲しいかな」
そりゃそうだ。彼女である自分のことは忘れているのに、バイト先の後輩のことは覚えていたんだから。自分が逆の立場だったら嫉妬するだろう。
「なんかすまんな。自分でもよく分からないんだよ。でさ、もしよかったら、明日出かけないか?美桜とゆっくり話がしたいのと、俺と美桜がよく行っていた場所に行ってみたい」
バイト先の記憶があったのだ。他にもどこか記憶にある場所があるに違いない。
「それは夏休みすっぽかしへの埋め合わせデートかしら?構わないわよ。それじゃ、10時に駅の時計台の下ね。今度はすっぽかさないでよ」
「分かった。おやすみ」
夏休みのすっぽかし。俺はいったい何処で何をしていたんだろうな。思い出せない。なんにしても明日は絶対に遅れるわけには行かないし、早く寝よう。
で、待ち合わせの時計台に約束の時間。
「10時半……まさか仕返しで俺がすっぽかし食らうんじゃ無かろうか」
美桜が来ない。あんなに10時って自分で念押ししてたのに。9月だというのに日差しがまだ夏のそれだ。帽子でも被ってこればよかった。腕を組んで指をトントンさせながらあたりを見回す。でもまぁ、俺がすっぽかしたときはずっと待ってたって言ってたし、ここは待つべきなんだろうな。
「あれ?先輩。こんなところで何をしてるんですか?」
「やあ、奏ちゃんか。美桜と待ち合わせ。10時約束なのに、あいつ、まだ来ないんだよ」
「ええ?もう11時じゃないですか。先輩、時間間違えてるんじゃないですか?」
俺もそう思って昨日取ったメモを確認したのだが、間違いなく10時と書いてあった。
「ま、夏休みに俺が約束をすっぽかした事があったらしいから待つよ」
「そうですか。まだ暑いんですからあまり無理しないで下さいね。それじゃ、私はこのあとバイトなんで」
「ああ、じゃあな」
それにしても美桜のやつ、何やってるんだ。まさか事故にでも遭ってるんじゃないだろうな。急に心配になってくる。
「外からでも電話出来たらいいのにな」
駅前の公衆電話を見ながらそんなことを思ったが、家にいるならまだしも、外を歩く人間を電話で捕まえることなんで出来ない。そんなときのためにポケベルなんてものが……。
「ポケベル?」
懐かしい響きだ。アステル、なんてキーワードも頭に浮かんだ。
「11は『あ』、12は『い』……」
俺は公衆電話に走ってテンキーを押す
『7215800480127145042552129367』
それから暫く経っても美桜は現れなかった。あいつ事故にあっているとかそう言うのではないだろうな。心配になってきた。
「まぁ、合格かな。私もそんな感じだったんだからね!?連絡もつかなかったし。紅月はポケベル持っていないし」
後ろから美桜の声がして振り向くと美桜が優しく微笑んだ。白いワンピースなんて定番の夏の装いだ。茶髪が流行っていて、昨日までの美桜は薄い栗色の髪だったのに今日の美桜は肩のの上辺りまでの長さに切ったきれいな黒髪が風になびいている。
「なんだ。人が悪いな。夏休みの仕返しってやつか?」
「そう。私はあのカフェからずーっと見てました」
そう言って指さしたのは駅の2階にあるカフェ。
「俺がこの暑さで倒れたらどうする気だったんだよ」
「それ、紅月が言う!?私なんて8月の灼熱の下で待ってたのよ!?」
「すまんすまん。反省してる。でも俺、美桜との約束をすっぽかして何処で何をしてたんだろうな」
「そんなの私が聞きたいくらいよ。思い出したら絶対に教えてよね」
「分かった。約束する」
その日のことを思い出したらなにか分かるのだろうか。わからないが、その日はなにか重要なことがあった気がする。
美桜は俺の手を引いて色々なところへ連れて行ってくれた。駅前の商店街。買い食いしたというお店。俺が「今川焼き」と言ったら美桜は「大判焼き!」と言い返してきて。昔もそんなやり取りをしていたらしい。
「なんか思い出してきたみたい?さっきの大判焼きのことも自然な感じだったし」
「なんとなくな。あと、アレは今川焼きだ」
その後、近所の駅からちょっと電車に乗った先のショッピングモールにも足を運んだ。美桜の大事にしている桜の髪留めはここに入っていたお店で買ったそうだ。今はもう閉店してしまって無いらしいけど。そして最後に向かったのは公園。大きな池がある公園で春に来たら桜が綺麗だろう。
「ここね。紅月が私に告白してくれた公園なんだよ。このベンチで。私の隣には夏海がいて。休日のお昼だったから周りにもたくさん人がいて」
今の夕暮れの公園はカラスの鳴き声が響いて、閉園間際の遊園地のような寂しさが漂い始めていた。
「あの時ね。すっごく恥ずかしかったんだけど、すっごく嬉しかったの。紅月が初めて私のこと好きって言ってくれて。でもあんな大勢の目の前で公開告白、本当に覚えてないの?」
「すまんな。その時、俺はなんて言ったんだ?」
「ええ……それ、言わなきゃだめ?」
「聞いておきたいな。だって、俺と美桜の大事な思い出なんだろ?だったら俺も知っておきたい」
そう言うと美桜は胸に手を当てて大きく深呼吸をしてこう言った。