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其の二十九.だから、生きる。

「それにしてもよかったよ、ケガが大したことなくて……」


 枕元の丸椅子に腰掛けてこう言うと、飯田は逆光で黒ずんだホラー顔を引きつらせ、笑っているとも泣いているともつかない、例によってどこか恐ろしげな表情を浮かべた。


「悪かったな、いろいろ心配かけて」


「何言ってんの。当たり前だよ」


「ていうかさ、それ……」


「え、……ああ、これ?」


 飯田は俺の視線をたどり、包帯でグルグル巻きにされた自分の右手に目を向けると、気まずそうに目線をさまよわせてかぶりを振った。


「とんでもない。僕なんかより草薙さんの方こそ、たいへんな目に遭った訳なんだし……」


 そうして、言いにくそうに言葉を切る。

 俺も何となく言葉を継ぐのが億劫だったから、飯田の肩越しに見える夕暮れの町並みを眺めながら、夕食と消毒薬の臭いが混じった病院の空気を、黙々と肺に取り込んでは排出していた。


「火事の原因……」


「え?」


 沈黙に耐えきれなくなったのか、ややあって飯田は遠慮がちに口を開いてから、俺の視界から逃れるように目線を落とした。


「原因、はっきりしたの?」


「ああ」


 腹の上で何となく組んだりほぐしたりしていた手指の爪が、異様に伸びていることに気づいた。特に親指が長い。長い上に厚くて固い。その固い爪を人差し指でちまちまいじくりながら答えを返す。


「コーヒーメーカー」


「コーヒーメーカー?」


「そう。コードがダメになったから廃棄するつもりで階段下に突っ込んでおいたやつのスイッチが、なぜか入っていたらしくてさ」


「……なぜか?」


「そう、なぜか」


 深々とうなずいてから、強調するように繰り返してみせる。

 壊れたコーヒーメーカーは、確かにコンセントを抜いて、スイッチも切って、階段下に放り込んだはずだった。

 しかし警察の調べでは、コードは階段下にあった普段使用していないコンセントにしっかりとつながれ、長時間スイッチが入りっぱなしだったために、ビニールテープで補修した部分から発火し、火災が起こったのだという。

 全く訳が分からない。

 ……ことにしている。


「なぜか、か……」


 俺の思考を知ってか知らでか、飯田は呟くようにそう繰り返してから、突然意を決したように居住まいを正すと、膝頭に額がつくぐらい深々と頭を下げた。


「ほんと、申し訳なかった。僕が中途半端なことをしたせいで……」


「は? な、何いきなりやってんだよ。やめろよ。申し訳ないって、何が……」


「だって、僕があの時、中途半端な除霊しかできなかったから、こんなことに……」


「んなことねえって。ていうか、あの時中途半端にしてくれて、かえってよかったっていうか」


「そんな、そのために草薙さん、こんなにたいへんな目に遭っちゃって……」


「だから、それとは関係ないんだって」


 ようやく飯田は、目の下に縦筋が三十本くらい引かれていそうな顔を、おずおずと上げた。


「あの火事の原因は俺の過失。それに、俺が今こうして生きてるのだって、連れ合いがケガひとつしねえで助かったのだって、おまえがあの時、座敷童を完全に消さなかったおかげかもしれねえんだから」


「……消さなかった、おかげ?」


 半信半疑といった表情で繰り返した飯田に、深々とうなずいてみせる。


「葉月もろとも俺を駐車場に放り出してくれたのは、あの座敷童としか考えられないだろ」


 あの時。

 凄まじいサイレンの音で気がついた時には、俺は葉月を抱えて家の裏手にある月極駐車場に倒れていた。

 見上げた俺の家からは火柱がごうごうと上がっていて、狭苦しい路地いっぱいに消防車が何台も停まっていて、銀色の消防服を身にまとった消防士の皆様が、格好良くホースを抱えて消火作業の真っ最中だった。

 あとで聞いたところによると、お隣の香坂さんがいち早く火事に気づいて通報してくれたとのこと。聞き耳をたてていてもらったおかげで周囲への延焼は免れたんだから、感謝しなくてはいけないだろう。

 腕の中の葉月は、煤と灰で真っ黒に汚れてはいたものの、ケガらしいケガもなく、一日検査入院しただけで退院できた。どうやらずっと床に伏せていたのが功を奏したらしい。

 俺は結構煙を吸って一酸化炭素中毒目前って感じだったらしいのだが、今では後遺症もなくすっかり元気だ。あれだけの火事に遭って全く無傷でいられたというのは奇跡に近いかもしれない。


「そう言ってもらえると、僕はいくぶん助かるけど……」


 それでも飯田は居づらそうに視線を落とし、もごもごと語尾を飲み込んだ。


「取りあえず、火災保険はオヤジの代からきっちり払ってたから、ギリギリ生きてはいかれそうだし、マジで気にしないでくれよ。今回のことで、おまえにはほんと世話になったし、感謝しなきゃいけねえのは俺の方なんだからさ」


