決断
「関税は……撤廃することにする」
早朝、突然の呼び出しに、青ざめた顔をして集まる職員たち。苦虫をつぶしたようにうつむく大統領を呆気にとられて眺めました。窓の外から聞こえる、しとしとと降り注ぐと雨音。
パチ……パチ……パチパチパチ……!!
執務室に割れんばかりの拍手が響き渡りました。職員たちの顔は明るく、中には目頭を押さえる者もいました。彼らの喜びが、痛いほど大統領の胸に突き刺さりました。
(俺は……ここまで皆を苦しめていたのか……)
初めて、大統領は彼らの奥に隠された本心に気づきました。今まで、自らの政策の正しさを疑うことはなかった。強国A国を再び輝かせることこそが、国民のためだと信じて疑わなかった。しかし、その強硬な姿勢が、多くの人々の生活を、そして心を、深く傷つけていたことに初めて気づきました。
脳裏に、遠い日の記憶が鮮明によみがえりました。
広大な小麦畑で、汗にまみれながら懸命に働く父の大きな背中。その背中にしがみつき、風に揺れる麦の穂を見つめる自分。貧しい牧場で生まれ育っち、いつか必ずA国を立て直し、皆が豊かに暮らせる国にしてみせる。それが、幼い頃からの揺るぎない誓いだった。
だが、いつから道を踏み間違えてしまったのだろうか。いつから、国民の笑顔よりも、他国との競争にばかり目を向けるようになってしまったのだろうか。
ふと、亡き父の優しい笑顔が、ぼんやりと目に浮かびました。質素ながらも温かい食卓、寝る前には必ず聞かせてくれた子守唄。父が本当に願っていたのは、こんな張り詰めた空気の国ではなかったはずだ。
(そうだ……俺が本当にやるべきことは、J国に対抗することじゃない……)
大統領は、深く息を吸い込んだ。胸の奥に、これまで気づかなかった、しかし最も大切な感情が湧き上がってくるのを感じました。
(俺が守るべきは……A国の人々の笑顔なんだ!!)
ゆっくりと顔を上げ、大統領は職員たちを見渡した。一人ひとりの目に、真摯な思いを込めて。
いつの間にか雨はやみ、窓の外から差し込む輝くような希望の日の光で、執務室が暖かく照らされました。
「すまん……みんな。私が間違っていた」
大統領は深く、深く頭を下げました。目の前は霞み、言葉は喉に詰まり、声がでない。ただ、心からの謝罪の念を皆に示さずにはいられませんでした。
静寂の中、一人の小さな少女が、ゆっくりと大統領に近づいてきました。その手には、温かそうなパンが握られていました。少女の瞳には、溢れんばかりの優しさで溢れていました。
「大統領……」
少女はそっとパンを差し出しだしました。
「これ……おじいちゃんが作りました。J国のパンも美味しいけど……このパンも、私は大好きです!!」
大統領は、戸惑いながらもそのパンを受け取りました。まだほんのりと温かい。少女の優しさが、手に、心ににじんわりと広がっていくのを感じました。
涙を拭いながら、大統領はそのパンを口いっぱいに頬張りました。素朴ながらも、小麦本来の優しい甘さと香りが口いっぱいに広がる。それは、しばらく忘れていた、あの子供の頃を思い出す、懐かしい味でした。
「……おいしいね。君もおじいちゃんのように、立派なパン職人になるのかい?」
笑顔でこくりとうなずいた少女に大統領は微笑み返し、優しく抱きかかえました。この国には未来がある。この子たちの笑顔を、私は絶対に守ってみせる!
大統領の目から、熱いものがとめどなく溢れ出しました。それは、後悔の涙であると同時に、 僅かな希望の光を見出した感謝の涙でした。