邂逅
翌日、忠邦が持ってきたタイピングソフトでの練習を開始した。
指先は四肢よりも、ある程度自由に動かせることが出来る。郁美が見守る中でも練習を欠かさず、二週間ほどで、執筆に堪える速度で文字入力が出来るようになっていった。
パソコンが彼にもたらせたのは小説が書きやすくなった事だけではなかった。
ある日、担当の看護師がケーブルを持ってきて、彼のパソコンと壁にある穴とを繋いだ。そして、「ちょっと貸してくれる?」と半ば強引にひったくり、司のパソコンを慣れた手つきで触り始め、三分程で彼に返した。
「インターネットって言うのよ」
そう言われて画面を見ると、パソコンの画面が今までのそれとは違っていた。初めて検索サイトを見た時、何かパソコンに命が吹き込まれて脈動しているかのように彼は感じた。
「知りたい言葉をここに入力するの」
「知りたい言葉……。何でもいいの?」
彼女は優しくうなづく。
ある程度手慣れたタイピングで単語を入力する。初めて検索した文字は【物語】だった。
物語。
凄まじい量の情報が、今まで我慢していたのを吐き出したかのように彼のパソコンを埋め尽くす。物語の意味や定義、関連情報などありとあらゆる、物語に関する情報だった。
「何これ?」
隣で中腰のままの看護師さんは、微笑みながらマウスでそのウィンドウをスクロールする。その【物語】に関する情報がひたすら続いている。
あまり刺激のない彼の日常に、突然濃度の濃く熱い何かが注ぎ込まれた感じがした。今まで、情報というものは自分から探さないと手に入らない、と考えていた彼に神のような導き手が現れたのだ。
それから十日以上はインターネットを徘徊していた。
勉強も小説も頭の中から弾き出され、新しい世界に没入していく。
知識や音楽、笑いやドラマ、ありとあらゆるものがそこには存在しているように感じた。自身の考えたストーリーなど、有象無象の一つでもない事に気づかされた。
だけど彼は諦めなかった。
まだまだ自分の書いた小説に埋めるべく言葉が残っている。今まで読んできた小説も無駄ではない。可能性は無いはずはない。自分にはこれしか進む道が無い。
満足に外出出来ない彼が今まで培ってきたものと言えば、文章力しかないからだ。それに何よりも創作が好きだ。これが大きい。
司は、ひたすら書いた。ある程度、読むに堪える、と感じた物は更に推敲を重ね、満を辞して小説投稿サイトにアップした。最初は当然の事ながら閲覧数は伸びなかった。短編も長編も、ドラマからミステリーまでアップし続けた。そんな彼を両親は陰ながら応援してくれていた。
ある日、行き詰まって指が進まない状態の時、その投稿サイトで他の作家の作品にも目を通してみた。その投稿サイトではライトノベルと言うジャンルの小説が流行っていた。早速、パソコンでライトノベルと検索した。どうやら年代層を絞った作風の総称と彼は理解した。彼は早速、そのサイトで書籍化された作品を読み始めた。文章もそこまで装飾が無くて読みやすい。それに自身ぐらいの年代向けに焦点を絞っているせいか、まんまと没入してしまった。魔法と剣のファンタジー。思春期特有の恋愛模様も描かれている。あまりにも没頭してしまい、昼食後に読み始めたのに、空腹と目の疲れで画面から目を離すと、すでに窓にはカーテンがかけられていた。
ああ、こんなに自由で良いんだ。自由で独創的で色々な情報がふんだんに使われている。自分にはこれが足らなかったんだ。
ずっと個室に引きこもってパソコンを触っている司を見かねたのか、ある日、看護師が車椅子に乗せて外の散歩に連れて行ってくれた。その時も小説を持っていき、看護師付き添いのもと敷地内の噴水の前で本を読んでいた。
「こんにちは」
「あら、こんにちは。佳山さん」
女性の声が耳に入って来る。
