最終話.そこにあいつはいた。
斜めに傾いた門扉と、焼けこげたブロック塀の間あたり。ちょうど玄関へ続くアプローチがあった場所。
落ち着いた色味のタートルネックニットとワイドパンツを合わせた、どちらかといえばラフな服装で、そこに葉月はいた。
機能停止に陥っている俺の視線を感じたのか、葉月はこちらを振り返り、驚いたようにそのくりっとした目を見開いた。
「来たんだ」
それから、心なしかほっとしたような笑みを、秋色のリップを引いた柔らかそうな唇に浮かべる。
「よかった。滞在先、役所に電話して聞くのは気が重かったから」
「葉月……仕事は」
「午後、年休とったの」
葉月はさらりとそう言うと、アンクルブーツの踵をならして俺に向き直った。
「病院に行ったら、もう退院したって言われちゃった。タッチの差だったみたいね。滞在先をあなたの職場に聞くのも気が重くて、その前に家がどうなったか見ておこうと思って来たんだけど」
ちらりと背後に目を向けて、苦笑めいた笑みを浮かべてみせる。
「見事に何にもなくなったわね」
「なくなったな」
相づちを打ってから、胸の内にくすぶる疑問を口に出そうと試みてみる。
「どうして……」
「え?」
「あ、いや……」
俺の視線と、くるりと首を巡らせた葉月の視線がしっかりと合ってしまい、ドギマギして慌てて目をそらしてしまう。
葉月はそんな俺を見ながら、視界の端でくすっと笑ったようだった。
「今日、退院するって聞いてたから」
そろそろと葉月の顔に視線を戻してみる。
いくぶん斜から俺を見上げる大きな目に、いたずらっぽく引き上げられた形の良い唇。逆光に照らされたあいつの顔は少々黒ずんでいたが、顔の周りを彩る茶色い髪が日に透けて金色に輝き、なんだか後光のように神々しく見えた。
その唇が、ぽつりとこんな言葉を紡ぐ。
「結局ギリギリまでかかっちゃった」
「……何が?」
「説得工作」
何の?
聞こうとして口を開きかけるも、タッチの差で葉月が質問権を奪い取る。
「これからどこに行くの?」
「……泉玉川の、ビジネスホテル」
「市の補助かなんか?」
「そう」
葉月は再び首を巡らせて、焼けこげたマッチ棒のような家の残骸に目を向けた。
「ふーん……いつまで?」
「補助で泊まれんのは、二日間だけらしいな」
「その後は?」
「いや、その二日間でなんとかアパートでも見つけて、とは思ってんだけど」
「アパートって、……敷金礼金、出せるの?」
「一応、同僚から五〇万借りてるし、室長が保証人になってくれるとは言ってる」
「でも、払ったらお金、なくなっちゃうじゃない」
「……まあ、そうだな」
この話題をふってきた葉月の意図をつかみかねて、頭をポリポリ掻きつつ葉月の長いまつ毛を見つめていると、視線を感じたのか、葉月がくるりと首を巡らせて俺を見た。
慌てて目線をそらした俺を柔らかく見つめながら、葉月は本当に何気い調子でこう言った。
「じゃあ、うちに来れば?」
「え?」
発言の意味が理解できず、口を半分開けて固まった俺のバカ面を見て、葉月はまたくすっと笑った。
「千代川線の直通に乗れば、通勤時間一時間半。あなた始業遅いし、通えない距離じゃないでしょ」
「……え、いや、それはそうだけど」
問題はそんなことじゃなくて。
「燃えちゃったし」
「え?」
「離婚届」
再び焼け落ちた家屋に向けられた葉月のまなざしは、どこかもっと遠くを見ているように感じられた。
「母の了解は、もうとってある。かなり手間取っちゃって、だから退院ギリギリになっちゃったんだけど、最後はあんた達二人の問題だから任せるって言ってくれて」
そう言うとチラッと俺に目を向けて、いくぶん困ったような表情で笑う。
「了解したって言っても、いろいろたいへんだとは思うけどね」
それから笑いを収め、探るような目でじっと見つめる。
「どうする?」
混乱して答えを返せずにいたが、その言葉でようやく錆び付いた思考回路が回転し始めた。
「……いいのか? 本当に」
「それはこっちのセリフかも」
金色に輝く髪を揺らして首を傾けると、葉月は口の端に少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。
「あなたにとっては、かなりつらい日々になること請け合いだから」
それはそのとおりだろうと思う。
あの人との同居なんて、どんな毎日になるか考えるだに恐ろしい。
以前の俺なら、即刻却下。考慮の範疇にも入らない提案だ。
「俺は、」
長いまつ毛に彩られた黒い瞳で、まっすぐに俺の口元を見据えている葉月。
俺も葉月の形の良い唇を見つめながら、一音一音、確かめるように言葉を発する。
「構わない」
「そう」
葉月の表情が、安堵の色をにじませてゆるんだ。
「じゃあ、そうしましょ」
「……ていうか」
「ん?」
これ以上何を言いたいの? とでも言いたげにキョトンとした表情で首をかしげる葉月の反応に、言葉が喉の奥に引っかかって出てきにくくなった。
「おまえはさ、……」
「あたし?」
あとに続ける言葉を見失って言いよどんでいると、葉月はその黒い瞳にいたずらっぽい色を浮かべた。
「本気なんだよね、あれ」
「え?」
「あの時言ってたこと」
あの時?
