記憶の中の青春
「如月先輩にはどのくらい私の記憶があるんですか?」
「うーん……玲香ちゃんの記憶って言うか、本来の私の記憶がほとんどないから。玲香ちゃんの記憶っていう認識が今はほとんどないって感じ」
「へぇ。私、美桜の担当なんだけど、自分の仕事は成功してたのね。ってことは紅月を担当している奏が失敗したってことなのかな」
「あ、そういう感じだったんですね。初めて聞きました。でも私はイレギュラーみたいなんで、そういうのよく分からないんですよね。私は私、ですし」
「なーんかなぁ。もっと修羅場的なのを想像してたのに。平和」
「夏海、そんなの期待してたの?大体、まだなにも起きてないのに修羅場ってなんでそうなるのよ」
「え?だって昨日まで紅月の彼女だったんでしょ?アンタなんて居なければ!キーッ!みたな」
「あきれた。取っ組み合いなんてしないしする気もないわよ。でも今回は私が先制攻撃したんだから、ちょっとはそいういうの、汲んでもらえるとうれしいかな?」
「わかった。玲香ちゃん、今日のところは『元彼女』の美桜にさ」
「そうですね。『元彼女』ですしね」
こいつら……。でもまぁ、結果オーライかな。
紅月と一樹が帰ってきたと思ったら部屋に戻ってきたのは紅月だけで、なんで?という顔をしていたら、「靴の数が減っていたから僕も帰る」と一樹が帰ったから、と教えてくれた。随分と気が回るのね。
「その。なんだ。今まで散々ここには来ていたのに、なんか不思議な感じだ」
「どんな感じ?」
「あー、初めて彼女の部屋に上がったみたいな?」
「そこまで新鮮な感じになるの?私はいつもと変わらないから、なんかちょっと羨ましい」
床にぺたんと座った美桜が、本当に羨ましい、といった顔で俺のことを見ている。理由を聞いたら、ちゃんと気持ちをリセット出来ているから、だそうだ。
「でも、そのおかげで公平に見れるぞ」
「やっぱり取り消し。リセットしないで私のことを見て」
「どっちなんだよ」
本当の俺は美桜が好きだったんだろうな。でも、そんなことは言うどころか一人で高校時代を過ごしていたんだろうな。本当の美桜がどんなヒトなのかは分からないけど、多分、俺と同じような感じだったんだろうな。店長がこの世界で楽しく、みたいなことを言っていたし。
「どうしたの?」
「いや、本当の美桜ってどんなヒトなのかなって思ってさ。美桜はさ、本来の自分はどんな感じって思う?想像で」
「うーん……物静かな美少女?」
「まじめにさ」
「だからまじめに。窓辺で本でも読んでてあまりヒトと関わらないちょっと可愛い女の子って感じじゃないかな」
「自分で可愛い言うな」
「可愛くない?」
「いや……可愛いけど。俺にとっては」
その言葉を聞いて美桜はニヒッと笑顔を見せてから、そのまま後ろに倒れて床に寝転がった。
「おい。スカート」
「あ。えっち」
「今までそういうの無かっただろ。そう言うのは彼女の時にだな……」
「今から彼女になっても良いけど?」
これが色仕掛けってやつなのか。高校生にはツラいぜ……。しかし、これが玲香ちゃんの行動なら、玲香ちゃんも色仕掛けを?
「あ、今、私がやったなら玲香ちゃんもするんじゃないかって考えたでしょ」
お見通し。記憶がある限りでも3ヶ月は彼女だっただけはあるのか。しかし、あの玲香ちゃんがそんなことをするのは想像がつかない。本当に同じ中身なのか?
