悪夢再来。狂わされた未来。
今からおよそ、十年程前。
仁珊国に、血の雨が降り注いだ。
長年国を守護してきた結界の、突如としての崩壊を合図に。
人ならざる者、”鬼”達は、驚異的な早さで仁珊を壊滅寸前へと追い込んだ。
後に、”悪夢再来”と呼ばれる出来事である。
「母さん! 母さんっ!!」
両頬に、特徴的な刻印を持つ一人の少年。
彼もまた、悪夢再来による被害者の一人だった。
見知らぬ女性に手を握られ、燃え盛る炎とは真逆の方向へ、足早に連れられる。
一方で少年が手を伸ばしていた先、その炎の中には、彼の母親と思しき人影が揺らめいていた。
しかしその身体は既に無数の瓦礫に埋もれ、身動き一つ出来る状態ではない事が分かる。
「離せっ! 母さんが、母さんがまだあそこにっ!!」
少年がどれ程抵抗しようと、女性が掴んだ手を放す事はなかった。
それが少年を生かす為、救える可能性のない母親を置き去りにする為だと、幼い彼にも容易に理解がつく。
しかしその選択は、あまりに残酷で、無慈悲なもので。
少年が僅かに膨らませていた期待を、裏切るには十分すぎる程のものだった。
「母さん! 母さあぁあああん!!」
悲痛な叫び声とは裏腹に、猛々しく燃え広がる紅の業火。
それらは容赦なく、少年の母親を飲み込んでいく。
その手を引かれるままに、少年は心の奥底から泣き叫んでいた。
己の非力さと、非情な現実を激しく呪いながらーー
「千影! いるのか、千影!!」
早朝から、部屋の襖を忙しく叩く音。
長い紫髪を一つに束ね、赤白の巫女衣装に身を包んだ女性は、その日起きていた現状に強く頭を悩ませていた。
「いい加減にしろ、貴様っ!」
次の瞬間、女性は端正な顔立ちにまるで似つかわしくない豪快な動作で、扉を一気に蹴り破る。
すると目前には、扉を固定していたと思しき、一本の丈夫な木の棒。
開け放たれた障子と散乱する無数の本が、その主の留守を静寂に物語っていた。
「くっ、逃げ足の速い奴め」
その悔しさに、拳を握り締める女性。
瞬間、唐突に背後から透き通るような男声が聞こえてくる。
「相変わらずですね、千影様は」
「うぉっ、遼園! 脅かすな!」
「これは失礼。小百合様もそろそろお疲れかと思いましたので」
女性、小百合から遼園と呼ばれた青年は、よく整えられた深緑の髪が、中性的な容姿によく映えた美青年であった。
そしてその手には、盆の上に乗せられた一つの湯飲み。
その表面には、あかんべーをした猫の顔が墨でコミカルに描かれている。
「あぁ、いつもすまないな」
そう言いながら湯飲みをゆっくりと両手で掴み、何度も、それは何度も吐息を吹きかける小百合。
そうして漸く口元へーーその仕草すらも極力穏やかを心掛けているのかスローテンポなものだったがーー茶を含む。
その不可思議な行為は一体何なのか、その答えは次の一言で大凡理解のつくものだった。
「……うむ、今日も良い冷め具合だ」
いい年した女が、まさかの猫舌かよ。何てツッコミは、闇の彼方へ置き去ろう。