まことのはなし
「ぎゃあああっ!」
――次の日、起こしに来た義父の絶叫で強制的に目が覚めた。
背に生えた手羽は一夜にして白い羽根が生え揃い、着物を破ってしまっていた。
厚い上掛けからはみ出るどころか、自身の身を覆えるほどの大きさに成長している。
伝承の烏天狗を彷彿とさせる姿に導明は我がことながら驚かされた。
「うーん……」
確かめるように手で触ってみるが、まさしく鳥の羽毛に他ならない。
さすがに空を飛ぶのは難しいだろうが、自らの意志で羽ばたく程度なら出来るようだ。
また、そのように動かしても昨夜のような鈍痛は襲ってこない。
驚愕も度が過ぎると逆に冷静になってくるのか、異変を点検し終えた導明は羽を指さしたまま固まっている義父に気安く笑ってみせた。
「申し訳ありません、父さん。あなたが拾ったのは鳥の稚児だったのかもしれません」
「い……い、言ってる場合じゃありませんよっ! ああ、先に様子を見に来てよかった……! そんなものを貴方の同僚だの神子だのに見られていたら、反論の余地もなく物の怪扱いですよ!」
言いえて妙だ、運が良かった。導明は他人事のようにそう思い、はたと気付く。
最初に叫びはしたものの、それ以降、義父から拒絶の声はない。
「父さん、怖くないのですか?」
「ああ、そりゃあ、不気味だとは思いますがね……」
義父は首を横に振ると、どこか照れくさそうに自分の頭を掻いた。
「人の間ではなく竹から出てきた子ならば、常と違う部分もあるでしょう。わたしが本当に怪異を嫌う者でしたら、はなから貴方を拾いはしませんよ」
ふ、と軽く息をつく。
「……わたしは貴方のお陰で人と過ごす楽しさを知り、貴方の見つけた金で豊かな暮らしを送っている。これで見捨てるなどと言い出したら、それこそばちが当たります」
「父さん……感動しました。人相が悪いわりに良い人だったのですね」
「一言多いと助ける気がなくなりますよ? ……まぁ、もうその羽は身体の一部になってしまったようですし、無理に絶てば恐らく命が危うい。大病を患ったことにして、地方にでも越してしまった方がまだ生きていられるでしょう。あなたにとっては、気の毒な話ですが」
少なくとも、もはや都に居続けることは出来ない。
話題をさらった美形の陰陽師が実は物の怪だった――そんな噂が広まれば、どこにも逃げ場はなくなる。
「いいえ。寂しいですが、強引に留まるわけにもいきません」
導明は簡潔に言うと床に散った羽根を一枚拾い、深く目を伏せた。
白い物を見ると、たびたび薫子を連想していたが、今度からそれも止めなければいけない。
他人が自分をどういう風に扱おうと気にならないが、この姿を彼女に知られたり、目撃されることだけは避けたかった。
――突然で申し訳ないけれど、遠くへ行くことになったんだ。
陰陽寮への辞職の文の後に、導明は書きかけていた『兎の君』への返事に取りかかった。
いつも送るような短歌や和歌を交えたものではなく、明確な別れを示す内容だ。
たった一枚のそれを封に収め、使者に渡して欲しいと義父に頼んだ後はもう身辺整理しかやることがない。
垣根に人がいるかもしれないと思うと庭に面している方の御簾に近寄れず、隙間から差す陽の光だけが曖昧に今の時間を伝えていた。
健康を害した訳でもないのに出歩けず、胸の内に得体のしれない怯えを飼い、接触出来るごく一部の人を待つしかない。
「……あの方も、こんな気持ちだったのでしょうか」
独り言を呟いてから、導明は仕舞っておいた薫子の手紙を読み返して時をまぎらわすことにした。
生まれた瞬間、今の自分のような閉ざされた環境に置かれていただろうに、彼女の物腰や書く文字はいつも穏やかで優しい気質に溢れていた。
『内から出られないとしても、覚えがあって困ることはないはずです』