結局、その日は色々と話したけども、心の中で決定的な何かは湧いてこなかった。ただ一つあるとすれば手を握られたとき、今までに感じたことのない嬉しさを感じたこと位だろうか。
翌日は登校しようとしたら家の前に玲香ちゃんが待っていた。で、開口一番に「今日の放課後は私に時間を下さい」だった。すぐ後に美桜が来たけども、「今度は私が先制攻撃」と言いながら先に歩き出した。その後ろ姿はちょっぴり恥ずかしそうで。逆光の朝日の中に消える彼女が特別のもののように見えた。
「なんだかなぁ……」
「どうしたんですか?」
「お。一樹。良いところに。いやさ、なんか気にしてたら二人とも魅力的に見えてさ」
「二人共ですか?それじゃいつまで経っても決めることが出来ず仕舞いになったりしませんか?彼女たちもずっと待っていてくれるとは思えませんし」
「現実を突きつけてくるな……。でも確かにその通りなんだよな。今の状況が贅沢で。それにしても何がそんなに二人を引きつけるのかが自分でもわからないよ」
「そういうところじゃないですか?自分を飾らないというか」
なんで一樹はこんなにも自分を持ち上げてくるのか。もしかして、中身は自分だから貶めるようなことは言わないとか?って、考え過ぎか。とりあえずは今日の放課後は玲香ちゃんと一緒に過ごすわけだけども。どこに何をしに行くのかはまだ聞いていない
「で?玲香ちゃん、今日はどこに行くの??ベイサイド?」
「いえ。今日は私の家に行きます。如月さんへの対抗です」
そんなにはっきり言わなくても。でも玲香ちゃんの家って行くのすら初めてだな。
「ここ?」
「はい。ここの2階が私の部屋です」
「部屋?家じゃなくて?」
「はい。部屋です。居候みたいなものでしょうか。ここの店の主人に部屋を借りていて一人暮らしなんです。両親はちょっと事情がありまして」
何があるのかは聞かないほうが良さそうな感じだったので聞かなかったけども。1階の店が何屋なのかはシャッターが閉まっていて分からなかったけど、随分の間、開いていないような気配だった。
「さ。こちらです」
階段を登ると。洗濯機。外置きのようだ。その横の玄関ドアの鍵を開けて中に入る。
「えっと。おじゃましま~す……」
「狭い、ですよね。座るところが無いのでベッドにでも座っていて下さい。私は脱衣所で着替えてきますので。あ、覗かないでくださいよ。というより、ドアが半透明なのでこっちに来ないでくださいね」
ベッドに座って女の子はバスルームの外。ドアが薄いのか布擦れの音が生々しく聞こえてくる。思わず生唾を飲み込んでしまった。昨日の美桜よりも緊張というかドキドキする。
「お待たせしました」
「えっと。寒くないの?」
「はい。部屋着、こういうのしか無いんですよ。でも流石に寒いのでこれを着ますけどね」
そう言いながら出てきた玲香ちゃんは下着の少し透けた薄めのシャツで出てきた。そして勉強机にかけてあったフリースを着てからエアコンのスイッチをかけた。
「あ。また故障です。すみません。寒いですよね。ちょっと待ってて下さい。なにか温かい飲み物を用意しますので」
ベッドと勉強机、小さなクロゼットをおいたら満員になるような部屋。ここで暮らしているというのか。正直、自分の部屋よりも狭い。
「先輩はコーンポタージュとポテトポタージュ、どっちが好みですか?っと。ちょっと待ってください。当ててみせます。んっと……先輩はポテトポタージュですよね」
正解。きっと僕の中の一樹を想像して見たのだろう。やっぱり彼女は僕自身というよりも、僕の中の一樹を見ているのだろうか。今の自分を見ているのではないとしたら少し悲しい気もする。だって、それならここにいる自分は何者なのか、ということになるじゃないか。
「ごめんなさい。そういうつもりじゃないんです。本当に当ててみようと思っただけです。あと、一樹はポタージュ系、余り好きじゃないので、ああいうときは別の飲み物が飲みたいって言います。だから気にしないでください。ちゃんと先輩のことはここにいる先輩として見てますから」
なにも言わなくても表情で察するもがあったのだろうか。マグカップを両手に持ってこちらに歩きながら玲香ちゃんはそう言った。
「そうか。ちょっと気にしちゃった。ごめん」
「いいんですよ。あんなことあったら私も気にすると思います。私だけ私なんですから。でも。私、今は一樹を好きになってるのではなく、先輩を先輩として好きになったんですよ?」
嘘をついているようには見えないし、そもそもこんな嘘をつく理由なんて無い。強いて言うなら美桜への嫌がらせ?だとしたらなんで?自分が中に入ってるから?