……まさか。
顔面が火照り出すのを感じながら、おそるおそる確認してみる。
「あの時って、あの、……」
「火事の時ね」
やっぱり。
「聞こえてたのか、あれ……」
「あんなに大声で叫んでたら、聞きたくなくても聞こえると思うけど」
苦笑まじりにそう言ってから、浮かべていた笑みをおさめると、葉月は先ほどの言葉を念押しするように繰り返した。
「本気なんだよね、あれ」
「いや、もちろん……っていうか、おまえ、どこまで聞こえてたんだ? あの時……」
「え? どこまでって……健一がかなりくさいセリフを吐きながらガンガン窓ぶったたいてるあたりまでしか、記憶はないんだけど……」
そこまで言うと葉月はハッとしたような表情を浮かべ、それから上目遣いに俺を睨む。
「まさかあのあと、全部ウソです、とか言ったんじゃないでしょうね」
「は? いや、まさか。そんなこと、ある訳がないだろ」
慌てて背筋を伸ばして居住まいを正すと、葉月もそれに応えるように居住まいを正した。
目の前の路地を、向かい合う俺たちを怪訝そうに見やりながら、買い物袋を提げたご近所の奥さまが通り過ぎていく。
奥さまが十メートル以上離れたのを見届けてから、呼吸を整え、葉月の目をまっすぐに見つめながら、刻み込むように言葉を発する。
「約束が守れるよう、努力する」
いくぶん強ばっていた葉月の口元が、少しだけ緩んだ。
「分かった」
「あの人とも、いい関係になれるよう努力する」
「期待してる」
「あの子のことも、……」
緩みかけていた葉月の口元が、わずかに引き締まる。
「あの子のことも、忘れない」
「……そう」
葉月は切なげな表情を浮かべると、足元に目線を落として小さくうなずいた。
「がんばってね」
がんばるよ。
言葉に出さない代わりに、大きくうなずいて投げかけに応えた。
これからの人生は、決してバラ色じゃない。
自分を殺して我慢しなけりゃならないこと、必死こいてがんばらなけりゃならないこと、正直言って楽しくないことが、多分毎日起こりうる。
「……なあ、葉月」
「なに?」
「あの子に名前、つけてやるとしたらさ」
日に透ける茶色い髪を揺らして、葉月が俺を見上げた。
「神無、ってのは、……どう?」
「……カンナ?」
「そう。神無月の、神無」
「あたしが葉月だから?」
「え? ……ああ、まあ、そうかな」
「男の子かもしれないのに?」
「女の子だよ」
怪訝そうに俺を見つめる葉月の視線から逃れるように、焼け落ちて骨組みだけになった家の、マッチ棒のような正方形の枠組みに目を向ける。
「あいつは、女の子だよ」
でも、だからといって楽しいことが全くないわけじゃない。
そんな玉虫色の人生のために、少し腰を据えてがんばってみようと思う。
バラ色の人生に、少しでも近づけるように。
その時、ふと、逆光で黒ずんだ柱の先に、焼け落ちた柱とは異質な何かがあることに気づいた。
ちょうど、寝室兼仏間にしていた、あの部屋があったあたりだ。
斜めに傾いた大きな床柱の先に、白い布のようなものがチラチラと揺れている。
「どうしたの?」
日差しを手で遮りながら逆光に目を細めている俺を見て、葉月も俺の視線の先を追った。
傾きかけた床柱の先で、柔らかな秋風に煽られて揺れる白いレース。
視界の端で、葉月はいぶかしげに眉根を寄せたようだった。
「何? あれ……」
「ワンピース」
葉月が首を巡らせて俺を見る。
そんな葉月に、俺は少しだけ笑いかけた。
「あの子の、ワンピースだよ」
葉月は、黒い瞳を大きく見開いて俺を見て、それからもう一度、逆光を受けてはためく白いレースに目を向けた。
抜けるような青空のもと、涼やかな秋風に揺られてはためくワンピース。
それはまるで、マストの頂上にはためく行先旗のようだった。
行先旗が示す目的地は。
玉虫色の海を渡った先にあるものは。
敬礼する水兵さながらに居住まいを正し、ワンピースに向かって深々と腰を折り曲げた俺を見て、葉月は驚いたように目を丸くしたが、ややあって表情を改めると、ゆっくりと首を巡らせ、もう一度はためくワンピースに目を向けた。
玉虫色の海を渡った先。
きっとそこにあいつはいる。
俺たちのことを待っている。
無邪気な笑顔で迎えてくれる。
そこにたどり着けるその日まで、俺は高々と白いワンピースの行先旗を掲げて、人生という名の荒波を乗り切ってみせようと思う。
あいつに会える、その日まで。
ありがとな、神無。
FIN
最後までお読みいただき、ありがとうございました。