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其の二十一.余計なことすんなよ!

「神無……神無!」


 狂ったように叫び続ける神無を何とか部屋の中に入れ、敷きっぱなしだった俺の布団に横たえるも、神無は頭を抱えて身も世もないようにその身をよじるばかりだ。

 よほどの激痛なのだろう、目や鼻や口、顔中の穴という穴から水分を垂れ流しながらわれを忘れて叫び続ける神無の様子に、もう胸がつぶれそうで、その超音波のような叫びを止めてやりたくて、でも何をどうしていいのか分からずパニックに陥りかけた時、先ほど聞こえたあの呪文のような声が、神無の叫びにまぎれて俺の耳朶をかすめた。


――あれは。


 弾かれたように立ち上がると、布団の上で転げ回っている神無をその場に残し、急な階段を全速力で駆け下りる。

 次第にあの声が近づいてくる。

 台所を抜け、廊下を過ぎ、たどり着いたのは、玄関。


阿毘羅吽欠裟婆呵あびらうんけんそわか……」


 玄関扉のすぐ向こうから、先ほどの声が響いてくる。

 裸足でタタキに飛び降りて玄関扉を開け放ち、そこに立っている男の名を叫ぶ。


「飯田!」


 飯田は答えなかった。

 目を閉じ、胸の前に数珠を巻き付けた右手を二本指を突き立てて構え、円を描くように動かしてから、その中心を突くように前方に突き出す動作を、先ほどの言葉を唱えながら繰り返している。心持ちうつむき加減でたたずむ飯田は、荒行に挑む修験僧のような、ある種近寄りがたい、神々しいとでも言うべきオーラをまとっているように感じられた。


「やめろ、飯田!」


 その動作が何を意図したものかはすぐにわかった。神無のあの状態の原因も恐らくこれだろう。すぐさま止めさせなければと、怒声に近い大声を張り上げる。

 だが、飯田は俺の声などまるで聞こえていないかのように、ひたすら先ほどの動作と言葉を繰り返しつつ、立ちはだかる俺の脇をすり抜けて扉の開いた玄関内に入った。


「待て、飯田!」


 慌てて踵を返し、何の断りもなく他人の家に上がり込んだ無礼者の後を追う。


阿毘羅吽欠裟婆呵あびらうんけんそわか……」


 飯田は俺の存在を完璧に無視したまま、先ほどの呪文を張りのある低い声で繰り返しながら、薄暗い廊下を早足に進んでいく。


「待てって言ってるだろ!」


 いい加減ブチ切れて、前を進む飯田の肩を乱暴につかんで引き、自分の方に無理やり顔を向けさせる。


「聞けよ!」  


 飯田はバランスを崩したようによろけて、ようやく足を止めた。


「どういうことだよ、除霊してくれなんて頼んだ覚えはないぞ!」


 飯田は暗い台所の真ん中に立ち、落ちくぼんだ眼窩の陰影をさらに際だたせながら、斜からギロリと俺を見下ろした。

 だが、その恐ろしさに怯んでいる場合ではない。さらに激しい語調で畳みかける。


「だいたい、今は仕事中だろ! 仕事ほったらかして、こんなところに来ていいと思ってるのか? 室長に気づかれないうちに、さっさと仕事に戻れよ!」


「室長のお墨つきだよ」


 静かに返された一言に、俺は次に続けるべき言葉を見失った。


「事情を全部打ち明けたんだ。草薙さんが妖怪に取りつかれてるって。信用されないかもしれないと思ったから、自分のことも話したよ。そういうものに憑かれやすい体質だってことも、ある程度祓うことができるってことも」


 斜から俺を見下ろしながら、飯田は少しだけ笑ったようだった。


「信じてもらえるかどうか自信はなかったけど、室長、話を聞いた途端、なんて言ったと思う? 『室長命令だ、行ってこい!』だってさ。即答だったから、僕も驚いたよ」


 そりゃ、おまえが言ったらまず誰でも信用するだろうとは思ったが、余計なことは言わずに俺は飯田をにらみ据えた。


「……だから、大手を振って除霊しに来た訳か」


「そう。悪いけど、もう草薙さんの意向は聞かないよ。僕は、僕の判断で、草薙さんに取り憑いている妖怪を退治する」


 飯田は俺を真っすぐに見据えながらそう言い切ると、再び胸の前に手をかざそうとした。


「余計なことすんなよ!」


 その手を、力任せに振り払う。


「あいつは、俺に危害を加えようなんてこれっぽちも思っちゃいない。ただ、俺と一緒にいたいだけなんだ。俺は別に、今のままでも構わない。頼むから、俺のことは放って置いてくれ!」


