記憶と現実
「結局、なにも変わらないか。僕にの記憶を売ってくれないか、って言われたときに記憶の欠片を少しでも自分に残すことができたのなら、現実世界も少しは変わるかと思ったんだが。利用させて貰った彼には悪いことをしたな」
店の二階、かつての妻、玲香が座っていた場所の前に立って一樹はつぶやく。そこには彼女の姿はなく、墓石も確認してきた。
しかし。このあの記憶の世界で監視者なんて言ってた彼女、瀬見原夏海、という人物。僕はあの世界で確かに彼女を愛した。どこかで玲香は助からないと思っていたのかも知れない。
「そうだな。彼女の部屋は現実世界のものだと言っていた。あの場所に行けば彼女に会えるかも知れないな」
しばらくそれをおぼしき場所を探してみたが、町並みが違う。やはりあの記憶の世界は作られた世界なのか。
「なんて不完全なシステムだよ。記憶を入れ替えても、存在しない場所じゃあこっちに戻ってきたときに悲しみが増すだけじゃないか」
「そうね。記憶は元々あやふやなものだから。自分の思い描いた理想の過去に他人の記憶でやり直すの。それで美しい過去だったな、楽しい過去だったな、あなたのように何もない平凡な過去が良かったな、そんな風に終わるはずのものなの」
「えっと、君は……」
「そ。奏。本当はいけないんだけど、同期のよしみってやつで。居るわよ。彼女。玲香さんの記憶を持って。外見は夏海だけど」
「やっぱり、玲香は向こうの世界で亡くなったんですね。それで青春が途切れてこっちに戻ってきた。でも僕を庇って亡くなったはずの玲香がなんで……まさか……!九条くんの中の僕が!?」
「そ。そういうこと。でもその後があなたの考えていることとは多分違うわよ。紅月が車に跳ねられそうになったのを助けようとしたのは美桜。それをさらに助けようとして玲香さんは犠牲になった」
「そんな……僕が居なければ彼女は庇う相手が居なくなると思ったのに!」
「残念ながら。美桜の中には玲香さんの記憶が入っていたから。庇うことになっていたのかも。でもオリジナルの玲香さんはそれを良しとしなかったんでしょうね。それで?聞かないの?夏海の居るところ。彼女は会いたがっていたわよ」
僕はそれでもいいのだろうか。玲香の記憶を持っていたとしても、夏海ちゃんは別人だ。でもあの記憶の世界で愛したのは夏海ちゃんだ。玲香を裏切ることになってしまった。
「あー、もう。いいのよ。向こうの世界で好きになったのは夏海なんでしょ?玲香さんは貴女が幸せになって欲しくて向こうで身を引いたのよ?」
「でも……」
「めんどくさい!しみったれ!夏海!出ておいで!このしみったれをどうにかして!持って行って!私は次の仕事があるんだから!」
奏ちゃんがそう言うと、通りの角から夏海ちゃんが顔を覗かせた。
「なにしてるの。早く来なって。年齢が進んでるのはあなただけじゃないんだから。ほら」
こちらに向かってきた夏海ちゃんは大人の姿だった。当然のことだ。しかし、彼女は僕よりも若い。
「さて。ここからが私の仕事なんだけど。夏海、どうする?ここにある玲香ちゃんの記憶と、あの世界でのあなたの記憶、入れ替える?」
今度は奏ちゃんは僕の方を見てこう言った。
「一樹くん、どうする?彼女に玲香ちゃんの本来の記憶を入れることも出来るし、あの世界の夏海の記憶のままにすることも出来る。あなたはどちらを選ぶ?」
かつて僕の愛した玲香。その記憶を彼女が持てば見た目は違うけど、彼女は玲香になる。でもあの世界で愛したのは夏海ちゃんだ。僕は……。
「夏海ちゃん、僕は夏海ちゃんのままを望む。玲香はこの世界ではもういない。それに僕が愛したのは君だ」
「答えが出たかな?それじゃ、夏海、玲香ちゃんのこの記憶、持って行くわね。あ、店長には内緒よ?あ、あと。あなたもう監視者のお仕事は覚えていないってことになってるから、そのつもりで行動しなさいよ」
「わかった。ありがとう」
奏ちゃんが去った後、僕たちはその場でしばらく互いに声をかけられないでいた。なんて言えばいいのか分からない。玲香になって言えばいいのか分からない。
「お墓参り、行こっか。彼女にちゃんと報告しなきゃ」
先にきっかけを作ったのは夏海ちゃんだった。そうだ。そうだな。
「ああ、行こうか」
「さて。夏海はこれで良いとして。紅月と美桜はどうしてるのかな?店長には関わっちゃダメって言われてるけど、やっぱり気になるじゃない?とりあえずは、っと」
「ううん……」
眠い。いつもより随分と眠い。なんだか長い夢を見ていたような感覚だ。
「なんだか懐かしい夢を見たな、紅月、今は何をしてるんだろう」
化粧台の上に置かれた桜の髪飾りを見てそう呟く。
「そうだ。あの場所に行ってみよう。良く行ったカフェ。名前は……」
思い出せない。お店の中の光景はしっかりと思い出せるのに、店の外観とか、場所がさっぱり分からない。覚えているのは駅前で約束をしたのに来なかった紅月。
「9時、か。行ってみようかな」
8月の太陽が照りつける中、駅前に向かう。記憶の中の駅とは違う。あの駅はどこの駅だったのか。でも紅月と私は……