其の十五.……危険?
「スペシャルハンバーグランチをご飯大盛りで。飲み物はコーヒー。単品でミートソーススパゲティもお願いします。あとは……」
そこまで言うと、向かい側の席に座る飯田は俺の顔をちらりと見た。
俺が「コーヒー」と短く答えると、やけにスカートの短いウエートレスは無愛想に注文を伝票に書き込み、「少々お待ちください」と事務的に言い残して去っていった。
「草薙さん、コーヒーだけ? せっかくおごるのに」
「いや、マジで食欲ねえから」
昼休み。食欲もないし、正直あまり動きたくもなかったが、飯田からの誘いをうけて俺は近所のファミレスに足を運んだ。奢ってくれるつもりらしいが、残念ながら今の俺にはコーヒーが精いっぱい。
それにしても、だ。
今朝方の発言の真意を確かめたい。
『死ぬよ』
結局、あの直後にミーティングが始まってしまい、確認しようにも他の課に出張する用事があったり、突然市長が仕事ぶりを偵察しに来たりなんぞで、ゆっくり話をしている時間がなかった。昼飯時に話ができればと思っていたところに飯田からの誘いがあったわけで、渡りに船とばかりに重い体を引きずってここまできたのだ。
しかし食欲はない。正直、食い物の匂いを嗅いでいるのもつらい。背もたれに体を預け、じっと目を閉じて頭痛と悪心に耐える。
「僕、よく食べるでしょ」
ふいに飯田が口を開いた。背もたれに寄りかかった姿勢のまま、目だけを開けて飯田を見やる。
「食べないと体が持たないんだ。昨夜も狐に憑いてこられちゃって、祓い落とすまでにかなりエネルギーを消耗したから」
飯田はいったん言葉を切り、陰影の濃いホラー顔でじっと俺を見つめた。家族連れで賑わうファミレスの明るい雰囲気がウソのように、この一角だけは空気が重く湿って感じられる。
「霊や妖怪は、姿を現す時にそれなりのエネルギーを消費するらしい」
俺は相づちを打たずに、飯田の口元を黙って見ていた。
「でも、もともと彼らは物理的には存在しないから、自分でエネルギーを生産することはできない。だからあいつらは、相手のエネルギーを使って実体化しているんだ」
証明するものもなにもない、ウソか本当か分からない話。だが、オカルト人間飯田が言うと、やけに説得力をもって響いてくる。
「僕は、どうやらあいつらにとって流用しやすいエネルギーを持っているらしい。あいつらもそれが分かるから、勝手に憑いてきては僕のエネルギーを使って実体化してみせる。あいつらにエネルギーをどんどん使われちゃうから、僕はいくら食べても太れない。エネルギーが尽きると死んじゃうから、その分、必死で食べて補うしかない」
飯田は言葉を切ると、反応を待つように俺の口元を凝視していたが、再び重々しく口を開いた。
「僕の見たところ、草薙さんはエネルギーを取りやすいタイプの人間じゃない」
「……まあ、そうかもな。生まれてこの方、霊だの妖怪だのを見たこともねえし、そんなものがいるなんて思ってもいなかったから」
「エネルギーを取られにくい人が無理やり取られるって、かなり危険なことなんだよ」
「……危険?」
飯田はゆっくりとうなずいた。
「今朝、僕は草薙さんを見て本当に驚いたんだ。生気が薄くなってる。ゼロになったわけじゃないけど、先週の比じゃないよ。がた落ちしてる」
「マジで?」
驚いて、自分の手やら胸やらを眺め回してみるが、生気が薄くなっているような雰囲気は全く感じられない。いつも通りの、俺の手足。てか、生気が薄いってどゆこと?
「草薙さん、ここに手、かざしてみて」
飯田は水の入ったコップをどけると、おもむろにテーブルの上に自分の手を差しだした。何のことやらよく分からなかったが、言われるままその隣に右手を差しだしてみる。
「……ほら、分かる?」
「?」
飯田の視線を追ってテーブル上を見て、わが目を疑った。
飯田の手の下には、頭上にぶら下げられた白熱灯の光に照らされて、黒々とした影がはっきりと映し出されている。だが、その隣に並んでいる俺の手の下には、薄くぼんやりとした影しか見あたらない。その濃さは、飯田の影の半分……いや、三分の一ほどだろうか。
あまりにも歴然としたその差に、語るべき言葉を失って凝固してしまった。
「おまたせしました」
突然、不機嫌そうな声が頭上から響いてきた。目線を上げると、先ほどのウエートレスが憮然とした表情でテーブル脇に立っている。慌てて差し出していた手を引っ込めると、空いた場所に油が景気よく跳ねる熱々ハンバーグを放り出すように置いた。ご飯やサラダ、コーヒーの皿が、目の前に次々と並べられていくのをぼうぜんと眺めやりながら、俺は先ほど見た光景を論理的に説明しようと必死で試みた。だが、結局なんの説明も思い浮かばなかった。
料理を並べ終えたウエートレスが去ると、飯田は重々しく口を開いた。
「草薙さんの調子が悪いのも、多分二日酔いのせいじゃない。エネルギーを半端なく取られているせいだよ」
ホットコーヒーから立ち上る湯気が、緩やかならせんを描いて上昇していく。
中空に消えゆく湯気をぼうぜんと目で追いつつ、心臓の鼓動だけが、やけにはっきりと感じられる気がした。
