理想の人物
「取り敢えず、俺が英雄じゃねぇって事だけははっきりさせとかねぇと」
その頃、再び翔宅へと場所を移して。
徐に腕組みをしながらその心境をぶつけてみせた千影に、遼園が改めてとその疑問符を口にする。
「千影様は、どうして英雄と呼ばれる事をそこまで嫌悪するのです?」
遼園の真剣な面立ちを前に、千影も改まってその事実を話し始めた。
「そりゃ嫌に決まってんだろ、俺じゃなく炎に向けての言葉だからな。俺自身はまだ、何もしちゃいねぇってのにーー」
そうして少しだけ間を挟めた後、再び言葉を連ねる。
「俺より英雄っぽい人いるだろ。ほら、紅葉さんとかさ」
その言葉に、遼園はふと、千影の部屋に散乱していた紅葉の本の存在を思い出した。
仁珊国でも、特別名が知れ渡っている偉大な青年。
翔宅を訪れる前、千影が「あの人」と意味深に口にしていた場面があった。恐らくその人物は、紅葉を指し示していた言葉だったのだろう。
「十年前の悪夢再来の日に尽力された方、でしたね」
その一言に、千影は大きく頷きを返す。
「あの時はみんな心が病んでたからな。仁珊復興に関する資金的な援助はそれこそ他国でも出来たかもしんねぇがーー紅葉さんは危険を承知で国内各地を巡回し、人々を元気づけて回ってたんだ」
「ふふっ、把握しておりますよ。当時の出来事を記した本は未だに人気がありますからね」
熱を込めて語る千影に、遼園が穏やかな笑みを零す。
「偽善と言われりゃそれまでだが、あの人の事は今でも尊敬してる。俺にとっての理想なんだ、紅葉さんは」
「……だからこそ、翔様の事も放っとけないと」
「ーーま、大体そんな感じだな」
そうして腕組みを解き、千影は不意にその事実を尋ねる。
「……しかしあの坊主、随分と遅ぇな。一体何処まで水汲みにーー」
「きゃぁーっ、助けてっ!」
ーーその時。唐突に、女性と思しき者の叫び声が、辺り一帯に木霊する。
「ーー何だ?」
即座に立ち上がり、千影は玄関口へと足を動かす。
そのまま草鞋を履き直し、右手で潔く扉を開いた。
遼園もすかさずその動作に伴えば、二人は目前にある予想外の光景に目を丸くする。
「ーーんだと?」
紅の皮膚に、小柄な童子程の体型。
鋭い牙に爪を持つ、一匹の”鬼”の存在。
目前でうずくまる一人の少女に、それは容赦なく襲い掛かっていた。
「千影様!」
「ちっーーさせるか、この!」
言うが早いか、千影は素早く少女の元へと駆け寄り、鬼の顔面へ豪快な回し蹴りを食らわす。
その攻撃に鬼が怯んでいる隙に、遼園が少女の身体を抱きかかえ素早く距離を取っていた。
そうしてゆっくりと少女を降ろし、優しく微笑む。
「もう大丈夫ですよ」
涙目ながらに頷く少女。
「琴乃っ!」
その後駆け寄る一人の女性が、少女の体を強く抱き締めていた。