其の十一.何を期待してたんだ、俺。
今日は土曜日。
仕事は休みで、本来なら寝坊して、のんびりと体を休めている日のはず……にもかかわらず、朝っぱらからエンジンフル回転で稼働中だ。
身支度を調え、コーヒーを淹れ、トーストをかじりつつ玄関の靴をそろえ、調理台に出っぱなしの鍋やザルを片付けて食器を洗い、テーブルをふき、押入から引っ張り出した掃除機を、早朝から近所迷惑を顧みず大音量でかけまくる。
狭い家中をコマネズミさながらに走り回る、俺。
訳の分からない高揚感に突き動かされている感じだ。
昨夜着信していた、一通のメール。
『突然すみません。必要なものがあるので、明日の十時頃、そちらに行きます。顔を合わせたくなければ、その時間はどこかに出かけていてください』
送信者の名前は、草薙葉月。
あいつだった。
☆☆☆
部屋干ししていた洗濯物を抱えてベランダに上がり、ネジ鍵を回して窓を開け放つと、まばゆい日光と秋の爽やかな風が薄暗い部屋に一気になだれ込んできた。
洗濯物を干しながら上空を見上げると、透き通った青に塗り込められた空の端を、飛行機雲が斜めに切り取っていくのが見えた。
――布団、干すか。
取りあえず、手っ取り早く部屋を片付けられるし、乾燥もできる。
自分の布団を抱え上げてベランダの柵に干してから、まぶしい朝日に照らされて四隅までしっかり見える押入の上段にある、カビ臭い客用布団と枕も引っ張り出す。
一番日当たりのよい場所にそれらを干しながら、ふと、こんなパキッとした晴天の日中、あの座敷童はどこで何をしているんだろうと考えた。
どこか日の当たらない場所でじっと息を潜めているのか、それとも昼間は光に溶けて消えてしまうのか。わからないが、俺的には何となく、姿が見えないだけで、実は今もその辺をウロウロしているような気がした。
――だとすると、俺とあいつのやりとりも見られちまうことになるな。
部屋の中央にかかっている古くさい振り子時計を見上げると、午前八時三十分をさしている。
あいつが来ると言っていた時間まで、あと一時間半だ。
脇腹の辺りを熱く火照らせる期待感と、キリキリと胃を締め上げる不安感。
目の前に広がるすがすがしい秋の風景とはまるで正反対の、胸が焼けつくような感覚に、朝からずっととらわれ続けている。
あいつは何をしに来るんだろう。
何を話したらいいんだろう。
話しかけたら、返事をしてくれるだろうか。
まだ怒っているだろうか。
それとも、少しは、許してくれているんだろうか。
あいつはこれから、どうしたいんだろう。
俺は、どうしたいんだろう。
俺たちはこの先、どんな未来を望んでいるんだろう。
☆☆☆
時計の針が、歯切れのよい音ともに進む。
昼なお暗い台所の椅子に座り、喉元にせり上がってくる心臓を何とか体内に収めつつ、やり残しはないか、もう一度ぐるりと部屋を見回す。
あと十分で十時、約束の時間だ。あいつは時間に正確だから、多分八分後には玄関チャイムが鳴るだろう。あいつは待ち合わせには一度も遅れたことがない。遅れるのは、いつも俺。
テーブルに肘をつき、両手で顔を覆って、息苦しさを解消すべく深く長いため息をつく。
わずかな時間のはずなのに、相手を待っている時は異様に長く感じる。心臓の鼓動だけが、やけに明瞭に鼓膜を刺激する。手持ち無沙汰だ。
ちらりと時計を見上げる。九時五十五分。あと三分。立ち上がって周辺を再確認する。玄関の靴はそろえてあるし、ほこりも積もってない。仕事の道具はひとまとめにしてあるし、水回りの掃除も完璧だ。トイレだって、なめるようにきれい。便器の白さが目に染みる。つい先日、引っかき回してめちゃくちゃにしたタンスの引き出しも整理し直しておいたし、ダイニングテーブルにはあいつの好きな紅茶と、おそろいのティーカップまで用意してある。ポットのお湯も、すでに保温ランプが点灯している。そして、その隣に置いてあるのは、例の紙袋。準備は完璧だ。
そこまで確認してから、腰に手を当てて深呼吸をするも、玄関チャイムが鳴る気配は全くない。
――遅いな。
時計を見上げると、十時十分。五分前行動を徹底的に身に付けている葉月にしては、珍しすぎる。急に、胸がザワザワと騒ぎ始めた。
――もしかして、何かあったんじゃ……。
先ほどまでとは違った意味で、いても立ってもいられないような焦燥に駆られ、取りあえず表を確認しようと玄関に走った。スニーカーをゲタ箱から出すのももどかしく突っかけると、勢いよく玄関扉を開け放つ。
と、扉のすぐ向こうに誰かが立っていたらしい。その人物は、目を丸くして身を引いて、扉との衝突を間一髪でさけた。
「えっ!?」
「……あれっ?」
思わず、その人物と無言で顔を見合わせてしまう。
「どうしたの? 血相変えて……」
先に遠慮がちな問いを発したのは、扉の外に立っていた人物……葉月だった。
睫毛の長い大きな目で心持ち上目遣いに俺を見上げながら、落ち着いた色味で彩った唇にあいまいな笑みを浮かべて、よくとおる、涼やかな声で言葉を紡ぐ。二カ月前に出て行ったあの時より、少しだけ痩せたのだろうか。顎のラインがすっとして、小柄な体がより一層きゃしゃに見えた。でも、変わったのはそのくらい。あとはほとんど変わらない。栗色のミディアムヘアに、お気に入りのトレンチコートに、シンプルなVネックニットとセンタープレスパンツが似合う、シャキッと背筋の伸びた、頭のいい自立した女。