「とんでもない。僕なんか全然役立たずだよ。結局、市営住宅の一時入居の件だって……」


「昨日室長から聞いた。空きがないんだってな」


 飯田はドキッとしたように血走った目を見開いたが、骨張った肩を落とし、がっくりとうなだれた。


「ゴメン、力不足で……」


「何言ってんだよ。空きがあるかないかにおまえの力は関係ねえし。俺のためにずいぶん頑張ってくれたんだってな。ありがとな」


 いや、そんな、とか何とかひとしきり呟いてから、飯田はホラー顔を思い切ったように上げて俺を見た。


「それで、考えたんだけど……」


「え?」


 いったんもごもごと語尾を飲み込んでから、こけた頬を引きつらせつつ意を決したように口を開く。


「あ、あのさ、取りあえず行くところがなければ、うちに来ない?」


「は?」


 思ってもみなかった申し出に、数刻思考が停止してしまった。

 飯田は、あろうことかほのかに赤く頬を染めて、忙しく視線をさまよわせながら言葉を継ぐ。


「うち、赤ちゃんがいて昼夜関係なく泣きわめくし、奥さんは子育てで忙しいからおもてなしなんかできないし、でも、下宿とか、シェアハウスみたいな感じで考えてもらえれば、無理じゃないかもしれないと思って……」


 それから、初々しい女学生が意中の先輩に恋文を渡すかのごとく、ちらりと目線を上げて俺を見る。

 俺の背筋をハツカネズミ……いや、ダイコクネズミの軍団が一気に駆け上がった。


「……え、いや、だ、大丈夫大丈夫。いくつかの生保から見舞金も入ったし、取りあえず市の補助で駅前のホテルに二泊できるから。その間に焼失した身分証とか保険証とか通帳とかの再発行手続きをすれば、当座は何とか暮らしていけると思うし」


「でも、それじゃたいへんだよ。うちに来れば家賃を払う必要もないし、生活を立て直すまでの間だけでも……」


「マジで大丈夫だって。おまえの気持ちはありがたく受け取るし、にっちもさっちもいかなくなったら頼むかもしんねえけど、取りあえずは自分の力で、できる限りはやってみようと思うからさ」


 俺の言葉に、ホラーマン飯田はいささか残念そうに骨張った肩を落とした。


「……そう? じゃ、困った時は遠慮なく言ってよ。当座のお金とか、書類上の手続きとか、できる範囲で力になるからさ」


「ありがとな、飯田」


 いや、全然、とか何とか言いながら頭を振る飯田の、うつむき加減のホラー顔を眺めながら、おもむろに口を開く。

 

「……飯田ってさ」


「え?」


「いや、ずっと聞こう聞こうと思ってたんだけど、なんでそんなに親切なわけ?」


 飯田は意外そうに落ちくぼんで血走った目をまん丸くした。


「親切って?」


「いや、……親切だろ。十万の腕輪貸してくれたり、仕事中にうちに駆けつけてくれたり、いろいろ、さ」


「別に大したことはしていないと思うけど……」


 呟いた飯田の顔は、窓から差し込むオレンジ色の夕日に照らされて健康的な色に染まっているにもかかわらず、いつもながらのホラーな趣をたたえている。


「草薙さんには恩があったから」


「……恩?」


「僕、草薙さんのおかげで公務員試験に受かったからさ」


 飯田はホラー顔をわずかにゆがめて笑った。こけた頬にほうれい線が深々と刻まれ、目の下にはくっきりとした隈が際立ち、優しい語り口からは想像もつかない恐ろしげな笑顔なのだが、どういう訳だか最近は、あまり怖さを感じなくなっている気がする。


「覚えてる? 僕と集団面接の時、一緒のグループだったの」


「そういえばそうだったな」


「草薙さん、順番を待ってる間、しょっちゅう話しかけたでしょ、僕に」


「……そうだったっけか?」


「その時、草薙さん、僕のことを褒めてくれたでしょ」


「へ?」


 全然覚えていないが。


「敬語を使うのがうまくて羨ましいだの、落ち着いた雰囲気が公務員向きだの、背中にハンガー入れっぱなしかと思うほど姿勢がいいだの、あることないこと」


「はあ……」


 言ったんだっけか? あることないこと。


「それで結構落ち着いたって言うか、同じグループに草薙さんがいてくれたおかげで緘黙が出なくてすんで、四年目にして初めて面接クリアできたんだ」


「……緘黙?」


「僕、中学の時にいじめにあって場面緘黙になっちゃってさ、その後遺症で、自分がちょっとでも苦手だなと思ったり、全く見ず知らずの人の前で緊張したりすると、緘黙……喋れなくなっちゃうんだ。試験に落ちた三回とも、面接で失敗しててね。これ以上親に迷惑かけたくなかったし、結構思い詰めてたから、あの試験がダメだったら、もしかしたら今頃、この世にいなかったかもしれない」


