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其の三.見てくれねえか?

「悪いねえ、草薙さん」


 積み上げられたどんぶり越しに、飯田はその落ちくぼんだ目をにいっと細めた。


「いいっていいって。無理言ったのは俺なんだし。遠慮なく食ってよ」


 片頬引きつり上げて無理やり笑顔を作ってみせながら、テーブルの下でこっそり財布の中身を確認する。てか、こいつ、この体でこの食いっぷりってあり得ないんだけど。

 ここは俺の行きつけのラーメン屋。くたびれた外観とは裏腹に、地元のオヤジたちからは根強く支持されている隠れた名店だ。時間が早かったから俺たちは並ばずに入れたが、もう店先には四,五人、手持ちぶさたそうにスポーツ新聞を広げるオヤジの姿が見うけられる。

 あんな話をされてからというもの、仕事もろくに集中できず、ただただ帰宅時間が近づくのを恐れていた俺だったが、六時を過ぎていよいよ帰宅の途につく寸前、帰り支度をすませた隣の席の骨格標本くんを無理やりこの名店に誘い、押し入れを見てもらう算段を何とかとりつけたという訳だ。

 みっともないとか恥ずかしいとか言ってる場合じゃない。悪霊に取り殺されてからでは遅いのだ。


「でも、ほんとに悪いものじゃないと思うよ」


 ふいに、俺の内心を見透かしたかのように飯田がこう言ったので、口に運びかけたギョーザがぽろりと箸からこぼれ落ちた。ラー油の泉に、ボチャリと音を立てて白いギョーザが沈む。


「悪いものじゃないって……押し入れの中身?」


 飯田はラーメンスープを啜りながら頷いた。


「何でそんなことが分かるんだ?」


「うーん、何でって言われても困るんだけど……その手首から感じるエネルギーっていうのかなあ。それが、マイナスな感じがしないんだよ。何て言ったらいいのか、よく分からないんだけど……」


 テーブルに置かれたどんぶりから立ち上る微かな湯気の向こうで、飯田はそう言ってげっそりとこけた頬を引き上げた。店の天井からぶら下がる白熱球の明かりが、不気味な陰影をその頬に添えている。いくらかでも明るい見通しを述べてくれるのは嬉しいが、その見てくれで言われても、あまり実感を伴って感じられないのが悲しい。


「まあ、悪くてもよくても何でもいいから、とにかく一度見てみてくれ。このままじゃ俺、寝不足で仕事になりゃしねえし、その分おまえに迷惑をかけちまうことにもなるんだからさ」


「見るは見るけど……何度も言うとおり、僕は除霊とかはできないよ。それが何なのか、はっきり分かる訳でもないし」


「それでもいいって。とにかく来てくれれば」 


 幾分困ったような表情で頷きながらギョーザを箸でつまんだ飯田の、骨張った手首にはめられている水晶玉が、白熱球の明かりを反射してきらりと光った。



☆☆☆



 薄暗い路地の突き当たりに俺と飯田は並んで立ち、汚らしく古びた陰気くさい俺の家を見上げる。

 窓枠はアルミサッシではなく、今時ほとんど目にすることのできない木枠。しかも鍵はネジ式ときている。半立体的な花模様が施された古くさい窓ガラスの外側に目隠し代わりに波板が打ち付けられ、家の外周を薄汚れたブロック塀が取り囲んでいる。

 確かに、暗がりに得体の知れないものが潜んでいても不思議のない家だと、わが家ながらしみじみと思う。母親が生きていた五年前にサイディングされた壁だけが、やけに不釣り合いに白く浮かび上がって見える。