「それも違います。多分。先輩、今、私が自分が入っている美桜先輩に対応意識を燃やしているとか考えてませんでしたか?」
近からずも遠からず。
「なんかなんでもお見通しだな」
「ずっと見てましたから。最初は一樹さんが気になったんです。見た目が一樹でしたから。でも全然違って。正直、先輩は一樹と似たような雰囲気があったので気にしていた、というのが見ていた、ということの本音でしたけど、店長から説明を受ける前から入れ替わっているような……というよりも別人のように感じていました。私はそんな先輩をいているんです」
「そうか。なんというか。ありがとう。なんだか今の自分が肯定されたようで嬉しいよ」
「そうですよ。肯定してるんです。私、確かに一樹のことが大好きだったんですけど、今この世界では一樹はいないんです。かけらはあっても本当の一樹はいないんです。店長も言っていた通り、いつまで続く世界なのか分かりませんけど、この世界では自分の思うように生きてみようと思うんです」
そうだな。俺もそういうふうに前向きに進んでいくのが良いかな。それにしても、この世界がいつまで続く、か。それは正直考えたことがないな。
「玲香ちゃん、今、この世界がいつまで続くのか、って言ったけど、この世界って有限のものだと思う?」
「うーん……どうでしょう。言葉の流れで口に出たんですけど、ほら、なんか『果たせなかった青春の記憶を……』みたいなことを言っていたじゃないですか。だから長くても高校卒業くらいまでなのかなって」
「そうなると時間はあと1年ちょっと、ってことになるのかな」
この一年で俺たちは果たせなかった青春を……、のようだが、果たせなかった青春ってどんなことなのだろうか。今みたいに2人の女の子に好きと言われたこと?なんだかんだで選べずに結局独りになって終わってしまうとか?それもとも、一樹が言っていたように独りでふさぎ込んでいた自分が誰かとこうして付き合うことになるようなこと??
「だから、先輩は考えすぎなんですって。きっと。この世界の自分を信じて思うように生きればいいと思います。記憶の世界なんですし。楽しいことをたくさんしたほうが良いと思います。だから……」
玲香ちゃんが俺の隣に腰をろして肩に頭を預けてきた。腰に腕を回したほうが良いのか?頭を撫でるほうが良いのか?美桜のときはどうしていた?そもそもこんなシチュエーションあったか?
「先輩、私ね。きっとこの世界から私は出られないんだと思います。店長さんはイレギュラーでこの世界に入り込んだ、って言ってましたけど、私は逆なんだと思っているんです。この世界に最初からいたんだと思います」
少し悲しそうな声で玲香ちゃんは話し始めた。
「だから、先輩たちが来年の春にこの記憶の世界から出ていっても私はこの世界にずっといるんだと思うんです」
「なんでそう思うの?」
「女の勘です。だから。だから私はこの世界で、というよりも先輩がこっちにいる間に沢山の思い出を作りたいんです」
そう言って彼女は右手で俺の左腕を掴んで胸の中に頭を突っ込んできた。顔は下を向いているからどんな表情名のかは分からないけども、きっと悲しい顔をしているような気がした。
「大丈夫さ。そんなこと無いさ。美桜は向こうの世界に本物の美桜がいるんだ。玲香ちゃんも向こうの世界に玲香ちゃんとして戻るはずさ」
俺は玲香ちゃんの頭を優しくなでながらそう話しかけたその直後に玲香ちゃんは無言で俺をベッドに押し倒してきた。
「先輩は本当にそう思うんですか?もし戻れなかったら私はどうなるんですか?この世界で独り取り残されて先輩のことを探し続けるんですか?」
大粒の涙が俺の頬に降ってくる。彼女はなぜここまでこの世界から出られないと断言するような事ばかり言うのだろうか。分からない。分からないけど、今は彼女を安心させることが最優先のように思えて両腕を彼女背中に回してそっと抱きしめて「大丈夫」と繰り返し彼女の耳に声を届け続けたんだ。
「先輩?」
「ん?」
顔をあげた玲香ちゃんは目を閉じてそっと顔を再び顔を下ろしてきた。柔らかいもんのが俺の唇を覆った。
「先輩?キス、してもいいですか?」
返事を聞かずにもう一度。
「先輩、優しいですね」
そう言ってもう一度。
「玲香ちゃん……。ちょっと……」
「ふふ……やっぱり先輩、優しいですね。私、甘えちゃいます」
そう言って玲香ちゃんはもう一度口づけをしてきた。ほんのりとコーンポタージュの味がした。
「先輩のばーか」
そう言って玲香ちゃんは俺の上から離れてそのまま横に仰向けに寝転がった。
「バカってなんだよ」
「少しは拒んでくれても良かったのに。ちょっと如月先輩に対して罪悪感を感じてしまいました。あと、先輩、これ、ファーストキス、だったりませんよね?」