小説に没頭していた司は、はじめ付き添いの看護師にかけられた言葉だと思い、小説から顔を上げなかった。
「こんにちは!」
「司君」
看護師の声で、司は顔を上げる。
「やっと振り向いてくれた」
そこには同じく車椅子に乗った同じ年ぐらいの鼻カニューレを着けた少女が、病衣ではなく可愛いピンクの寝間着の姿で笑顔を見せていた。前髪は切り揃えられ、胸元まである黒い髪は陽光を反射していた。
「一緒」と言って、彼女はゆっくりと腕を上げ空を指さす。
「えっ?」
「点滴」
司は顔を上げ少女の点滴を見る。点滴スタンドに二種類の点滴がかけられてあり、彼のものと同じものだった。
「何読んでいるの?」
「『深紅の手毬』っていう本」
「面白い?」
「うん」
「ねえ、見せて」
読んでいたページにスピンを挟み、司は手渡した。少女は苦労しながらも巧みに車椅子を動かし、彼の隣に着ける。
「わぁ、難しそう。読めない漢字がいっぱい」
彼女はパラパラとページを捲りながら、本の内容ではなく活字の多さに驚いていた。
「分からないなら教えようか?」
看護師しか女性に対して免疫がない司は、ぎこちなく、はにかみながら訊く。
「本当?」
乗り出してきたその髪からフローラルな良い香りが司の鼻孔をくすぐる。初めて異性というものを意識した。
「私はね、佳山都柚。都柚は都に柚子の柚って書くの。あなたは?」
「僕は本条司。司書の司。司るのほうが分かりやすいかな」
「司君ね。私は都柚って呼んでいいよ」
馴れ馴れしいなと司は一瞬思ったが、同じ病気なのに溌剌としている彼女を見て元気を貰った感じがした。
「じゃあ司君、友達だね」
「友達……」
司は病室の窓から覗く、自分と同じ歳ぐらいの賑わう集まりを思い出していた。
「そう、友達! 司君、歳いくつ?」
「確か、十三」
「確かって。そうよね、わかるー。ここにいると自分の歳が分からなくなるよね。私の方が一つお姉さんなのに、そんな難しい本読んでいるんだ」
「また会えるかな」
仲間意識が芽生え、司はついそのような言葉を口に出した。
「もちろん。私はこの時間、外にいるから司君も来て」
「今度、佳山さんでも読めそうな本持って来るよ」
「佳山さん、じゃなくて都柚」
「じゃあ、都柚……ちゃん」
「うん、そう! 本楽しみにしている」
「それじゃあ、司君、そろそろ先生の回診が来るので病室に戻りましょうか」
付き添いの看護師が時計を気にしながら司の車椅子の背後に回る。
「もうそんな時間ですか? やばい私も戻らなくちゃ」
司は看護師に押され、都柚は自分の力で車椅子を押す。その距離は少しずつ離れていくも、看護師が気を利かせて待っていてくれた。
エレベーターに二人は乗り、病棟の七階で司は降りる。
「私は八階。じゃあまたね司君。約束だよ」
司はなんとか上半身を捩り、都柚に手を振って別れた。
帰りの廊下で司は看護師に尋ねる。
「僕も車椅子、自分で動かせるようになりますか?」
看護師は二人のやりとりを見ていて頬を緩める。
「もちろん。司君の練習次第よ」
回診が終わった司は、すぐにストックの本を漁った。
確か、ライトノベルがあったはず。
「あった!」
司は個室で思わず声を上げた。
これを都柚ちゃんに渡したら喜ぶはず。
まずは一、二巻をベッドサイドテーブルに置き、今度は車椅子で動く練習を始めた。握力が弱い司の手はハンドリムから時々滑って前のめりになるも、その日は夕食が過ぎて忠邦が面会に来るまで続けていた。
「いきなり車椅子の練習なんか初めてどうしたんだ?」
「もうちょっと頑張ろうと思って」
その言葉に感極まった忠邦は、おもむろに車椅子ごと司を抱いた。大きな体に司は潰されそうになる。以前は漂っていた煙草の匂いがしないことにも気づいた。
「どうしたの父さん」
「ごめん……、ごめんな司」
その謝罪の理由を知るのは、しばらく後になってからだった。