つきにうさぎがいないなら
棚に吊るした不可思議な形の木の実。半透明な器の中で絶えず泡立つ液体。
正体も明らかでない異物が並ぶ、下界の御簾に似た模様のない白布に四方囲まれた部屋で導明は床に伏せていた。
いつの間に着替えたものか白地の肌衣に白い細帯といった姿で、肩から腹部にかけて何重にもさらしが巻かれている。
彼の傍らで椅子に腰かけた皇女の髪が、色味の少ない中で揺らぐとやけに目立った。
「……ひとつだけ聞かせて。あなたはどこまで計算していたの?」
少し呆れたような質問に導明は数度、首を横に振る。
「大して考えてはいませんでした。僕がここの子である以上、連れ戻されるのは避けられないし追い返せない。ですから一度、素直に帰っておいた方が良いと思ったのです。羽衣を使われても、それを外してくれる人がいれば、上手くやれるかもしれないですからね」
「上手く……?」
「ええ。一度帰って、あなたがたの面子を立てた後でしたら……」
細めていた目を開き、不敵に微笑む。
「継承の羽を僕自身がもいでも、他の方は怒られないで済むでしょ?」
横寝の姿勢なら当然見えているはずの導明の羽は、鋭い刃物によって根元から切り落とされていた。
数日前、私室から出て行った導明は廊下と部屋を駆け回り、見つけ出した宝刀を迷いなく己の背に宛がった。
ーーこれのせいで彼女の傍に居られないなら、僕は要りません。
王族は王制に関する話し合いの最中。部屋を廻る下仕えの者達は自我のない人形。
不意を突かれた皇女が追い付けなかった以上、導明を制止する者はいなかった。
すぐに止血が施され、治癒の薬が使われたおかげで死は免れたが重傷に変わりはなく、意識とて今ようやく戻ってきたばかりだ。
完全に断ち切るまで気を失わなかった精神力はどこか空恐ろしくすらある。
「羽はいずれ落とす気だったのですがね。下界では治しきれなくて死ぬかもしれませんし、どうせなら合理的にした方がいい気がしました。いや、上手くいって良かった。まだあなたの名前も知りませんが、本当にありがとうございます」
「…………」
王族として生まれ育ち、荒い言葉遣いを知らない皇女の胸に浮かんだ感情を端的に表すと――この野郎。
それに尽きた。
彼が血を分けた弟であるという事実をふまえても、どうも拳を作りたくなる。
人に手をあげたことも、あげられたこともない皇女にとってその衝動は未知のものだった。
身についた高貴さゆえに実行に移せないのが口惜しい。
「……全て思惑通りということ? あの白髪の帝が居れば私が迷うと思って……だからあの時も、傍に」
「違います」
やや感情的な言葉を遮る声の冷たさに、一瞬、皇女は身を震わせた。
「薫子さまは、自分から来てくださいました。危険が見えていたので、無茶をしないように目隠しをしましたが……意味はありませんでした」
導明は伏し目がちになり、物憂げな表情を浮かべる。
「僕は想像以上に彼女から想われていた。それだけです。僕の賭けに薫子さまは関わっていません。一刻も早く帰らなければいけないんです」
言い終わってすぐ、導明は厚手の掛布から出ておもむろに立ち上がった。
肌衣しかない上に素足では薄ら寒いが、贅沢は言っていられない。
寝続けた身体を動かす準備か、その場で軽く屈伸など始めた導明に皇女はいぶかしげな視線を投げかける。
「どうやって帰る気なの?」
「そうですね……金鵄たちの待機所を教えていただけませんか? あれに乗れば安全に下へ降りられそうです。一羽借りて……いや、返せませんね。どうしましょう。姫君、金鵄ってここに何羽ほど飼われているんです? 火急の件につき、一羽いただいても良いですか?」
背伸びしながらの動作の呑気さとは裏腹に、堅実な算段だった。
「……金鵄は自分が決めた主しか背に乗せないわ」
「そうですか。それでは、一緒に逃げていただけませんか?」
「私が頷くと思っているの?」
「理不尽な過失を責められ続けるよりは、下で暮らした方が幸せなのではないでしょうか」
悪びれもせずにこりと笑う顔に、皇女はかすかな寒気を覚えた。
自分が迎えに行ったあの日、彼の中では全て決められていたのではないか。
羽衣を身に付けた天人たちとは会話も交渉も出来ないと見抜き、ただひとり金鵄に乗っていた皇女が立場ある者だと目星をつけ、会話能力の確認と遠回しな教唆の為に話しかけたのでは――?
そんなもの、ただの想像にすぎないと何度も頭を振る。
仮説が正しかったとしても、もはや済んだこと。
導明が意識を保って下界へ帰る機会は今をおいて他にない。
怪我が治れば再び羽衣を着させられ、導明を間接的に助けた皇女も間もなく咎を受けて同じ目に遭うだろう。
手段を選んでいられなかった。おそらくはただ、それだけなのだ。
利用されたと怒るだけ無駄というもの。
しかし、理解が及ばない部分がどうしても残った。
「どうして……そこまでするの? 私達は、下界では長く生きられないのに」
糾弾の代わりの問いかけが、自然と口をついて出ていた。
実年齢に反した背丈の弟は事実を知らなかったのか少々ぽかんとしていたが、不意にはにかんでみせた。
「非常に残念なことですが、月にうさぎは居ないのですよ」
「鳥……」
無意識に呟いた言葉に深い意味はなかった。
野鳥にしては大きすぎる羽音を耳が拾い、その場に縫いとめられたように動けなくなる。
とっさに浮かんだ都合の良い考えを頭から追い出そうとするが上手くいかない。
支えてくれていた女官の腕を解き、火花を避けて音が聞こえた方へよたよたと歩いていく。
やがて羽ばたきは止み、重量のあるものが降り立つ気配がした。
風にあおられ、転ばないように立ち止まる。
ふわりと頬をかすめたのが何なのか、薫子には分からない。
ただ状況から、霊山に棲むという物の怪の怪異話を思い出していた。
背後から薫子の身を案ずる声が止まないが、どうしてか退く気にならなかった。
開けたままの眼球が乾き、とっさに両手でまぶたを覆うと、前方から慌ただしい足音が駆けてくる。
「薫子さまっ!」
切羽詰まった切れ切れの声に聞き覚えがあると思った矢先、急に身体が左右から締めあげられた。
柔らかな髪の感触とすぐ近くで聞こえる息遣いに、抱きつかれたのだと理解する。
よほど体力がないのか何度か咳き込むのを感じ、つい苦笑した。
突然そうされたことに対する恐怖はない。
相手が得体の知れないものではないと、一瞬で理解出来たからだった。
「夢……ですか?」
心では分かっていても確証が得られず、すがるのをためらう薫子の様子と、その光の灯らない双眸に事態を悟った白金色の髪の男――導明は切なげな息を漏らした。
「現実です。どうにか、帰って来れました。本当に、申し訳ありません」
詫びる声の優しさに薫子はほろりと涙をこぼし、唇を噛みしめたまま泣き始める。
衝動的にしがみついた細身から感じたわずかな血のにおいと阻む異物のない背中に、彼の翼が失われているのだと知った。