本条司
物心がついた頃には、本条司はベッドの上だった。
鼻にはカニューレが刺しこまれていて、彼はそれが当たり前だと思っていた。だが両親や看護師を見ているとカニューレを刺しているどころか、ベッドから離れて動き回っている。
なぜ、僕だけこうなんだろう。
物心ついてしばらくして自分の異変に気付いた。
時々掃除の為、カニューレを取った爽快感は、彼の生活の中でも三つの指に入るイベントだった。後は洗髪と歯磨き。
ずるずると生かされている人生が、一旦リセットされるような感覚だ。
まともに動かせる事のできない手で入念に歯を磨く。車椅子を使わないと洗面台に向かう事すら出来ないので、彼の母、郁美や看護師にお願いしてボールに水を張ってもらい、十五分ほどかけて丁寧に歯を磨く。手も動かせないので体全体を使う。ついでに顔も洗って再び生命維持のために一定間隔でブスーと空気を注入するカニューレを刺す。
司は学校の対応が難しいため、小学校に行くことも叶わなかった。
両親の勧めで学校指定の教科書を取り寄せてもらい、勉強をした。リハビリも兼ねて、シャープペンシルを握り、ゆっくりと時間をかけてノートに書いて覚える。
ある日、病院の窓から彼と同じぐらいの子供がランドセルを背負って笑顔で登校していた。
彼が羨望のまなざしを向ける彼らは、歩道橋を駆け上がり走り回っている。初夏の太陽を浴び、輝いて見えた。
羨ましい……。いつか僕もあのように動けることが出来るのだろうか。
日常的に刺激というものに飢えている彼にとって勉強は刺激的だった。数学、国語を学び、夕方からのアニメやバラエティーも内容を理解できるようになってくると、ますます勉強に身が入る。理科や社会も手をつけると、より一層、テレビの内容を理解できるようになった。専門用語も覚えだし、定期的に見舞いに来る父の忠邦や郁美も驚くほどの語彙力を身に着けていた。当時の学年に対し二つ三つ上の勉強を彼は履修していた。だが、もっと知識が欲しいと彼は思い始めていた。
ある日、忠邦が仕事帰りの面会時間ギリギリの時間に一冊の小説を買ってきた。初めての小説は彼に新しい刺激をもたらせた。まだ病室を出ることが許されていない彼に、写真でしか知りえない外の世界という新しい風を吹き込んでくれた。
漢字とルビを目で追いながら彼の語彙力は増していく。勉強の休み休みに、その小説を読み続け、一週間で読破した。
彼の胸に去来するものは、感動と達成感だった。
「お父さん、またこれと同じような物ってある?」
「おお、読み終わったのか。どうだった?」
「うん、面白かった。他の同じような物が読みたい!」
「よし分かった、また買って来るからな」
そう言って司の頭を大きな手で撫でる。
フィクションやノンフィクション、ミステリ、ファンタジー、SF、アドベンチャー、スペースオペラ……。
他の勉強をしながらも、一日一冊のペースで読み続けた。買ってきてくれる父親には感謝しかなかった。
司はそのまま十三歳になっていた。一日一冊消費する彼に、忠邦はメモ帳に何を読んだのか書き記し、希少な本さえも探して買ってきた。
やがて彼は、自分で創作する、という選択肢をとった。
空いているノートに、自分が思うままに書き殴った。
だが処女作は自身、納得のいくレベルまで書き込むことが出来なかった。自分の頭の中の物語を文章に落とし込むという作業が、ここまで難しいという事に、彼は挫けそうになった。どうしても忠邦が買ってきた小説と比べると深みが足りないと感じていた。それに、まだまだ表現力に乏しい。語彙力も弱く、文章がどうしても説明文臭くなってしまうのだ。
課題は山積みだった。
書籍化された作品と彼のそれとを比べ、足りない部分をリストアップしようとしたが、その足りない部分が分からない。ただ、出た結論は、取り敢えず色々と書いてみよう、という事だった。
まだ中学生だ。書いて推敲して書いて推敲して……。
そして短編から中編まで色々な作品をノートに書いて生み出した。
両親には気恥ずかしくて、小説を書いている、とは言えなかった。だがある日、郁美が見舞いに来ていて、レントゲン検査を受けて戻ってきた時、枕元に隠していたノートに変化があった。いつも置いている向きと違っていたのだ。その時、郁美は、何も見ていない、という表情をしていたのだが、ノートに目を通した可能性が高い。
まあ、いいや。
彼は思ったが三日後、意外な変化球でその答えが返ってきた。
忠邦が仕事帰りの見舞いに段ボール箱に入った物を持ってきた。
ベッドにそれを置き、顔を綻ばせながら開梱していく。
「それは何?」
「ボールペンじゃ手が汚れるだろうと思ってな」
忠邦が段ボール箱から取り出したのは、ノートパソコンだった。
それはナースセンターで看護師が文字を打っていたものだと彼はすぐに気付いた。
「父さん……」
「ちょっと型落ちしているやつだけどな。物を書くには十分使えるだろ」
まだ新品のノートパソコンを手に取る。
司は身体が震え、胸の底から湧き出るような、痛みを伴う涙を流していた。こんなに感激を伴った感謝をしたのは始めてだった。そしてパソコンを強く抱きしめ、声を出して涙が止まらなかった。
「おいおい、そんなに強く抱きしめたら壊れるぞ」
忠邦は嘆息しながらも笑みを隠せない。
やがて、その涙は痛みから悦びに変わっていた。彼は自分が入院しているせいで、決して裕福な家庭ではないと思っていたからなおさらだった。両親から愛情を受けて育っていることは感じていたが、こんなにも愛を強く感じたのは初めてだった。そしてそれに応えなければとも。
忠邦が箱からケーブルを出して、ベッドサイドテーブルに置いたパソコンにつなげる。メーカーのロゴが浮かび上がった。司はそれを食い入るように見つめていた。
「マウスも買ってきている。……ちょっと画面が明るいな。暗くしよう」
手慣れた手つきで忠邦はパソコンの調整を済ませた。そしてメモ帳を立ち上げる。
「さあ、もう文字が打てるぞ」
司は恐る恐る手を伸ばし、キーボードに触れる。メモ帳に「m」の字が現れた。
「そうか、司には、かな入力の方が合っているだろうな。ちょっと貸してくれ」再び忠邦は設定をする。「よし、触ってみろ」
司はさっきと同じ場所を押した。すると今度は「も」の文字が現れる。今まで苦労して文字を書いていた司にとって、歓喜に満ちた一瞬だった。
こんなにも簡単に文字が書けるなんて。
その時、個室に看護師がノックして現れた。
「本条さん、もう面会終了の時間です」
忠邦は壁にかけられている時計を見る。
「ああ、そうですね。すいません、すぐに退出します。司、明日はタイピングソフトを持って来るからな」
そう言って、大きな手で司の頭を撫でて退出した。
司にはタイピングソフトの意味が分からなかったが、忠邦が退室した後も、文字を探しながら打ち込んでいく。人差し指一本で思い通りに文字が打てる喜びに、司の顔は緩みっぱなしだった。