いつだったか、手紙でそう言っていた薫子は、実際にかなりの量の書物を種類を問わず読み込んでおり、半ば文学者のような知識を持っていた。
無力を嘆く代わりに他の手段を選ぼうとする前向きな姿勢がとても好ましかった。
薫子は決して、窓を閉ざされた哀れな皇女ではなかった。
身分違いが許されるなら、より近くに居たいとすら思っていた。
叶うなら、あの大輪の牡丹よりも赤い澄んだ眼をもう一度見ておきたかった。
そこまで考え、導明は無言で頭を振った。
これらの手紙は絶対に手元に残すべきではない。
しかし縛って捨てる為の紐や、読めないよう切り刻む刃物をどうしても用意する気が起きなかった。
迷いに迷ったが、結局は何もせず元の場所へ戻してしまう。
仮にこの手紙が第三者の手に渡ったとしても、差出人として記されているのは文字として読めない崩した花押。
隠された皇女と結び付ける者はいないはずだ。
持って行ったとしても――このくらいのわがままは、許されるだろう。
心中でそう決めて、いよいよ部屋で出来る用事がなくなった導明はひとつ欠伸をすると、手でぞんざいに香枕を引き寄せた。
中に入れる香炉を焚き直し、上掛けを被って横になる。
暇な時は本を読んだり新しい歌を考えたりと頭を捻っていたものだが、今はそんな気分にはなれそうにない。
縮こまらせておくばかりも何だし、ものは試しにと背の羽を広げて身を包んでみると案外暖かかった。
「邪魔ですが、防寒だけなら……悪くないですね」
重くなっていくまぶたに逆らわず、導明は目を閉じた。
四肢の感覚が遠ざかり、昏々と無意識へ沈んでいく中、りんと鈴の音がした。
眠りのふちの心地よさから無視していると鈴はひとりでにどんどん数を増やしていき、巫女が持つ神楽鈴と相違ない音を奏でるようになった。
涼やかな音色に導明は何故か胸騒ぎを覚え、耳を塞ごうとするが腕がぴくりとも動かない。
おそらく夢であろうことは把握していても焦り、苦悶した。
その間に龍笛が吹かれ、琵琶が爪弾かれ、それぞれ音の異なる打物が厳かに叩かれる。
視認できないまま奏者は増えに増え、いつしか天上の雅楽とも思えるような壮大な演奏となっていた。
導明が観念して目を開けると、自分と同じ白金色の髪をした有翼の者たちが導明を取り囲むように立っていた。
皆、一様に彫像めいた美貌を持っていたが誰一人として表情がなく、まるで能面を被っているようだ。
人ならざる不気味さに鳥肌が立つ。
その場に固まってしまっている足をどうにか動かして逃げようとした矢先、急に音楽が止んだ。
背後から美しいが抑揚に欠けた女性の声がする。
「――近くお迎えにあがります、殿下」
義父と同じ平民である導明にはそぐわない尊称を聞いた瞬間、脳裏に奇妙な映像がよぎる。
一度見たきりの帝の住居とは趣の異なる寝殿造の宮殿。
柔らかな長い布。厚い雲。青い空。霧雨の竹林。
自分と瓜二つの悲しそうな女性の顔。
離れる白い手。山犬の遠吠え。地面に散った白い羽根。
頭を強引にこじ開けるかのような激痛が走り、性別も年齢も定かではない不特定多数の人間の言葉が群れとなって大量に流れ込んでくる。
欠けた部分を埋めるとでも言わんばかりに与えられるそれらは導明にとっては不快でしかない。
こらえきれずに叫ぼうとしたが、どれほど力を込めても呻き声一つあげられなかった。
やがて何者のものかも分からない手が眼前まで迫り、導明の顔を覆うように広がっていく。
殺される、と直感が働き、せめて痛みに堪えようと目を閉じた。
どこかで三度鈴の音が響き、じわりと身体の感覚が戻ってくる。
「導明さん?」
唐突に呼びかけられたことにハッとなって目を開けると、顔の上から白い手が引いていくのが見えた。
いつの間にか部屋は暗くなっており、傍らに被衣をかぶった純白の少女が座っている。
相変わらず十二単ではなく、繊細な模様の水干を着ていた。