逢瀬
翌昼、見舞いに来た郁美が手袋を持ってきた。病衣に合わせた青い手袋には滑り止めが付き、指の部分は本のページが捲りやすいように切ってある。
「これで車椅子が楽になるわよ」
「ありがとう」
司はぎこちない手つきで手袋を嵌めた。そしてハンドリムを握って前に回すと、昨日とは打って変わってスムーズに車椅子を前に出すことが出来た。
「うわ、全然違う」
「司が活動的になってくれて、母さん嬉しい」
流した涙が司に見えないように、郁美は司に背を向けた。
「母さん……」
その後、郁美は帰宅し、司は看護師の許可を得て一階に降りた。患者専用の出入り口から出て噴水の見える場所まで来ると、昨日とは違ったオレンジの寝間着を着た都柚の背中が見えた。膝に置いた本が落ちないように、体全体を使ってハンドリムを回す。そして都柚の横に着けて声をかけた。
「あ、司君、今日は一人で来たの?」
「うん」と返事をして手袋を見せる。続いて膝に置いた二冊の本を手に取って見せた。
「持ってきてくれたんだー」
「多分、都柚ちゃんでも読めると思う」
「あっ、年上をバカにしたなー」
一瞬、不機嫌な表情を見せるも、すぐに笑顔になって本を受け取った。そして表紙の絵を褒め、パラパラとページを捲る。
「うん、これなら読めそう」
「良かった。読み終わったら感想聞かせてよ。面白かったら続き持って来るから」
「絵も入って読みやすそう。私、日頃から本を読んでないから、想像力っていうの? が無くて」
「最初は僕もそうだったよ。一冊の本を読み終えるのに一週間かかっちゃった」
「一週間……、最初の方を忘れちゃいそう」
「大丈夫、大丈夫」
「そうだ、お礼にこれを上げる」
そう言って都柚は持っていたバッグからスマホを取り出し、そのスマホに付いていたストラップの一つを苦戦しながら外した。それはデフォルメされた猫のアクリルキーフォルダーだった。
「いいの?」
「うん。この猫のグッズ大好きで、いっぱい持ってるから。ところで司君、七階の何号室?」
「三号室」
「三号室? 個室じゃない! いいな~。私のところ相部屋だから、おばあちゃんばっかりで話振られても分からないの」
「そうなんだ」
「でも贅沢は言ってられない。だから私、時間がある時は外に出てるの。日光に当たると気持ちいいし」
「友達はいないの?」
聞かれた都柚は口を真一文字に結んで司を睨み、そして大きく溜息をついた。
「だって入院して来て友達になっても、すぐに退院しちゃって」
「あー、ねー」
「あーねーじゃないの! 私にとっては由々しき問題なんだから」
「家族の人は?」
「私、お母さんしかいなくて、入院費用の為、掛け持ちで仕事しているから週に一回顔を出してくれたら良い方」
「そうか、……ごめんね」
「ううん、いいの。司君が友達になってくれたから寂しくないよ。司君、スマホ持ってる?」
「ううん、使うことがないからパソコンだけ」
「パソコンあるんだ! いいなぁ~。じゃあさ、アドレス教えてくれる?」
「うん、良いよ。今、言っても大丈夫?」
「あ、ちょっと待って!」
都柚は覚束ない手で司のアドレスを登録していく。朗らかな陽気の下、噴水の音だけが聞こえ、ゆっくりとした時間が過ぎていく。
「うん、合ってる」
「やったぁ、司君のメアドゲット!」その時、都柚のスマホからアラームが鳴った。「いけない、もう回診の時間」
「えっ、もうそんなに経ったんだ」
「うん、戻ろう」
その二人の様子を、司の担当看護師が窓から微笑ましく見ていた。
司は自室に戻って来てパソコンを立ち上げ、メールを確認する。
『本と、アドレス教えてくれてありがとう! またデートしようね』
文末にハートマークも添えられてあり、その言葉に司は顔が熱くなった。短い文章だったが何回も何回も読み返す。
返事をしなければ、と思い出し、文字を入力する。
『こちらこそ宜しくお願いします』
うーん、硬いなぁ。
何度か打ち込み、司は送信する前に口にして読み返す。
「こちらこそありがとう。またデートしましょう」
これでいいか。
返信を楽しみに送信ボタンを押した。
その日は消灯の時間が来るまで、微笑みながらメールでやり取りをしていた。
枕元の電気スタンドに貰ったアクリルキーホルダーを付け、それを眺めながら眠りに落ちた。
その日から定期的に館内の庭で逢瀬を繰り返した。雨の日は一階か三階のロビーで集い缶ジュース片手に、本の話や身の回りの話をした。
ある日、いつもの噴水の前で話が途切れた時、都柚が溜息をついて話し出した。
「私、そろそろ手術があるの」
「手術?」
「話を聞いたところによると、胸のところに何かを埋め込むんですって」
「いつやるの?」
「五日後。それでこの病気が治るんならいいけど、失敗する可能性もあるんだって」
「そう……」
都柚は笑顔になって、司を覗き込む。
「でも治ったら動けるようになるらしいから、前向きに行こうと思って。多分、司君も同じ手術を受けることになるんじゃないかな。同じ病気みたいだから」
噴水では病院で飼っているコールダックの親子が水浴びをしている。親子ともども元気に動き回り、司は羨望の眼差しで見ていた。
「ねえ、司君」
司は視線を都柚に向けた。すると都柚が車椅子から身を乗り出して、口にキスをしてきた。柔らかくて良い匂いがする。グロスを塗った甘い唇に、蕩けそうな感覚に陥った。
司はそのキスに頭の中が真っ白になり、顔は真っ赤になったが、そのまま受け止めた。
都柚が唇を離す。
「えへへ、ファーストキス」都柚は照れながらも司を見つめていた。「ねえ。もし二人とも治ったら、私たち付き合おうか」
跳ねる心臓を押さえながら、司は脳をフル回転させ言葉を紡ぐ。
「うん。成功すると良いね」
司はゆっくりと手を動かし、都柚の手に重ねた。