異様な恋
写真というのは、不思議なものでございます。
とどめることの出来ない今を、ハサミで切り取るように、残すことができるのですから。
まるで、人や、建物や、虫や、土地が、閉じ込められて出てこれないようじゃありませんか。そう思うと、昔の日本人が、魂がとられてしまうのでは危惧したのも、無理からぬ話でございます。撮られた瞬間、鈍く、どんよりと輝くレンズの中に魂ごと吸い寄せられ、写真の中で生き続けるなど、おぞましい妄想に取り憑かれることもやむをえないことでしょう。
私は、カメラとは悪魔が作り上げた代物ではないのかしらと思ってしまうのでございます。
今この時、この現を、手中におさめるということは、決して人間が辿り着いてよい境地ではございません。それは、神の所業でございます。だから、写真家というのは、私にとっては悪魔の手先のようなものに見えてしまうのでございます。
というのも、なに、私は写真に纏わる、ある不思議な体験をしたことがあるのです。それをお話しいたしましたら、貴方もきっと、写真に自ら望んで写ろうなど思われますまい。
それは、私がまだ帝都大の若き学徒である時分でございました。私には、七つ年上の兄がございまして、名を菊一郎と申すのですが、その兄はどうにもおかしな人だったのでございます。と言いますのも、兄は水を覗き込むのが好きだったのでございます。特に川を覗き込むのが大好きで幼少の頃から、毎日のように土手に行っては、地に伏して水面を覗き込むのでございます。そうして、ニタニタと面白おかしそうに笑っては、不気味がられておりました。私は、兄のことが好きで、よく後ろを引っ付いて回っていたのですが、兄が水面を覗き込み、悦にいる時間だけは、犯し難く、また奇怪に思えたのでありました。
兄の奇行は、彼が医師となっても止まることはありませんでした。彼は診療が終わると、必ずと言ってよいほど川へ向かうのでありました。
一度、なぜそこまで川へ向かうのかと問うたことがございます。兄は、そう聞くと、少し面映げに破顔しました。
「お前はナルキッソスを知っているかね? ギリシャ神話の話でね、川を覗き込む青年がね、水に映る自分の姿に恋をしてしまうのだ。その物語を読んだ時、本当かどうか試してみたくなったのだ。するとどうだろう、銀盤のような表面には自分とそっくりな、だが僕より優しげな男が、こちらを覗き込んでくるじゃないか。僕はね、ナルキッソスの恋慕が分かっただけではない。僕に似た彼が、今ここに生きて、心臓を脈打たせているのが分かったのだよ。僕が手を伸ばせば、あちらの僕に似た彼も手を伸ばし、触れようとしてくる。だが決して触れることはないのだ。僕はそれから、どうにも水の中にいる彼が気になって気になって、仕方がないのだよ」
兄は、どうやら、水に映る自分に恋をしてしまったらしかったのです。なんと不毛な恋なのでしょう!
私は、兄を幾度も説得しましたが、兄は決して私の言葉に耳を傾けようとはしませんでした。むしろ、私の忠言は兄にとって、越えるべき障害に思えたのでしょう。ますます、固執し、その意志を強固にしているように思われました。
私は、兄の妄執をどうにか解きほぐそうといたしました。自分自身に恋するなんて、そんなのおかしいに決まっています。
私は、川に近寄らせてはなるまいと兄を浅草の喜劇や芝居、映画に連れ回しました。兄は、渋々と言った様子で、私に振り回されていました。兄は、私のこの行為を、兄を取られまいとする弟のかわいい悋気だと思っているらしいらしかったのです。
その日は、明日が休日だという兄の言葉を起因として、浅草で芝居を観た後に、酒場でいっぱいやることになりました。私は下戸で酒など一滴と飲んだだけで顔がカッと赤くなり呂律が回らなくなるのですが、兄はめっぽう強く、また好んでいましたので、連行された酒場では、無理に付き合わされたのでありました。
酒場というのは不思議なものでございます。人と人を結ばせる、蜘蛛の巣のように複雑な罠が仕掛けてあるのです。
気がつけば、兄は、酔った私に見切りをつけて、近くにいた二人組の男達に手招きしました。
一人は役者風の顔立ちが整った男で、もう一人は大きな鞄を抱いた男でありました。
二人は渋っていましたが、兄が酒を奢ると言った途端、媚を売る商人のように手揉みして、こちらの机へ移動して来ました。
整った顔立ちの男は、予想通り、役者をしているようです。兄は、すっかり、彼に惚れ込んだようでした。私は、彼の野心家めいた瞳が気に入らず、妙に話しかけてくるもう一人の男と言葉を交わしておりました。
もう一人の男は、宗さんと言い、写真家をしているといいました。
宗さんは、大きな鞄のなかから、一枚の写真を取り出し、私に見せてくれました。
