記憶の買える店
俺は九条紅月32歳。独身。なんの変哲もないサラリーマンで社会の歯車の一つとなって惰性の日々を送っている。今日もいつも電車、いつものドアから電車に乗り、いつもの時間にいつもの机の席に付き。そしていつもの仕事をこなしてゆく。一応、営業なので、対応するお客さんは違うけど、同じ商品を売って回るのだ。俺にとってはいつもの仕事にしか思えない。そんな俺の目の前に今の自分を照らし出すような明かりをともしたショットバーが目に入った。
「こんなとことにこんな店があったのか」
地元のことなのにまだ知らないことがあったことに小さな驚きを隠せなかった。酒でも飲めばいつもと違う帰り道だな、そう思った俺は店のドアを開き、吸い込まれるように店の中へ入っていった。
「いらっしゃい。席はどこでもいいから。暫く閉めていたから久しぶりのお客さんだよ」
聞いてもいないことを店の主人は話しかけてきた。暫く閉まっていた。なるほど、知らないわけだ。
店の主人に今の気分を伝えて適当に酒を見作ろてもらった。ウィスキーと何かが混ざったお酒だ。結構強めだ。つまらない日常を忘れるには丁度良いかも知れない。幸い、今日は金曜日だ。酔いつぶれても問題はない。誰も起こしてくれる人なんて居ないし、仕事の電話以外はここ数ヶ月、鳴っていない。メールは広告ばかりだ。
「なにも面白味のない人生だな……。学生時代に人との関わりを強く持たないと、こんなにもつまらない人生になるのか……」
グラスの氷を揺らしながら独りそんなことを呟く。氷とグラスのぶつかる音の返事と同時に、店の主人が不意に話しかけてきた。
「お客さん。人生、やり直したいんですか?」
なにを言い出すと思えば。こんなつまらない人生なんだ。やり直せるものならやり直したい。
「出来るものならな。こんな記憶、消し去って最初からやり直したいよ」
当然の返答だ。
「そうですか。では。記憶、買われますか?」
「記憶?買う?そんなもの買えるのかい?どんな記憶なんだい?」
なんだ?記憶を買う、と言ったのか?そんなことが出来るのか?
「それは私にも分かりません。仕入れた記憶は内容は分からないのです。そして、その記憶を取り込むと同時期のあなた自身の記憶が上書きされて消えます。どうされますか?」
どうすると言われても。しかし、魅力的な提案ではある。自分のつまらない記憶が書き換えられるのならば。
「つまり、自分の記憶を他人の記憶で上書きする、ってことかい?で、その記憶の内容は分からない、と。」
「その通りです」
こんな人生、なんの面白味もないが、買った記憶がもっとつまらないものだったら……。しかし。自分の青春時代よりもつまらないものなんてあるのだろうか。好きな人には告白も出来ず、部活もせずに学校に行って適当に授業を受けて家に帰る。なにをするわけでもなく一日が終わる。親以外、誰とも話すことなく終わる日だってあった。
「ちなみに、その記憶、男の俺が買えるのは男の記憶だけだよな?」
漫画でよくある起きたら女の子になっていた、みたいなことが頭をよぎって一瞬考えてしまった自分が情けない。
「左様でございます」
「いくらなんだ?」
「お代はお客様の記憶で結構です。お客様、そのご様子ですとなんの波風もない人生だったのでしょう?その様な記憶は高く売れるのです。波乱な人生を歩んだ方が安らぎを求めて買われるのです」
はは……。他人にも伝わるような雰囲気を出していたのか。つまらない。つまらない。つまらない。そんな人間に近寄ろうとするやつなんて居るわけがない。祟りのようなものに纏わりつかれているような感覚が俺を支配し始めた。
「虐められていた人の記憶、って可能性は?」
「否定は出来ませんが、今ここにある記憶の元持ち主はそのような方には見えませんでした」
「いつまでに決めれば?」
「あと3時間ほどとなります。それ以上はこの記憶は溶けて無くなります。既にその兆候は出始めてますので、所々の記憶が抜け落ちているかと思います。ですので、ご決断はお早めに……」
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「九条くん!なんでいつもそうなの!女の子を泣かせて!」
女の子を泣かす?俺が?そんなことより、ここはどこだ?
「ねぇ!聞いてるの!?」
お前は誰だ?