「違う、と思う。ほら、例の告白の後にキスしたらしいから、アレが多分ファーストキスだったんだと思う」
「それは記憶の中の世界の記憶ですよね。こっちの世界に来てから如月先輩とはキス、したんですか?」
していない。こっちに来て、というより9月に記憶が戻ってからは美桜とキスをした記憶がない。
「してない、な。」
「じゃあ、この世界での先輩のファーストキス、頂いたことになりますね」
そういうことか。それなら確かにファーストキスになるのかも知れない。
「玲香ちゃんはどうなの?」
「私ですか?聞きたいんですか?」
聞きたくないような聞きたいような。
「いいですよ。教えてあげます。先輩には申し訳ないんですけど、一樹としたことがあります。でも、その時の一樹はこの世界にいないんです。どこに行ったのかが分からないんです」
一樹。この部屋に来てから何回聞いただろうか。彼女はやっぱり一樹を俺の中に見ているのではないだろうか。だとしたらさっきのキスも俺ではなく、一樹に……。
「なぁ、玲香ちゃん。玲香ちゃんにとっての一樹、ってどういう存在?あ、この世界の見た目が一樹、のじゃなくて。なんというかオリジナル?の一樹」
「そうですね。先輩の前で言うのはなんですけども。ちょっとお調子者で。でも私にはとっても優しくて。周りの人も放っておけない性格で。私の好きがたくさんあった人、でしょうか」
「その一樹と今の俺、どっちが好き?」
結構意地悪な質問だと思う。そんなの一樹に決まってるし、ここで俺って言っても俺の中の一樹の事を言っているんじゃないかって思ってしまうような気がするし。自分で質問したのに失敗したような気分だ。
「そうですね。正直に言いますね。もし、私の知っている一樹と、今の先輩が並んでいたとしたら」
「並んでいたとしたら?」
彼女はどちらを選ぶのだろうか
「多分、どちらにも声を掛けることは出来なかったと思います」
「なんで?」
「気になってしまうからです。もし片方と付き合うことになったとしても、もうひとりのことが気になってしまうと思うんです。そんなの恋人に対して失礼じゃないですか。だから、私はどちらも選ばないと思います。多分、告白されても」
なるほど。この世界では、俺しかいないから遠慮なくぶつかってこれるってことか。こっちの世界の一樹が本当の一樹じゃない。そう自分の中で断言したから。
「わかった。本当は意地悪な質問だと思ったんだけど、聞いておいてよかった」
「そう言ってもらえると嬉しいです。ちゃんと今の私の気持ち、伝わりましたか?」
「ああ」
それから彼女の家で他愛のない話から、彼女の中の記憶にいる一樹の話を聞いたりしていたら随分と時間が経って閉まっていたので、家に1本電話を公衆電話から入れて帰ることにした。彼女は僕が通りの角を曲がるまで見送って、曲がるときに手を振ってくれていた。
「先輩」
後ろから『先輩』と言われたけどもこれは玲香ちゃんじゃなくて奏。
「どうしたんだ?バイトはもう終わったのか?」
「そうですね。こんな時間まで先輩は何をしていたんですか?」
「どうせ見ていたんだろ?」
「そうですね。部屋の中で何をしていたのかまでは分かりませんけどね」
ちょっとふくれっ面の奏。なにか悪いことでもしたのだろうか
「なんだよ」
「先輩って順応性高いですよね。正気、失敗に終わるんじゃないかって思っていたんですよ」
「失敗って?」
「ほら、言ったじゃないですか。先輩の観察者は私で、如月先輩の監視者は夏海先輩。それぞれが店長からハサミを借りて記憶を切り取ってるんです。こんなイレギュラーが発生したら精神崩壊して失敗するんじゃないかって思っていたんですよ」
なかなかにホラーなことをいう。仮に失敗していたら俺はどうなっていたのだろうか。気になるけどもこれは聞かないほうが懸命な気がする。
「聞かないんですか?」
「いや。やめておくよ。この世界の俺は今の俺だからな。仮にどうなっていたか、という時の俺は俺じゃない」
「そういうところですよ。順応性が高いって。でも良かったです。なんだかんだで青春、してるじゃないですか」
奏では苦笑いを浮かべて俺の方を叩きながら通りの角を曲がって玲香ちゃんの家の方に曲がっていった。多分、この後、玲香ちゃんとなにか話すのだろう。気になったけども聞かないようが、いや、聞いては行けない話のような気がして、そのまま自宅に足を向けた。
「夏海ちゃん。君にとって僕ってどんな存在なの?」
「なに?急に。って、そうかそりゃ気になるわよね」
どこからどうやって話したものか。まぁ、正直に話すのが一番なのかな。