「悪いね、付き合わせちゃって」


 隣に立つ飯田が、ふいに真夜中の墓地で聞こえてくるような声音を出してくる。


「え? 何のこと?」


 背だけはヒョロッと高い飯田は、街路灯の光に照らされながら俺を見下ろすと、不気味な陰影に彩られた頬に微かな笑みを浮かべた。


「ビール。僕に付き合って飲まなかったでしょ。飲めばよかったのに」


「な、何言ってんだよ。幽霊見るのに飲んじゃまずいってんだから、それに付き合うのは当たり前だろ。俺が頼んだことなんだから」


 陰鬱な家屋の前にたたずむ、それに輪をかけて不気味な男。オカルトオーラ全開の見事な構図に鳥肌をたてつつ、黒い鉄製の門扉を開くと、地獄の門が開かれたかのような、金属の軋むおどろおどろしい音が響き渡った。

 門灯がついていない玄関先、真っ暗闇の中で鍵を開けると玄関扉を開き、振り返って飯田を見る。

 街路灯の逆光にゆらりと浮かび上がる、柳の下がベストマッチな飯田の立ち姿。

 立っているだけでこれだけ不気味な存在を味方につけたのだからと、背中から滲み出てくる汗の冷たさにゾクゾクしつつも、恐ろしげなその姿に不思議と頼もしさすら感じられる気がした。



☆☆☆



 寒々しい蛍光灯の光に照らされた居室の、湿ってささくれだった畳を踏みしめて、まるで前人未到の秘境を探検するかのように、周囲に隙なく目線を走らせつつゆっくりと進む。


「雰囲気のある家だねえ」


 緊張感のかけらもない飯田の声が背後から響く。ある意味、救いと言えば救いか。


「築四十九年だからな。木製の窓枠なんて、今時見ないだろ」


「田舎のお婆ちゃんちがこんな感じだったけど、随分前に建て替えてるから……何だか懐かしいなあ」


「住んでる方は懐かしいじゃ済まされないけどな。フロは狭いし、窓のネジ鍵はもうどこにも売ってねえから買い換え不能だし、冷気が床から這い上がってくるし……去年、雪が降っただろ。あん時、家の中で氷点下いったんだぜ」


「へええ……」


 飯田は落ちくぼんだ目を精いっぱい丸くして最大限の驚きを表現した。


「じゃあ、もう建て替えとかするんでしょ?」


「そうだなぁ……」


 曖昧に頷くと、ぐるりと居室を見回した。すすけた台所の天井からは、アンティークショップに並んでいそうなアール・デコ調シャンデリアが、ほこりにまみれてぶら下がっている。


「なんだかんだ言って、俺はこの家で育ったからな。そういう生活には慣れてるし、何て言うか、愛着があるんだよな」


「なるほどね、それは分からなくもないなあ。僕んとこも建て替えに踏み切った時は何だかんだ言って寂しかったもん」


 頷いて見せてから、飯田は少し困ったように笑った。


「でも、子どもが生まれるからそうも言ってられなかったけどね。赤ちゃんて、気温の変化に弱いから。まだ秋だから大したことないってのに、奥さん、乾湿計買ってきて、神経質に朝な夕なにらめっこしてるよ」


 そう言うと、濃い陰影に縁取られた眼を細めて、獲物を見つけた吸血鬼さながらのオカルトチックな表情を浮かべる。どうやら苦笑のつもりらしい。

 そういえば、こいつはこの骨格標本顔で、先月子どもが産まれたばっかりだった。飯田と同様に柳の下が似合いそうな奥さんで、結構美人だった気がする。子どもは奥さん似だといいだろうなどと余計なことを考えながら何となく無言になった俺を見て、飯田はまた何を誤解したんだか、はっとしたように口をつぐむと、気まずいような表情を浮かべやがった。

 とりあえず俺は黙ったまま、狭くて急な階段を上って二階に向かった。



☆☆☆



 問題の押入の前に飯田と並んで立ち、古くさい唐草模様の唐紙を見つめながら、俺の心臓はさっきからドラムロールさながらにこめかみを揺さぶり続けている。


「ここ? 草薙さん」


 俺の緊張などどこ吹く風といった感じの飯田に小さく頷き返し、覚悟を決めて襖を開けようと手を差し伸べたものの、伸ばした右手が微かに震えているのが分かって動きを止める。

