異変
休耕期の間、ライカ―ルはルマリノからマサンザまで毎日通っていた。
朝起きて家族分の水を汲みに行き、それから出発。身体の効率的な使い方を覚え始めたライカ―ルの最高速度は、百メートル四秒を切り始めた。それを一時間強、ぶっ通しで街道を駆け抜ける。
さすがに異常だと感じ始めたライカ―ルは、人通りの無い直線で走りながら自分の足を見てみた。だが、あまりの速力に目にも止まらない。ゆっくりと速度を落としながら自分の足を注視するも、速度を落とすと普通の筋肉質な足だった。
何か、おかしい……。
カロエ道場に通い始めて、しばらくライカ―ルに課されたのは型の稽古だった。拳を見よう見まねで空に繰り出す。最初はぎこちない動きを見せていたものの、三日目の昼頃には自在に繰り出せるようになっていった。一つ一つの拳や蹴りが大気を揺るがし、強力な筋力で蹴り足の石畳に皹が入る。
その様子を、アルトは僻み、ファルナブルは驚き、パザウッドは笑みを持って見ていた。
「やめやめやめ! 床が壊れるわい。修理費用も馬鹿にできん」パザウッドは三日目の昼でライカ―ルの型の稽古を中止した。「私が稽古をつけてやろう」
その言葉にアルトは歯ぎしりする。
なんで、あの新入りばかり……!
新入りにやられた屈辱と僻みでアルトの心中に狂気が宿り始めた。
「好きな間合いから攻めてきていいぞ!」
「はい!」
元気よく返事したものの、まだ武道を習い始めたライカ―ルに手段など無かった。それに相手はどのような技を使うのかも分からない。
どうする……。どうすればいいんだ。
パザウッドとの距離は約五メートル。突っ込んでいってはまた飛ばされるイメージしか湧かない。
ライカ―ルはバックステップして距離を開けた。
それを見たパザウッドは構えを変える。
「行きます!」
ライカ―ルは脚力を生かして飛びかかった。その高さは四メートルを超える。
それを見ていたファルナブルは、額に手をやって顔を背ける。
飛びかかったライカ―ルの視界からパザウッドが消えた。
え……?
着地した瞬間、斜め後ろから脇腹に鋭い蹴りが入り、ライカ―ルは蹲って悶絶した。
「飛びかかる馬鹿がいるかい! 着地点を狙われて終わりだぞ」
悶絶するライカ―ルに向けて失笑が湧き始める。だが、驚異的な跳躍力を見せた彼をアルトは面白くない。一瞬、目を奪われたからだ。そんな自分が嫌で仕方がない。
パザウッドがライカ―ルをどうしようか悩んでいた時に、鳥肉を揚げた良い香りが漂って来る。
「よし、昼にするか」
痛みが和らいできたライカ―ルは立ち上がった。
僕なんて、まだまだだ……。
弟子たちの昼食はフィノナの両親が準備していた。ライカ―ルがテーブルにつく頃には脇腹の痛みは、すでに無くなっていた。彼の腹の虫が鳴る。
「食べろ食べろ。体を動かして栄養をしっかりととる! それが早く強くなる秘訣だ」
快活に笑いながらパザウッドは真っ先に揚げた鳥肉の料理に手を伸ばす。それを見届けた後、他の弟子たちは料理に手を伸ばした。
午後からライカ―ルはファルナブルと組み手をしていた。ただ実践的な組み手ではない。ライカ―ルはゆっくりと型から習った動きを混ぜて少しずつ自分のものにしていく。
「そうだ。ゆっくりでいい。型で習った動きを少しずつ自分のものにしていくんだ」
ライカ―ルは頷きながら動きを止めない。近距離での攻撃方法が少しずつ体に馴染んでいく。五分に一回休憩をとる。だが休憩時間もゆったりとした型の動きを早く体に馴染ませるよう、ライカ―ルは型を続ける。石畳を割ることは無かったので、パザウッドは微笑みながらそれを見守る。やがてライカ―ルの三日目は終了した。
彼が道場にやってきて二週間が経った。
ライカ―ルはファルナブルとの稽古を、ただひたすらに繰り返す。
その頃には素早い突きや蹴りが繰り出せるようになっていた。ファルナブルも会話をする余裕が無い。顔面や胴のすれすれを素早く重いライカ―ルの攻撃が掠める。
うっ……、くっ!
