駆ける
ライカ―ルは十二歳になっていた。朝は瓶を持って井戸に水汲みに行き、一家が一日で使う分、十五キロもの水を持って帰る。そしてジェムの農作業の手伝い。素早く、要領よく重労働である農作業をこなし、ジェムの労力は三分の二も減った。そして昼ご飯を食べ終わってひたすら走る。その速度は百メートルを測る物は無かったが、十一秒を切っていた。それは十二歳の世界記録を遥かに上回っていた。その速度で二キロは走る。
その様子を近所の子供は尊敬の眼差しで見ていた。以前水汲みで来ていた女性の子供で、二歳年下の男児だった。
速い。僕もあんな風に走れないだろうか。
その子もライカ―ルを真似て、彼のいないところで走った。だが二百メートルも全力で走ると息切れを起こし、その日はまともに動けない。やがて彼は走ることを止めた。
十五歳になったライカ―ルはジェムの畑仕事を一人でこなしていた。
「ライカ―ル、少しは休んだらどうだい」
「ううん、父さん、僕すごく力が強くて体が軽いんだ。父さんは休んでて」
「終わったら、また走りに行くのかい?」
「うん。今度は隣町まで走りに行こうと思うんだ」
「そうか、ラネル族にだけは気をつけなさい。彼らは人攫いをしていると専らの噂だ。まぁ、ライカ―ルを捕まえる事は出来ないと思うが」
「へへ、ありがと」
ジェムが一人で作業をしている時は夕方近くまでかかっていた農作業だったが、ライカ―ル一人でも昼前に終わらせられるようになっていた。
作業が終わり、ベイザが作った御飯を食べる。そしていつも履いている革靴を履く。ただ、おかげで革靴の消費が激しくなっていた。彼は革靴を三週間に一回の頻度で履き潰す。そして革靴で走ることに違和感を覚え始めていた。
靴は……、いいや。
ライカ―ルは裸足で走り出した。多少の違和感は覚えるものの、走り始めるとその違和感は無くなってきた。彼は風を切る。重心も前へ前へと持っていき、より早く走るコツを覚え始めた。周囲の景色が風のように流れる。A10神経が刺激され、ドーパミンが放出される。
その時のライカ―ルの速度は百メートル八秒を切っていた。
ある夕方、日が暮れる前にライカ―ルが走り終えて村に戻ってきた時、村の寄合所が人で賑わっていた。ライカ―ルの家より寂れていて、地震に見舞われると真っ先に潰れそうな建屋だった。家路につく途中、あまりにも人がいたので、彼は何気なく立ち寄った。
「何かあるの?」
入口で様子を見ていた子供にライカ―ルが尋ねた。
「サルバリム老師が来ているんだよ!」
「サルバリム老師が!?」
サルバリム・デル・エルド。彼の話は両親から聞いていた。齢百二十を超えた生き字引だという事も。遠い存在だと思っていたサルバリムが、わざわざ村まで足を運んできた事に、ライカ―ルは驚きを隠せなかった。
どういう話をしてくれるのだろう……。
物語に興味があるという根幹を忘れていないライカ―ルは、人込みをかき分けサルバリムの視界に入る場所まで移動した。寄合所の上座に座るサルバリムは、ライカ―ルを見つけた時、微かに目を見開いた。彼と視線を交わす。そしてサルバリムはうっすらと笑みを湛え話を始めた。
「私のような老いぼれの話を聞きに、よく集まってくれた。感謝する」
彼の話はこれからだったことにライカ―ルは安堵する。
「この国に起きる伝承の一つを皆に伝えよう。ここ数年のうちにフラムが降りてくる」
寄合所は静かになった。一番前で聞いていた村長が手を上げる。
「フラムとはなんですか?」
「なんだ、村長なのにフラムも知らんのか」
「……申し訳ありません」
「まあいい、皆もよく聞いて後世に語り継ぐのだ。フラムとは私たち人間に次の進化を見せてくれる神の欠片だ。そのフラムは天から降りてくる。フラムを手にしたものは人知を超えた力を得て、我々を天に近づけさせる。神が気まぐれで落とすそれは、正義の心を持つものが手にすれば安寧の時代を迎え、邪なる心を持つものが手にすれば……、分かるな」
「フラムはどのような形をしているのですか?」
「それは分からん。ただ宝石のようだとも言われている」
フラム、そのようなものが存在する事にライカ―ルは心躍った。転生したこの世界に魔法なんてものはなかったが、異世界らしき伝承に初めて出会えたからだ。
「フラムの現れる時期は分からないのですか?」村長は問う。