 二、三度大きく深呼吸してから、再び手を差し伸べようとした、その時。


「いるね」


 背後から突然響いてきた低い声に、心臓が口から飛び出すかと思った。


「い、いるって……」


「生物以外の存在が」


 そう言って飯田は、くっきりと陰影の施された頬をにいっと引き上げた。


「ただ、襖を開けたら消えちゃうと思うよ。そういうのって、多分光に弱いから」


「……光に?」


 飯田は頷くと、立ち尽くす俺をやんわりと押しのけて襖にピッタリと寄り添った。


「動物霊じゃないね、やっぱり。人のかたち……それも、わりと小さい感じ」


 口をつぐんで俺を横目で見やり、ほうれい線をくっきりと際だたせ、かみしめるようにゆっくりと、地を這うような声音でささやく。


「地縛霊」


 その言葉の破壊力に、体中のありとあらゆる体毛が一斉に逆立ち、頭頂目がけて寒気が一気に駆け上がるようなここちがして、思わず息をのんで凍り付いた。


「……にしては、マイナスなエネルギーを感じないよね」


「……え?」


「草薙さんの手首から感じたのとやっぱり同じだ。この……何なのかは分からないけど、霊だか妖怪だかは、草薙さんに危害を加えるようなことは多分ないと思うよ」


 緊張しきっていた体から一気に力が抜けた。思わず飯田を睨み付けて文句を言いかけたが、自分の立場を思い出し慌てて口をつぐむ。

 そんな俺の内心など知る由もなく、飯田は襖に耳をつけて目を閉じた。


「何か言いたいことでもあるのかなあ。マイナスじゃないんだけど、働きかけてこようとする意志みたいなものを感じるよ。まあ、こうやって姿見せる場合って、たいていそういう意思があるからなんだけどね」


 独り言のように呟いてから、反応をうかがうように俺を見る。

 悪霊や妖怪変化でなさそうなのは確かに安心材料だ。いくぶんホッとした俺は、そんな飯田に少々大胆な提案を試みることにした。


「……電気、消したら、見えるかな」


「え?」


「姿が見えれば、それが何なのか分かるよな」


「あ、まあ、逃げちゃわなければ、ある程度は……」


「頼む。見てくれねえか?」


 両手を組み合わせて拝みながら、つぶらな瞳を可能な限りキラキラさせて飯田を見上げる。


「危険はないって分かってても、気持ち悪いもんは気持ち悪いだろ。できるだけはっきりさせてえんだ……お願い!」


「うーん……」


 飯田は考え込むように腕組みをして首をひねった。


「やってみてもいいけど……ものによっては、僕について来ちゃう可能性もなくはないんだよね。今、子どもも小さいし、怪奇現象とか夜中に起きて目覚ましちゃってもまずいし……僕がよくても、奥さんが怒る」


「そうならないために魔除けに十万かけてるんだろ。大丈夫だって!」


「でもなあ、万が一ってこともあるし、何か奥さんを納得させられる材料がないと……」


 呟いてから、落ちくぼんだその目をギラリと光らせて、飯田は俺を見た。


「奥さん、今、とてもじゃないけど弁当なんか作る余裕がないんだよね」


「……うん?」


「毎日買い弁するにしても財政厳しいから、できる限り僕が自分で弁当作ってるんだけど……結構大変なんだよね、これが」


 飯田の言わんとしていることがわかった俺は、激しいヘッドバンギングで全力の肯定を表現してみせる。


「分かった分かった! 明日、昼飯おごるから!」


 そんな俺を見下ろしながら、飯田は狡猾な狐のようににやりと口の端を引き上げた。


「……明日?」


「え、じゃあ、……あさっても」


 飯田は無言のまま、じいっと俺を見つめて動かない。

 こいつってこんなに狡猾なやつだったのかと飯田の新たな一面を発見した気がして腹が立ったが、今この状況では、俺の方が立場が弱いのは確かだ。

 結局俺は、明日とあさっての昼飯の他に、もし万が一飯田にこの霊だか妖怪だかがとりついてしまった場合は、それが飯田の家に存在する限り昼飯をおごり続ける約束をさせられたのだった。

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