ファルナブルは追い込まれつつあった。だが、ライカ―ルの一撃が顔を狙っていると分かった瞬間に、彼は技を繰り出した。お互いの突きが交差し、ライカ―ルはカウンターをもろに喰らった。ライカ―ルか顔と首を押さえて蹲る。
危なかった……。
ファルナブルの呼吸は乱れている。
ライカ―ルは顔を押さえながらも立ち上がった。
「師範代、技を出しましたね」
「ああ、出さなかったら、私が危なかった」
賞賛の言葉を贈るファルナブルに、ライカ―ルは拳を突き上げて喜びを表現した。
「やった! とうとう師範代に技を使わせた!」
その様子を見たファルナブルは溜息をついて微笑む。
「君は不思議な男だ。負けたというのに、そんなに純粋に喜ぶだなんて」
「さあ、飯の時間だ」
ファルナブルはライカ―ルと共に食卓に向かった。ただその日はアルトがライカ―ルの隣に座った。ライカ―ルは特に怪しむ事無く、パザウッドが一口食べてから自分のスープに匙を入れる。そして食卓の中央に置かれた肉料理に手を伸ばし、それを口に入れてスープで流し込む。
フィノナの両親が作る料理は絶品だった。
特に味に違和感を覚える事無く食事は進んでいたが、ライカ―ルは急に吐き気をもよおした。
胃が……気持ち悪い……!!。
テーブルから背を背け石畳の上に今まで食べたものを撒き散らす。
「ライカ―ル!!」
フィノナとファルナブルが立ち上がり、蹲るライカ―ルに駆け寄る。
「どうした!」
「き、気持ち悪い……」
隣に座るアルトは冷めた目で見降ろしていた。
お前が悪いんだ。
アルトは木材防腐用に使うヒ素を隠し持っていた。ライカ―ルが身を乗り出して肉料理に手を出す時に、スープに、そのヒ素を混入したのだ。
強烈な吐き気も伴っていたライカ―ルは、出来るだけ平生の状態にもっていこうとイメージを働かせた。少しずつ浅い呼吸を繰り返す。
大丈夫だ、落ち着いて……。出来るだけ体を整えて……。
五分ぐらい経ち、ライカ―ルの容体は安定してきた。心配する皆を安心させるよう、ゆっくりと立ち上がり、笑顔を見せた。
「ごめんなさい、もう大丈夫です。師範代の攻撃が後になって効いていたのかも」
アルトは驚愕の表情を見せた。
嘘だ! ありえない!!
驚くアルトの懐からビンが転がり出て石畳の上に落ち、子気味良い音を立てて割れた。
「あっ!」
弟子の一人が、そのビンに書かれた文字を見た。
「それは……ヒ素!」
「あ、ああ……、ち、ちが……」
パザウッドはアルトに詰め寄る。
「ヒ素って、どういう事だ? それにさっきのライカ―ルの様子、お前……」
「わぁーーっ!!」
アルトは椅子を蹴飛ばし、その場から走り去ろうとした。
それを見逃さずパザウッドは足をかけて転ばせる。
「逃がすと思うか。憲兵に突き出してやる」転んだアルトの腕を捻り、パザウッドは、その背中に体重をかける。「食事に手を出すな! 調べさせてもらう」
「ライカ―ル、大丈夫か?」ファルナブルがライカ―ルの肩に手をかけ尋ねる。
フィノナがコップに水を注いでライカ―ルに渡した。
「大丈夫です。量が少なかったのかも」
「そうか、一応かかりつけ医に診てもらったほうが良い。今日は大事をとって入院するか、師範のところに泊めてもらうんだ」
「大丈夫そうですが、一応医者に診てもらいます」
その後の調べでアルトが仕込んだヒ素は致死量を遥かに超えていたことが分かった。アルトは破門どころか、取り調べを受け収監されることとなった。