かえるためにできること
雲の果ての天空に建つ、綻び一つない寝殿造の宮殿。
帝の子息の為に与えられた部屋の一室を、灰色の髪の皇女が訪ねていた。
価値も計れないような美しい調度品や、永久に枯れない仙花で余さず飾られたそこには、羽衣を身に付けた『弟』が椅子に座っている。
白地に惜しみなく金糸を用いた後継としての正装は、帰還後、彼に仕える役となった者達が勝手に着せたのだろう。
畳んだままの羽も相まって非常に映える姿だが、当人の薄く開いた眼はどこも映してはいない。
目の前で顔を覗き込む皇女のことすら、視認出来ていないようだった。
「……下界では導明と呼ばれていたようだけど。父さまはあなたを赫夜と名付けたわ。認知したの。三日後に印の儀式を行うそうよ」
無感情な声音に返事はなく、単なる独り言になってしまう。
それも予想通りだったので皇女は気に留めなかった。
皇族以外の天人が必ずまとうことを義務付けられている羽衣は、自力での浮遊と飛翔を可能にする優れた仙具である代わり自我を奪う力がある。
外せば自我が戻る仕組みにはなっているが、日常的に使い続けると精神そのものが異常をきたす。
生命を維持する上で必要な行為以外に自発的な行動を取らない、取る必要がないと考える生き人形になるのだ。
皇族がその事実を黙認し、天人の徹底的な管理を行っているため、今まで問題が起きた例はなかった。
前帝の気まぐれによって下仕えの一人が子を孕んで秘密裏に産み落とし、かすかな自我で下界に逃げた。
あの一件だけが例外であり、それすらも本来なら無視されるような些末な事柄のはずだった
正妃との間に生まれた子らが、成人を迎えてなお誰一人後継の羽を有していないという異常事態さえ起こらなければ。
「毛色の違う末娘まで資格がないと知って、父様は貴方を思い出したの。捜しだしてみれば、下界にはそぐわない羽が一対。私たちよりも遥か高みにおわす神が、不貞を良しとしなかった。神の命ぜられるままに不幸であり幸福な子を天に戻そう……そして、貴方と一番歳の近い私が迎えに行くよう選ばれた」
赫夜は皇女より遥かに年下であり、本来は幼児でもおかしくない。
下界の穢れを受けた結果、皇女と大差ない背格好に老化してしまったのだ。
敬うべき次代の帝の意志確認すら取らなかったのも、下界での記憶を取り除く為に羽衣を付けさせている今の状況も、天人からすれば当然の措置なのだった。
「口に出してしまえば、呆気ないわね。心の壊れた王様を、心はあっても自由のない私達が指揮するの。あまりに非人道だと、長兄さまは反発しているけど……何か決定的なことでもないと、長い歴史を覆す勇気は出ないみたい」
――ここはもはや死者の国。天の名を冠する地獄だ。
赫夜の実情と己の役割を知らされ、そう呟いた兄はひどく人間らしかった。
下界で顔を合わせた時の赫夜も似通ったことを言っていたと不意に思い返す。
自分の身体が恐ろしい勢いで老いていくのは自覚出来ただろう。
それでも、赫夜は下界に居たいと言った。自らの意志を示していた。
その決意は、他人が勝手に踏みにじっていい類のものではないはずだった。
「……おかしいわね、私」
皇女は長兄とは違い、今まで同情などの人間めいた感情を他人に抱いたことはなかった。
どういうわけか傍らにいた、地上の帝の縁者である白髪の帝の嘆きも心理に影響しているのかもしれない。
生きているのがやっとに思える脆弱そうな身体で赫夜を庇い、半身が削がれたかのような痛ましい声で赫夜の下界での名を呼んだ。
言われるがまま動いた自分は間違っていたのではないかと、自責の念すら湧いてくる。
だから皇女は、ここに足を運んだ。
贖罪に限りなく近い感情にとらわれ、罪になると自覚した上で動こうと思ったのだろう。
「なくしても。なくそうとしても残るものって、あるの?」
赫夜の両腕を覆うように巻きついた、不気味なほど鮮やかな羽衣の端を掴み、するりと引き離す。
柔らかな羽衣のこと、行為自体は呆気なく済んでしまった。
腕が動いた分、ずれた姿勢になった赫夜は依然として動かない。
残念だが手遅れだった。
そう判断した皇女は羽衣を手に赫夜から背を向けた。
直後、耳がかすかな衣擦れの音を拾う。
分厚い布がーー例えば、上等な拵えの上着が床に落とされる音。
振り返ろうと肩越しに背を見た皇女の金眼が一瞬、別人のように悪どい表情を浮かべた赫夜――導明を捉える。
「感謝します、姫君!」
すれ違いざまにそう言うと導明は一目散に部屋の扉を開け、いずこかへ向かって走り出した。