それは有楽町の繁華街で撮った、親子の一枚でした。光陰が左右で分かれており、親子は、光へと目を遣っていました。母親の凛然とした立ち姿は気迫に満ち、子供としっかり手を結んでいます。
その写真を見た瞬間、私の頭の中で、兄を探し回る幼い私の姿や兄の恍惚とした表情、戦後の慌ただしくも、子供のような無邪気さを持った日本のことを思い出し、急に泣きたくなりました。
感じ入る私をますます気に入ったのか、宗さんは大きな鞄を弄って、銀のケースを取り出すと、そのなかに納められていたカメラを見せてくれました。カメラというのは、やはり悪魔の眷属なのだろうかと思われるほど、それは艶美でありました。一つの芸術品のようなのです。レンズやシャッターの突起、黒と銀のツートンカラー。写真のように白黒の世界に引きずり込む引力を持っておりました。
ライカという種類らしく、自慢したいのか、宗さんは私にそれを持たせ、上から手を重ねて、ファインダーを覗き込ませました。
酔っていたせいか私も大胆になって、宗さんに、これはなに、どうやって使うのと、子猫が甘えるように尋ねました。
気がつけば、夜は明け、店のなかにいる客は前後不覚の客しかいませんでした。兄は、やはり酒が強いからでしょうか、悠然と煙草を吹いていました。役者の男は兄に酔い潰されたのか、火照った頬で机に突っ伏し、すやすやと寝息を立てておりました。
宗さんはと言いますと、いいモデルがいると、席を立つと千鳥足でパナマ帽子を被った男に話しかけました。男も酔っているのか、こくりこくりと頷いているのか、寝転けているのか分からない調子でした。宗さんは男の前に立つとまるで私を撮るようにじいっとカメラを構えました。
「彼、カメラマンなのかい?」
兄が紫煙を吐き出しながら言いました。私が頷くと、意地悪そうににこにこと笑って言いました。
「撮って貰うといい」
私は奇妙な羞恥心にかられました。彼に撮られるということが、猥らなことのように思えてなりませんでした。それが自尊心から来る衝動だということは、心のどこかで分かっていました。しかし、宗さんの私を見る瞳!
あまりにも、熱っぽい、爛々とした獣のような、あの視線を受けると、自分が『銀座カンカン娘』のお秋になった気分になるのでございます。犬を連れ、エキストラとして参加してくれと乞われているような、まるで自分が女になっているような、そんな恥ずかしい思いを抱いたのです。
私は、ふるふると首を振りました。慌てふためく私の姿に、兄は笑っていました。
そのうち、宗さんは、満足げに帰ってきました。千鳥足だった足取りは見る影もありません。どうやら、撮っているうちに酔いから醒めたようでした。
「撮った写真を見せてくれないかい」
兄は、宗さんの顔に煙を吹きかけながら、傲慢に言い放った。
「いいですけれど、現像しなきゃなりませんよ」
「おや、そうなのかい? すぐに写真となって出てくるものだと思ったけれどね」
「そりゃあ、ポラロイドカメラのことですよ、これはフィルムでね、一回家に帰って液で処理しなきゃならないんですよ」
「そうかい。なら、来週、またここに来るから、その時にでも見せてくれたまえ」
宗さんは、むっとしたものの、私に視線を向けるとにっこりとしました。
「君も来るの?」
宗さんは、少し甘い言葉づかいをしました。
「もちろんだとも」
私が答える前に、兄が返事を返してしまい、私は、どうにもむず痒い視線をくれる宗さんと再び会うこととなったのであります。
果たして、来週の酒場に、宗さんは現れました。私に淡く微笑みかけると、兄に勧められるままに酒を呷って、ご機嫌な様子で、あの大きい鞄から写真を取り出したのでありました。
それは、パナマ帽子を被り、眼鏡をかけた男が寝転けている写真でありました。あんなに私に向けられていると思われたレンズは、私を霧のなかに紛れているように曇らせておりました。自分の自意識過剰な神経に赤面しておりますと、私と同じように写真を覗き込んでいた兄がわなわなと口を震わせ、上気した頬で写真をうっとりと眺めておりました。
私は兄の顔を見て愕然としました。それは、兄が水面を覗き込む時に見せる、愛を乞う男の顔だったのです。
「これ、売ってはくれないかい」
「え、ええ、よろしいですけれど」
あまりに熱っぽい声に、宗さんは驚いた様子でありました。
「ああ、ありがとう」
兄は、写真を両手でそっと持ち上げると、自分の朧げな姿に口付けました。
それからというもの、兄は部屋に閉じこもっては、写真を愛撫するようになりました。仕事にも行かなくなり、母の心配する声も、父の怒鳴り声も聞こえないと狂人のように日がな一日過ごすのであります。私は、兄が写真のなかに麗しの恋人の姿を垣間見たのだと、勘付いておりました。しかし、父や母に兄の異常愛を打ち明けることができませんでした。だれが、打ち明けられましょう。血の繋がった息子が写真に映る自分に恋をしているなど!