「年内としか分からん。日が昇る前にフラムは流星のように姿を現すだろう。私はこの話をしに、この国を回らなければならない。それが私の天命だからだ」
その他、小さな伝承を聞いたライカ―ルは寄合所を後にした。もう日は暮れて燈の灯る家からは夕餉の香りが漂う。
フラムか。絶対手に入れて、この世界をもっと知るんだ。
青年になったばかりのライカ―ルに一つ大きな目標が出来た。その話を手土産に彼はゆっくりとナパの香り漂う自宅へと帰っていった。
ライカ―ルはその後も時間を見つけては走った。二つ先の村に行って帰って来ても、まだ日は沈んでいない。三つ先の都市、マサンザに行っても帰って来れそうな手ごたえがあった。
素早く農作業を終え、その日も革靴を脱ぎ裸足になったライカ―ルは、マサンザの街を目指すことにした。準備体操もせずに走り出す。一気に最高速に達し街道を駆け抜けていく。石畳で舗装された街道だったが、ライカ―ルが走った後には砂埃が舞った。
いいぞ、どんどん速くなっている気がする。
それだけの速度を出しながらも、彼の息は乱れない。本来ならあり得ない現象だったが、運動するということを知らなかったライカ―ルにしてみれば疑問ではなかった。
大樹が生える曲がり角に差し掛かった。人通りが少ない街道である。ここで減速するのはもったいないとライカ―ルは速度を殺さないコースを選んだ。先が見通せない角の内側を攻める。外側から回り込み内側へと進路を変えた時、一瞬人影が見えた。
ヤバい!!
この速度で人にぶつかっては惨事を招いてしまう。そう思ったライカ―ルは地面を蹴って自分の身よりも相手の事を考えた。
「きゃっ!!」
突然現れた人に驚いた人影は小さな悲鳴を上げる。
地面を蹴ったライカ―ルは人影の頭上を飛びながら、その悲鳴を耳にした。彼の身体は街道を飛び越え、十数メートル先の草藪の中に飛び込んだ。
「あいてて……」
草がクッションの役割を果たし、痛みはあるものの頑丈な身体で無事だった。
「ちょっとぉ、大丈夫!」
ライカ―ルが躱した人影が、彼を心配して近寄って来る。腰を摩りながらライカ―ルは立ち上がった。
「うん、大丈夫……」
ライカ―ルが振り向くと、そこには彼と同じぐらいの歳の女の子が心配そうに見つめていた。髪は少し赤みがかり、右側の前髪は三つ編みにして垂れ下がっている。動きやすそうな服装をしていて、どことなく雰囲気が都柚に似ているとライカ―ルは見ていた。
「かなり飛んだけど、本当に大丈夫なの?」
「……あ、ああ、うん。大丈夫だよ。身体は丈夫な方だから」
「それにしても凄く速いわね、あなた」
「君は……、この近くの人?」服についた土を払いながら問う。
「うん、私はマサンザに住んでいるの。あなたは? あなたのように速い人、初めて見たわ」
「僕はルマリノ」
「ルマリノから来たの? ひょっとして朝から出て?」
「ううん、昼から」
「冗談でしょう!? 昼から出てここまで来れるわけないわ!」
「それが本当なんだよ。僕、足には自信があるんだ」
その女の子は、しばらく呆然とライカ―ルの全身を見ていた。そしておもむろに足に触れる。
「すごい柔らかい……、良い筋肉ね」
その言葉に、ライカ―ルは疑問符が浮かんだ。
「身体の事に詳しいんだね。何か運動しているの?」
「うん、私のお祖父ちゃんがマサンザで道場を開いているの。だから身体について詳しくなっちゃって。ねぇ、あなたも道場に来てみない?」
「僕が武道?」
「うん、いい線いけると思うの。あなた名前は?」
「僕はライカ―ル。ライカ―ル・ハムラス」
「私はフィノナ・カロエ。マサンザのカロエ道場って言ったら、みんな知っているわよ」
フィノナは人差し指を振りながら、したり顔で言う。
「そうか、道場か……」
自分の力に自信が出てきたライカ―ルは、さらに研鑽出来る場所が見つかって思わず笑みがこぼれる。
「そうだね。行ってみたいけど、でも……」
「そうか、ルマリノって言っていたもんね」
「父さんの農作業も手伝わないといけないし」
「毎日ってわけじゃないでしょ。それに昼から出発してここまで来れるなら、朝から出ると余裕じゃない」
「分かった。時間がある時に顔を出してみるよ。カロエ道場だよね」
結局その日はマサンザまで辿り着けなかったが、ライカ―ルに出会いがあった。
ルマリノまで走りながら彼は思う。
フィノナ、かわいい子だったな……。また会いたい。