「今のままで、本当にいいの?」


 飯田は俺に向き直ると、必然的に高い目線から俺を見下ろした。


「そのせいで体がおかしくなって、まともに仕事もできないような状態なのに」


「あんな仕事、俺じゃなくたって誰でもできるだろ」


 鼻で笑ってみせてから、何となく足元に目線を落とす。


「機械の進化に必死で追いついてるだけの俺なんかより、情報機器を扱えるヤツはごまんといるし」


 溜まってきた胸苦しさを、ため息とともに吐き出してみる。


「俺じゃなきゃダメなことなんて何ひとつない」


 飯田は黙ったまま、陰影の濃いホラー顔で俺を見下ろしていた。


「俺がいなくなっても困るヤツなんて誰一人としていない。一時、何か足りないような気がしても、一週間もすれば俺のいない日常が当たり前になる。俺の存在なんかあってもなくても同じだ。だったら、俺を必要としてくれる存在と一緒にいた方がいい。たとえそれで仕事を失おうが、最悪命を失おうが、そんなこと、もう俺にとってはどうだっていいんだよ!」


 胸の内にわだかまっていた澱を一気に吐き捨てると、すがるように飯田を見上げる。


「……だから、頼むから、放っておいてくれ。俺の好きなようにさせてくれ。お願いだ」


 このところすっかり見慣れた飯田のホラー顔。理科室の片隅に置かれている骨格標本のように黒々と落ちくぼんだその眼窩が、ほんのわずかに悲しげな色をにじませているような気がした。 

 

「確かに、僕らのしている仕事なんて、誇りが持てるほどのものじゃないかもしれない」


 数刻の間の後、飯田はポツリと口を開いた。


「華々しさもなければ、達成感も薄い。直接人と関わって感謝されるようなものでもないし、特殊技能や秀でた才能が必要とされる訳でもない。もちろんん、やりがいと達成感に日々裏打ちされて仕事してる人もいるかもしれないけど、少なくとも僕が一番達成感を覚えたのは、公務員試験に受かった時だったからね」


 自嘲気味にそう言ってから、飯田は再び顔を上げると、俺を強い目線で見据えた。


「でも、僕の隣に座るのは、草薙さんじゃなきゃダメだ」


「……え?」


 意外すぎるその言葉に、思わず口を半開きにして飯田のホラー顔を見つめてしまった。

 飯田は照れたように笑って目線をそらすと、ひとりごとのように言葉を継いだ。


「自分が他人から必要とされてるかどうかなんて、本人は分からないもんなんだよ。僕だって、まさか奥さんが自分を必要としてくれてるなんて思ってもいなかったし」


 それからもう一度俺に視線を戻し、確信に満ちた口調で断言する。


「でも、人は必ず誰かから必要とされてるんだ。自分の知らない、思いもかけないところで」


 俺はその黒々とした隈で縁取られた目から、視線を外すことができずにいた。


「草薙さんは一人じゃない」


 ホラー顔のはずの飯田が、今までになく普通の人間に見えるのはなぜだろう。 


「僕はもちろん、室長も、松永さんも、課のみんなも草薙さんを心配してる。勝手に心配するなとか、俺の気も知らないでとか思うかもしれない。そりゃ、僕たちは草薙さん本人じゃないから、草薙さんのことは全部なんか知らないよ。知らないけど、僕たちは僕たちの知ってる範囲の草薙さんが好きだし、尊敬もしてるし、心配なんだ。勝手にね」


 飯田はそこで言葉を切ると、文字通り怖いくらい真剣なまなざしで俺を見つめた。


「……リアルに目を向けなよ、草薙さん」


 骨格標本的ホラー男は、その恐ろしげなキャラにそぐわぬどこか優しい語り口で切々と言葉を継ぐ。


「本当は草薙さん、はっきりさせなきゃならないことがあるんでしょ。その結果を受け止める自信がないから、あんな物の怪にすがって逃げてるけど、……きちんと現実を見つめて、はっきりさせるところははっきりさせて、受け入れるべき所は受け入れなきゃダメだよ」


 正論過ぎる。あまりに。

 返すべき言葉を見つけられず、俺が一歩あとじさった時。

 ゆっくりと、飯田が後ろを振り返った。

 薄暗い階段の上り口に揺れる、白いレース。


 そこに、神無あいつはいた。

 心なしか悲しげなまなざしを、俺に向けながら。

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