「えっと……」
「夏海!あなたもなにか言ってやりなさいよ」
「ええ……、私はいいよ……九条君、怖いし」
そうだ。俺はさっきあの子を突き飛ばして。それで泣かせちゃったんだ。なんで突き飛ばしたのかは覚えていない。
「なぁ、俺、なんで突き飛ばしたんだ?」
「なに言ってるの?いきなりそこどけ!とか言って突き飛ばしたんじゃない」
俺はどうしたって言うんだ?さっきから俺を叱りつけているあの子は如月美桜、夏海と呼ばれていた子は瀬見原夏海だ。彼女たちの名前はすぐに出てくるのに、突き飛ばして地面に倒れ込んでいるあの子の名前はすぐに出てこない。
「あのさ……その……ごめん。怪我はない?」
「大丈夫。なんかすごくびっくりしちゃって。私がこれ、踏みそうになったからでしょ?」
「あ!」
教室の床に落ちていたのは桜の花びらがついた髪飾り。どこかで見たような気がするけど、どこだっけ?
「それ!私の!」
弾けるように如月美桜が髪飾りを拾いに来た。自分のしたことが恥ずかしくなって髪飾りを放り投げたくなったが、髪飾りを拾って如月美桜に手渡す。
「そんなに大事なものだったのか?」
返した髪飾りを胸に抱えて大事そうに、そして心から良かった、と思わせる表情をして如月美桜は目に涙を浮かべていた。そんなに大事なものだったのか?
「九条くん、忘れちゃったの?それ、美桜の誕生日に九条くんがプレゼントしたやつじゃない」
瀬見原夏海にそう言われたけども記憶にない。でもあんなに大切そうにしているんだから、きっと如月美桜にとっては大事なものなんだろう。それにしても俺はどうしたって言うんだ。ここは小学校のようだが、俺の通っていた小学校ってこんな感じだったか?それに、あの二人以外の名前は分からない。騒ぎを聞きつけて駆け寄ってきたやつらの顔も初めて見たくらいの感覚だ。あたりを見回しても記憶にあるのは目の前にいる如月美桜と瀬見原夏海だけだ。教室の風景すら記憶にない。どこか不安そうにキョロキョロしている俺に如月美桜が心配そうな顔をしている。
「九条くん、どうしたの?」
「ん、ああ。なんかよく分からないんだけど、変な感じがしてさ。今日は早く帰って寝るよ」
こういう時はとにかく寝るにかぎる。寝て起きれば大概のことは好転してる。忘れられる。いつもそうしてきた。いつも?そうだ。いつもってなんだ?俺はなにを覚えている?
「本当に大丈夫?」
髪飾りを着け直した如月美桜が心配そうに俺の顔を覗き込んできた。酷く心配した顔をしている。
「大丈夫、だと思う」
しかし、違和感は家に帰っても消えなかった。母さんには「今日はいやに静かだけど何かあったのか」とか「美桜ちゃんから電話があったけどなにかあったのか」とか。そもそも俺と如月美桜はどういう関係なのか。記憶があやふやで不安になったけども、寝れば解決するさ、とその日は早めにベッドに潜り込んだ。そして沈むように眠りについた。
「紅月、紅月!いつまで寝てるの!遅刻するわよ!」
母さんに呼ばれて目を覚ます。身体が異様に気だるい。昨日の変なことがあったからだろうか。ベッドから重たい体を持ち上げようとしたら本当に重たい。これは物理的なものだ。
「なんだよこれ……」
身体を見て驚いた。自分の身体は中学生?いや、高校生くらいだ。小学生からいきなり高校生!?なにがあった?記憶がない。思い出そうとしても、あの髪飾りの記憶しかない。
「母さん、俺、今何歳だっけ?」
急いでリビングに向かい、確認する。
「なに言ってるの。紅月は16歳。でしょ。自分の歳も分からなくなったの?そんなことより、早く食べちゃいなさい」
母さんからはいつもの様子で俺に受け答えをする。次に目に入ったのは机に置かれた新聞紙。日付は9月9日と書いてある。道理でまだ暑い訳だ。まずは腹ごしらえだ。なんやかんや考えるのはそれからだ。そう思って目の前の食事を一気に喉に流し込む。
「遅刻する。さっき母さんはそう言った。ということは今日は学校だな。なんで昨日の小学生から高校生になっているのか分からないけど、とりあえずは何かしないと分かるものもわからないだろう」
しかし、そうは思ったものの、自分がどこにどうやって行けばいいのか分からない。思い出せない。というよりも知らない、といった方が似合う。