「僕なんかはエネルギーを取りやすいタイプの人間だから、取られはするけどそれによるダメージも受けにくい。だから、取られた分を摂取すれば何とか生命は維持できる。でも、取られにくいタイプの人が無理やり取られると、体が被るダメージが半端ないんだ。頭痛、吐き気、食欲不振、めまい、動悸、息切れ……体力がどんどん落ちる上に、エネルギーもどんどん失えば、どうなるかは……分かると思うけど」
飯田は言葉を切ると、落ちくぼんだ眼窩の奥にある血走った目で、じっと俺の顔を見つめた。
カラカラの喉に水分を取り込みたくてコーヒーに手を伸ばしたが、カップを持ち上げる自分の手がそれを支えきれないことに気付いた。仕方なく手を引っ込めて飯田を見やり、かすれた声を絞り出す。
「どうなるかって……どうなるんだ?」
「今朝、言ったとおりだよ」
飯田は、切り分けているハンバーグに目線を落とすと、鼻で小さくため息をついた。
「何とかしないとまずいよ。僕、一番最初の時、無責任に「悪いものじゃない」なんて言っちゃったけど……ああいう形で出てくるものって、そのものに悪気はなくても、やっぱり何かしら影響を与えちゃうもんなんだよね。今回のことは、僕にも責任がある。何とかするよ」
「何とかって……」
「祓おう」
なんだか知らないがゾッと背筋に寒気が走って、黒々とクマで縁取られた飯田の目を、思わず息をのんで見つめ直した。
「除霊してもらおう。僕、そういう関係の知り合いいるから……お金、安くならないか交渉してみるよ」
「え、……ちょ、ちょっと待て」
飯田の言葉を遮ると、慌てて反論を述べたてる。
「除霊って……座敷童そのものは悪いもんじゃないんだろ。だったら、そんな荒っぽい手を使わなくても、何とか説得できるんじゃねえか?」
「いや、最初の時はそう思ったんだけど、……今、草薙さんの体から感じる霊気には、やっぱりマイナスのエネルギーは感じない。でもね、プラスでもないんだよ」
「……プラス、じゃない?」
飯田は深々とうなずいた。
「悪意で引き起こしている訳じゃないけど、結果的にあの妖怪は、草薙さんをマイナスの方向に導こうとしている。あの妖怪自身、導こうとしている方向がマイナスだとは思っていないのかもしれないけど、結果的には歴然としてマイナス。……危険だね。迷いがない分、もの凄く危険」
切り分けたハンバーグを口に運びながら、あな恐ろしやとでも言いたげに首を振る。
「だから、急ごう。僕、知り合いに訳を話して、できるだけ早く段取りをつけるよ。草薙さんにはその間、これを貸してあげるから」
そう言うと飯田は、左腕にはめていた水晶の腕輪を外して、俺に差しだした。
「え? 飯田、これって……」
「これをつけていれば、取りあえずエネルギーの流出はある程度防げるはずだから」
「で、でも、これ取ったら、おまえが……」
「僕は大丈夫。憑いてくるものは増えちゃうけど、さしあたって死ぬようなことだけはないから」
こけた頬を引き上げて、飯田はどこか悲しげに笑った。
「草薙さんはこのままだと、本当にまずいよ。僕のことは気にしないで、頼むから持って行って」
そう言うと、飯田は俺の腕に強引に腕輪をはめた。手首に触れた飯田の指が人間とは思えないほど冷たくて、思わず手を引っ込めそうになりながら、必要ないと言おうとしたが、俺の手元を見つめる飯田の目があまりにも真剣で、言おうとした言葉は喉の奥に引っかかって出てこなくなった。
☆☆☆
「危険、……か」
人気のない、夕暮れの住宅街。腕にはめられた水晶玉の連なりを眺めながら、ため息とともに小声でつぶやいてみる。
頭痛はひどい。食欲もない。めまいもする。そして、あの時に見た自分の影は、確かに異常なほど薄かった。
しかも、あのホラーマン飯田があんなにまで俺のことを心配して、本人曰く十万円もしたという腕輪まで貸してくれたのだ。俺と同期で、机が隣同士だから話す機会がなかった訳じゃないけれど、あのとおり見た目も不気味だし、話題もいまいち合わなくて、これまでは何となく避けていたような部分すらあったのに。
歩きながら、足元に目を向ける。交互に繰り出される足先に、影らしきものは見あたらない。今日はあいにく薄曇りなので、道行く誰の足元にも影は見あたらないのだ。
『悪意で引き起こしている訳じゃないけど、結果的にあの妖怪は、草薙さんをマイナスの方向に導こうとしている』
その言葉が具体的にどういう状況を指すのか、俺にはよく分からなかった。ただ、今のままエネルギーを取られ続けていれば、生命の危険があるようなことを飯田は言っていた。本当に飯田の言うとおり、この体調不良が神無の仕業によるものなら、確かにその可能性はあるのかもしれない。
もし本当に、これが神無の仕業であるのなら。
通りの向こうから、派手な色合いのタクシーが近づいてくる。
路肩に身を寄せた時、俺んちの煤けたサイディングの壁が、家々の隙間から垣間見えた。
――確かめてみる、か。
なんだか胸のあたりが重苦しい気がして、深呼吸すべく大きく息を吸い込んだら、タクシーの排気ガス特有の臭いが鼻腔にどっと流れ込んできて、少しの間、電柱の影に立ち尽くしてせき込んでしまった。