 かけるべき言葉が見つからない俺に、飯田はそう言ってホラーに笑いかけた。 


「そうなったら奥さんと知り合うこともなかったし、子どもに恵まれることもなかったし。今、僕がこんなに幸せなのは、草薙さんのおかげと言っても過言じゃないんだ。だから、今度は僕が恩を返す番だと思ってさ。でもまあ、あんまり役にはたてなかったけど」


「そんなことねえよ。マジでおまえのおかげで助かったから」


「……そう? よかった」


 窓から差し込む夕刻の斜光を背後から受けて、そう言って笑った飯田の顔は黒ずんで、何とも不気味な陰影をまとっていたが、やはりなぜだかこの時も、あまり恐ろしい感じはしなかった。



☆☆☆



『自分が他人から必要とされてるかどうかなんて、本人は分からないもんなんだよ』

 

 抜けるような秋晴れのもと、紙袋を片手に病院の正面玄関前を歩きながら、あの時飯田が俺に言ったセリフを反芻はんすうする。

 はっきり言ってあの時は、何こいつ顔に似合わねえこと言ってんだくらいにしか思わなかったが。

 結局、飯田から借りた金で入院費の支払いを済ませ、飯田が手配してくれたホテルに今日と明日宿泊し、飯田がそろえてくれた書類で保険証その他の身分証を再発行してもらい、何から何まで飯田の世話になってしまった俺としては、そこにいくばくかの真理は含まれているんだろうと、今は素直に認めざるを得ない。

 駅に続くアプローチから、それなりに人通りの多いコンコースに入ると、頭上にぶら下げられた時計の針は一時二十分を指していた。

 現在の所持金から考えると駅そばが最適な昼食と判断できたので、立ち食いそば屋でかけそばを食べ、再びコンコースに出て、宿泊するホテルがある駅まで切符を買ってホームに下りると、階段の途中でタイミング良く電車が入線してきた。

 慌てて残りの階段を駆け下りたものの、見るとそれは急行電車で、あいにくホテルのある駅は各駅しか停車しない。

 いったん歩くスピードを落としかけて、ふと考える。

 ホテルのある駅は、各駅停車で二駅先。

 燃えてしまった俺の家は、そこからさらに一駅先の、急行の停車駅。


『扉が閉まります、ご注意ください』


 ドアの開閉に注意を呼びかけるアナウンスが耳に届いた瞬間。俺は反射的に、扉の閉まりかけた急行電車に飛び乗っていた。



☆☆☆



 角を曲がると、路地の突き当たりに見えてくる、残骸と化した俺の家。

 秋の透き通るような日差しと抜けるような青空を背景に、焼けこげて骨組みだけになった俺の家は、通りの一角に視覚的な抜けを作っていて、そこだけやけにすっきりと潔く見えた。

 本当に、何もかもなくなったんだなあとつくづく思う。

 オヤジが作ってくれた小さな砂場も、洗い場と浴槽を合わせても一畳というあり得ない狭さのフロも、ほこりにまみれたアールデコ調シャンデリアも、年季ものの丸テーブルも、俺と家族になろうとしてくれたあいつとの思い出も、何もかも。

 入院中、あいつが病院に姿を見せることはなかった。

 でも、それも当然だと思う。

 家を失って無一文になったことは言うに及ばず、そもそも俺には決定的に足りないところがあったから。

 それは、家の仕事を手伝わないとか、相談もせずに預金を株につぎ込んだとか、母親であるあの人との折り合いが悪いとか、もちろんそういうことも間接的な引き金にはなったんだろうけど、俺に決定的に足りなかったのはあのことで、きっとあいつはそのことに潜在的な不満を抱えて、そのせいで、それまで気にならなかった細々したことにまで、引っかかりを覚えるようになってしまったんだと思う。


 神無に気づかせてもらわなければ、分からなかった。

 いまさら気づいても、もう遅いんだけれど。


 息苦しいような心地がしてきて、酸素を取り込もうと足を止め、肩を揺らして大きく深呼吸をした時、病院から持ち帰ってきた荷物の入った、某洋菓子チェーン店の紙袋が視界に映り込んだ。

 とりあえず今の俺に残されたのは、この紙袋一つだけ。 


 でも、


 紙袋の中に、飯田をはじめ、課のみんなが持ち寄ってくれた下着や寝間着、タオルや歯ブラシがぎっしり詰め込まれているのが見える。

    

 俺は一人じゃない。 


 喉の奥の強ばりを飲み下し、二,三度まばたきをしてから大きく息を吸って吐く。


 だから、生きる。


 ゆっくりと顔を上げ、もう一度目線をスカスカした路地の突き当たりに向けた、その時。

 ぼやけた視界に、予想だにしていなかった人物の姿が映り込んで、俺の心臓は大きく跳ねた。

 思わず動きを止め、息を殺し、乾いていく眼球の表面もそのままに、瞬ぎもせず見つめる瓦礫と化した家の、焼けこげたブロック塀の前。


 そこに、あいつはいた。

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