くらいせかい
宮中、皇女の住まう春宮。
導明が去った後、薫子は外界への興味を一気に失っていた。
盲目となった今は朗読を頼むのも面倒だと言って所有していた書物の類をほとんど処分してしまい、夜にも映えるお気に入りの調度品も、ぶつかって壊す前に寝具を除いて手放した。
無理をおして飛び出していった後の失明、そして急激な心変わりに、仕えていた女官達は心配と疑問をない交ぜにしていた。
薫子自身が固く口を閉じて明かさなかった為、真相が広まることはなかった。
「……邪魔をするぞ、薫子」
全ての整理が済んだ後、殺風景になった部屋に帝が足を運んだ。
「ようこそ、兄さん」
薫子は、まるで訪問を知っていたかのように御帳台ではなく一段高い畳に礼儀正しく座っていた。
秘匿の身で華美な装いをする必要もないだろうと水干を好んで着ていたが、今は正装たる十二単を重たげにまとっている。
「見違えるな」
「女官達が是非にと。脱ぎ方も分かりませんが、似合っているなら幸いです」
帝が思わず漏らした感想に、カムイは淡々と返した。
正面を向いたまま動かない赤眼は穏やかに細まっているものの、その内の感情までは読み取れない。
帝は薫子の目の前に坐し、一息の後、語り始める。
「……ようやく一連の始末がついた。影武者が上手く機能してな。外出は療養を兼ねたもので、あの日屋敷に居たのは別人ということになっている。兵たちは天人との接触を一切覚えていないそうだ。役には立たなかったが、咎めても意味がない。不問とした。真相を知っているのは俺とお前と、あの男の養父だけだ」
あの男。
最後の一言に薫子はぴくりと肩を震わせた。
それを知ってか知らずか、帝は言葉を続ける。
「今朝、宮の前で立ち往生していたので短い間だが招き入れた。兵と同じく気絶していたから、記憶を奪われたかと思っていたが全て覚えていたようだ。伝言を預かっている。不肖の息子のために、ありがとうございました……と」
「そう……ですか」
薫子はかすかに下を向き、頬に垂れた髪を片手で耳に掛けた。
導明からの離別の手紙を受け取ってすぐ兄を呼びつけ、差出人の元へ行く許可をくれねば下腹を掻っ切ると脅したのが遠いことのようだ。
あの時は無意識かつ無我夢中だった。
持ち物の少ない自分が交渉に使えるのは、自分自身の身くらいしかないと思った。
迷いなく短刀を構えたその瞬間、薫子は逆説的に導明への想いを自覚した。
外界の象徴であり、良き話し相手であり、薫子が長く抱えてきたものをあっさりと共有してくれた人。
一生に一度の願いを使ってでも傍に居て欲しかった。
不肖の息子。
竹取の男が導明の正体を知ってなおそう捉えつづけるように、彼もまた、ただの人間でありたかったはずなのに。
全て終わったことだと頭では理解していても、思い出した端から胸が痛む。
擬似的なそれを抑えるように胸に手を当てる薫子を、帝は痛ましげに見つめていた。
「……お前へ渡してくれと、預かってきたものがある」
「え?」
帝は薫子を驚かせないようゆっくりと歩き、胸の上に置かれた手を引いて小さな袋を握らせた。
指で押してみると数粒ほどの丸い感触がする。
数珠や真珠を連想したが、それほど硬質ではなかった。
「意識が戻った時、手に持たされていたそうだ。読める文字で不老不死の霊薬と記されていたらしい。真偽のほどは確かではないが、天人からの侘びだとすれば、お前に譲ると」
「薬……」
薫子はうわごとのように呟くと両手で袋を包み込んだ。
立場も相まって過保護な兄だが、わざわざそんな嘘をつく理由もない。
掌の中のものに顔を向けたまま薫子は儚げに微笑んだ。
「……永遠に生きるのが良いことだとは思いません。かといって、安易に手放すのもいけない。天からもたらされたものなら、天に返すべきです」
「天に?」
いぶかしげな帝の声に、薫子は深く頷く。
「日ノ本で一番高い山が、そう遠くない土地にあると書物で読みました。頂上で焚き上げれば、かすかでも届く気がしませんか?」
小首を傾げた皇女が言わんとしているところは、帝もすぐに理解した。
所有する気も他人に譲渡する気もないのならば処分する他ない。
地上を見張っているという天人への腹いせも含めて、人目を避けるという意味でも山は適切である気がした。
「なるほど。分かった、すぐに遣いを出そう。他言も詮索をしない者達を用意する。その薬を……」
言いながら伸ばされた手を、薫子は首を横に振って拒んだ。
「私が直接届けます。帰った後、どう扱ってくれても構いません。わがままはこれで最後にします。だからどうか……どうか、きちんと諦めさせて下さい」
所有物の多くを手放した薫子が夜ごと棚まで這い、目視出来なくなった紙束を掴んで俯くのを、当人以外は誰も知らなかった。