「言い方に語弊があったらごめん、って最初から言っておくね。まず。私にとって一樹は不思議な存在。本来この世界にはいるはずのない存在。そして一樹の記憶と紅月の記憶がミックスされた、この世界だけの存在」
「なんか不思議な存在だね」
「そう。だから私は、仕事として接してるんじゃなくて、この世界の一樹が好きになちゃったの。本来はタブーなんだけどね」
「それなんだけど。一つ聞いていい?」
「なに?」
正直なところ、冷静な一樹は気がついていると思った。質問された内容も思った通りのことだった。
「そっかぁ。やっぱりそうなのか。でも後どのくらいの時間があるのかは教えてはくれないんだよね?」
「流石にね。でも私は知っているから、その時まで一樹を一生懸命に好きになる。絶対にお別れは来るけども。一生懸命に。だから、一樹も私をその時まで好きになって」
有限の恋人。いつか必ず会えなくなる恋人。これ以上にないくらいに好きになってしまったら、どうすればいいのか分からない。店長は現実世界の僕は寝ていると言っていた。彼女は観察者だから、きっと向こうの世界でも存在してるんだろう。でも恐らくは僕とは関わることは禁止されていると思う。そんな気がするから聞けない。
「それで、今日はどこに行こうか」
街は少し早いクリスマスの準備が進められていた。なんだか年々早くなってきているような気がする。まだ11月なのに。
「私、マフラーが欲しい。一樹に選んでもらいたいな」
そう言われたので、お店に……と思ったのだが、そういうお店の情報を何も知らない。駅前のデパートはこの前の火事で焼けてしまってまだ復旧作業中だし。
「なんか、どこに行けばいいのか分からない、って顔してる。大丈夫。お店の目星は付いてるから。こっち」
連れてこられたのは自分一人なら絶対に来ない場所。ファッションモデルが来てそうな服を売っているようなお店ばかりが並んでいる。
「ここね。私のお気に入りのところだったんだ。だから来てみたかったの」
お気に入りのところ『だった』。彼女はそう言った。つまりこの世界は過去の世界。まぁ、店長の話を聞いて分かってはいたけども。出来なかった青春をやり直すって言ってたし。
「ここね。向こうの世界では取り壊されて新しい建物になっているの。あ、そんなこと言ってもいいのか、って顔してる。いいのいいの。だって隠したってしかたないもの。言ったでしょ?時間無制限じゃないんだし」
「そうだね」
彼女は何気なしにそう言ったのだろう。でも僕はこの思い出は限りある時間の中の一部であると考えて少しアンニュイな気分になった。
「なーに暗い顔してるの。私は優しく微笑んでる感じの一樹のほうが好きだなー。ほら。今を楽しむの」
彼女は少し焦っているようにも感じる。限られた時間、そんなに残されていないのかな。だとしたら。僕もそれに応えるべきなんだろう。精一杯彼女との時間を大事にしてゆこう。
結局、マフラーはその店じゃなくて裏道の廊下みたいに細長いお店で買った。真っ白なマフラー。先っぽにうさぎの毛皮がついていてふわふわしてて気持ちいい。でもてっきり僕が選ぶのかと思っていたんだよね。積極的に、僕が選んであげたほうが良かったのだろうか。
そんなふうに思って彼女がお会計をしている間に僕はお手洗いに向かった。鏡の中自分を見つめる。これは誰なのか。玲香ちゃんの言う一樹の風貌。中身は紅月らしい。でもその紅月を知っている如月さんの中には玲香ちゃん。だから、本当の紅月くんの事を知っているひとは観察者の2人と店長だけ。だから夏海ちゃんは僕の中身と外見、両方を知っていることになる。
「まだこんな事を考えいるのか。考えても仕方がないのに。僕はこの世界の僕なんだ」
そう言い聞かせてお手洗いを出ると夏海ちゃんはまだレジにいた。なにかトラブルでもあったのだろうか。
「あ。彼氏さん。戻ってきましたよ」
店員さんはそう言って夏海ちゃんに濃紺の編み込みマフラーを手渡していた。そしてそれを僕の首に巻いて半歩下がって頷いている。
「よし。思った通り。いいじゃん」
「えっと……」
「買ってあげるって言ってるの。っていうかもう買ったし。ありがたく頂きなさい」
「ありがとう」
このマフラーも思い出の一つになるのだろう。そう考えると、その後の一つ一つの行動がすべて特別なもののように思えてきた。話すこと、見ているもの。あるきながらの会話。すべてが特別。このときにしか無い時間。
「どうしたの?」
「ううん。やっと優しい顔になったなって思って。ねぇ。手、貸して」
僕は左手を彼女に差し出すと右手を重ねてきて僕の上着のポケットに手を入れてきた。ちょっとびっくりしたけども、彼女の手は少し冷たくなっていたので、このまま温めようと思う。