私は、兎に角外に連れ出すべきだと考えました。部屋に閉じこもったままではますます、兄が遠くへ行ってしまうように思ったのでございます。
兄は、私の声だけは、まだ聞こえているようでした。彼と私の血という繋がりは、まだ兄をこの世に留まらせることができたのです。
子供のように駄々をこねる兄を無理矢理に説得し、家を出ました。私は、浅草寺に兄を連れていくことにしました。兄が片時も離さぬ写真を、どうすべきか、誰かに指南して欲しかったのです。もしかしたら、兄がこうなったのは、なにか邪悪なものに取り憑かれたからではなかろうかという現実離れした妄想まで育んでおりました。ですから、いざとなったら祓って貰おうと思ったのでございます。
日光を怠そうに浴びる兄の肌はぞっとするほど青白く、まるで死人の有様でありました。一歩踏み出すだけでも、息を荒くさせるのであります。その肩に、重石でも乗せているようでございました。
我が家から、浅草寺まではそう遠くはありません。私は、なるべく人混みを避けて、歩きました。といいますもの、兄は、歩きながらも、あの宗さんから買った写真を舐め回すように見つめているのでございます。そうして、ニヤニヤと、喜悦の笑みをみせるのであります。自慢の兄が、人道を外れた獣のような顔をしていることが恥ずかしかったのでございます。
ああ、羞恥心とは、時に何よりもこの世に不必要なものとなるでございます。
「照君」
私の名前を呼ばれ、振り返りました。兄も、手中の写真から顔をあげ、声の方へと顔を向けました。宗さんでありました。宗さんが、あの酒場と同じように、カメラを構え、こちらを見つめているのでありました。カメラの前には、和装の、やはりパナマ帽子を被った男がおりました。大小の包みを左右の手に持って、難儀そうに歩いております。
私は咄嗟に、いけないと思いました。兄を、引き寄せようと手を伸ばしーーああ、なんということでしょう! シャッター音が無情にも鳴り響いたのであります。
兄は、手に持った写真を口のなかにいれ、咀嚼しはじました。まるで飴玉でも舐めるように頬が膨らみ、喉仏が林檎を丸呑みしたようにぷっくりと膨れ上がりました。兄は、愛おしそうに喉に手をあて、そのまま、嚥下したのです。そうして、獣のような咆哮を上げ、ケタケタと笑い始めました。兄は、私を置いて、すでに人外境へ旅立ってしまったのです。
「兄さん、兄さん」
縋り付く私を振り払い、兄は走り出しました。後を追いかけましたが、まるで追い付かず、私は兄を見失ってしまいました。
兄は、その日の夜、隅田川で溺れ死んでいる姿が発見されました。
これは、兄のはずれた恋慕の果ての末路だと、思われるかもしれません。写真は、なんら悪くないと。それも道理でございます。しかし、私はそうは思いません。
私は、ある一枚の写真を持っております。それこそ、兄のようになめ回さんばかりに見つめて、恍惚とするのでございます。
さて、その写真とは、宗さんが撮った、和装の男の後ろを動く兄の姿をおさめたものです。振り返り、呆然としている、死ぬ前の兄の姿でございます。
私には、この写真のなかに兄の、善良な魂が閉じ込められているように思えてならないのです。写真のなかに、兄の良心が閉じ込められてしまったがゆえに、兄は狂い死んだのはないのではないでしょうか。そう思うと、この写真が兄自身であるように思われました。激しい感情は胸のうちに広がり、私は、肌身離さず写真を持ち運び、ニヤニヤと眺めるようになりました。
私は、写真のなかの兄に恋をしてしまったのでございます。
異様な恋だとわかっているのでございます。不道徳的でございましょう。
あの時、兄に伸ばす手が届いていれば、なにもかも違っていたのやもしれません。写真に撮られなければ、兄は今も元気発剌とはいかないまでも、生きていたのかもしれないのです。
今、兄は写真のなかで生きております。魂が写真のなかにあるのですから。
まこと、写真とは不思議なものでしょう?