その顔を見た途端、先ほどまでの心配が一気に安心に転じたせいなのか何なのか、腹の底から怒りがふつふつとわき上がってきた。
「どうしたのって、……何だよ! 十時って言っていたくせに……」
俺のけんまくに、葉月は驚いたように目を丸くした。
「小多急線が人身事故で止まってたのよ」
「じゃあ、遅れるってひとこと、連絡をくれたっていいだろ?」
葉月は苦笑したようだった。どこかあきれたように視線をそらすと、立ちはだかる俺の脇をすり抜けて玄関に入る。
「あなた、十分程度の遅刻で、連絡くれたことってあったっけ?」
玄関先に立ち尽くしたまま、言葉に詰まって、靴を脱ぐ葉月の後ろ姿を黙って見つめる。
「だいたいあたし、あなたが家にいるなんて思わなかったから。どこかに出かけて、席を外すだろうって思ってた」
「……いちゃ、まずかったのか」
「別に。驚いただけ」
葉月は靴をそろえると、さっさと部屋の中に入って行ってしまった。俺も慌てて靴を脱ぎ、そのあとを追って中に入る。
見ると葉月は、三畳間のクローゼットに首を突っ込んで何かをさがしているようだった。
俺は黙ったまま、部屋の入口に立ってその後ろ姿を眺めやる。
葉月が首を巡らす度、軽くウエーブのかかった栗色の髪が揺れる。今も、あの美容院に通っているのだろうか。急行で三駅先にある、大学時代から行きつけだというあの美容院。
「洋服も、引きあげないといけないよね」
俺の視線を背中に感じたのか、コートや背広をかき分けながら、何気ない口調で葉月が言う。
「持って行ったのは夏用の普段着ばっかりだったから……冬になったら、厚手のコートも必要だし。私、冬物は今のところ、このトレンチコートしか持って帰っていないから」
発言の意図はうすうす感じとれたが、それについてはコメントを控えたまま、投げやりな口調で問いを発する。
「今日はいったい、何を取りに来たんだ?」
「同僚の結婚式に出席するの」
俺に背を向けたまま、葉月は答えた。
「式に出るのに、適当な服がなくて。こっちに何かあるかもしれないって思ったから」
ついでにコートも持って帰ろう、とかひとり言を言いながら、グレーのカシミヤコートをハンガーから外し、きちんと畳んで床に置く。
それからしばらくは無言のまま、掛かっている洋服を三巡くらい見て回っていたが、お目当てのものが見つからなかったのか、小さくため息をつくと、今度は引き出しを見始めた。
その様子を見ているうちに、思っていたことを早く実行したくて、なんだか無性にイライラしてきた。
「まだ見つからないのか」
「ゴメンね。洋服は諦めたんだけど、マフラーと手袋が欲しくて。あともうちょっとで帰るから。十一時から美容院も予約してるし」
「え? 美容院って、下南沢の?」
「そう。だから遅くとも、十時半には出るから」
あわてて柱時計を見上げる。十時二十五分。あと五分しかいられないってことか。
「あ、あったあった」
いくぶん弾んだ声で言いながら、葡萄色のマフラーと黒の革手袋を先ほどのコートと一緒に持ってきた袋に詰め込むと、それを片手に葉月は立ち上がった。
「おじゃましました」
そう言うと、儀礼的にほほ笑む。
「悪かったわ、お休みのところ」
何か言葉を返すべきだと思って口を開きかけたものの、言うべき言葉が見つからない。
黙って立ち尽くしている俺を横目に、葉月は玄関へ足を向けた。そのまま、数歩廊下を進んでから、ふと思い出したように口を開く。
「十月中に書類の方、よろしくね」
心臓を握りつぶされたようなここちがして、思わず呼吸すら忘れた。
「……おまえは、それでいいのかよ」
「え?」
振り返った葉月の顔には、当惑しきったような、どこかわざとらしささえ感じさせる驚きの表情が浮かんでいた。
「なんで……そんなこと、言うの?」
そのひとことで、分かった。理解した。納得した。
何を期待してたんだ、俺。
「……何でもねえよ」
低い声で吐き捨てて、踵を返す。見送る気もうせた。ていうか、これ以上、一秒たりとも、こいつの姿なんか見ていたくなかった。
台所に消える俺の後ろ姿を、葉月が玄関に立ち尽くして見送っている気配がする。なに、いつまでも見てんだ。用済みの男なんか、見送る必要もないだろうに。
台所に入った俺の視界に、テーブルに置かれている紙袋が飛び込んできた。
それを乱暴に引っつかむと、再び踵を返して玄関へ向かう。
上がりかまちに腰掛けてショートブーツを履いていた葉月は、その手を止め、戻ってきた俺を驚いたように見上げた。
その胸もとに、強引に手にした紙袋を押しつける。
「え? 何? これ……」
背中から追いかけてくる声を断ち切るように廊下を抜け、台所の扉を後ろ手で乱暴に締める。
扉に寄りかかり、ドアノブに手をかけたまま、玄関の物音に耳をそばだてた。
しばらくは何の物音もしなかったが、やがてファスナーを上げるような音が聞こえたあと、紙袋がガサガサいう音と、玄関扉のノブを回した音、扉がきしむ音、そして、静かに閉まる音が響く。
俺はその音を聞きながら、薄暗く湿っぽい台所の入口で、扉に寄りかかって立ち尽くしたまま、テーブルの上にポツンと取り残され、わずかな光を反射して冷たく光るティーカップの縁をぼうぜんと眺めていた。