其の十.手伝ってくれんの?
次の日も、あいつは現れた。
おどおどとこちらを盗み見る飯田と隣り合わせて仕事をするのが何となくいやで、五時過ぎには退庁して、久々に夕飯でも作ろうかとスーパーで安売りの野菜や肉をしこたま買い込み、じょいやさじょいやさとかさこ地蔵さながらにレジ袋を三つも下げて帰宅した俺は、数日前に部屋干ししてそのままになっていた洗濯物をかいくぐり、薄暗い台所にやって来た。
だいぶ日が短くなってきた上に、なにせ築五十年近いこの家は、採光についてはとんと無頓着で、居間はかろうじて明るさが残っているものの、北側の奥まった場所にある台所は、晴れた日中でも電気をつけなければ手元が見えないほど暗い。物陰もやたらと多くて、時折そこからネズミやゴキブリが走り出てくる。葉月が一緒に住んでいた時はそれも収まっていたのだが、ここ二カ月ですっかり以前のゴキブリ&ネズミ天国と化してしまった。
買ってきた物をその薄暗い台所の中央に位置する丸テーブルの上に置くと、明かりをつけようとスイッチを捜す。
背の低い戸棚が、部屋の一角を斜めに切り取る階段下に無理やり寄せて置かれている。その戸棚の脇にあるスイッチに手を伸ばした時、戸棚と階段下の間にできた三角形の暗黒空間に、白いものが潜んでいるのに気がついた。
戸棚の影からほんの少しだけ顔を出している、白いフリル。
あわてて三角空間に頭を突っ込んでのぞいてみると、座敷童は膝を抱え、狭苦しい空間に自分の体を強引に押し込んで座っていた。俺と目が合うと、何とも嬉しそうに極上の笑顔でにっこり笑いやがる。
「何やってんだ、そんな狭いところに入り込んで。早く外に……」
言いかけて、はたと気づく。そういえばこいつは妖怪で、明るいところが苦手だった。台所は薄暗いとはいえ、もののありかぐらいは分かる状態だ。こんな程度でも、こいつにとっては明るすぎるんだろう。
「分かったよ。悪いけど、しばらくそこにいろ。料理するんで、包丁を使うから、手元くらいは照らさせてもらうぞ」
アールデコ調シャンデリアの点灯を諦め、代わりに調理台の上についている蛍光灯のヒモを引っ張って、蛍光灯の明かりを頼りに料理を始めた。
☆☆☆
いつもながら、俺の調理は手際が悪い。
たかだかみそ汁とカボチャの煮付けとあじの干物を焼くだけの簡素なメニューなのだが、調理が進むにつれ流しにはミルクパン、片手鍋、包丁にまな板が山となり、その周囲にカボチャのワタと野菜屑と米粒が散乱し、極めつけに魚を焼いたグリルが加わる。やりながら片付ければいいのだろうが、調理に必死になっているとそれどころではないし、そんなに経験を積んでいる訳でもない。飯の形が作れるだけマシというレベルだ。
あれこれ考えながらグリルを流しに突っ込んだ途端、中に入っていたもののバランスが崩れ、コップだろうか、ガラス製品の割れる尖った音が鼓膜を突き刺した。
肩を落としてため息をつきつつ、隅っこの三角空間をちらりと見やる。
――あーあ。手伝ってくれても良さそうなものなのにな。幸運を呼ぶ座敷童のくせに……。
何気なくそう思ってから、はっとした。
今のセリフに、どこかで覚えがあったのだ。
『あーあ、手伝ってくれても良さそうなものなのにな』
仕事から帰ってきて、休む間もなく調理に奔走していたあいつは、居間に座り込んで明日の天気をチェックしていた俺に、ふざけた調子で、でも、心なしか恨めしそうな雰囲気をにじませながらそう言った。
市の一大イベントである博覧会を明日に控え、天気が気になっていた俺は、あいつのその言葉にかなりムッとした。
『何だよ! 俺は遊んでる訳じゃねえぞ。明日のイベントが雨だったら急遽対応しなきゃならないことが山のようにあるんだから、天気チェックくらいさせてくれよ!』
あいつは悲しげな表情を浮かべたが、それ以上何も言わなかった。
その時の様子がありありと頭に浮かんで、コップの欠片を鍋の隙間から拾い出しながら、なんだか胸苦しいような感覚に襲われた。
☆☆☆
何とか料理が仕上がった頃には日はすっかり沈み、辺りは漆黒の闇に包まれ始めていた。
調理台の明かりだけを頼りに、テーブルにみそ汁と飯を置き、焦げた焼き魚と煮くずれたカボチャを並べる。
食べ始めてから、ふと視線を感じて振り返ると、いつの間に移動したのだろう、台所の奥、暗闇に沈む階段の上り口に、座敷童が座っていた。
扉の影から顔だけ出して、興味深げにじっとテーブルの上を見つめている。その視線があまりに熱いので、試しに食べかけのカボチャを箸で挟んで差し上げて見せた。
「食うか?」
冗談のつもりだったが、驚いたことにそいつはこくりとうなずいた。
右手に箸、左手に小鉢を持って立ち上がると、薄暗い階段の上り口に歩み寄る。
「俺の箸でいいか?」
洗いものを増やしたくなかったのでそう聞くと、座敷童は何のためらいもなくうなずいた。
水っぽいカボチャの煮付けを、ちょうどこいつの口に入りそうなくらい箸で取り、おずおず暗闇に差しだしてみる。
次の瞬間、意外なほどの手応えとともにカボチャをつまんでいた箸先が消えた。
暗闇の向こうで、座敷童が口を動かしているらしい気配がひしひしと伝わってくる。
「……うまいか?」
暗闇に浮かぶおかっぱ頭のシルエットが、上下に揺れた。
何だか嬉しくなって、飯茶碗も持ってきてみる。
「飯も食ってみるか?」
力強くうなずく気配。
再び先ほどくらいの量を箸で取って暗闇に差しだしてみると、押し返されるような手応えとともに、ご飯も見事に箸の先から消えた。おもしろい。
「魚も、食ってみる?」
おかっぱ頭が縦に揺れる。
結局そのあと、カボチャと飯と魚を代わる代わる手にしつつ、テーブルと階段の上り口を何往復もさせられたのだった。
☆☆☆
山のような洗い物を終えて、一息つこうとノートパソコンを持ってきてケーブルを繋ぎ、スイッチを入れた。
画面からほとばしる明るい光が、暗かった階段上り口を照らし出す。
扉の影から顔をのぞかせていた座敷童は、顔を背けて腕で光をさえぎった。
「あ、悪い悪い」
慌てて光が当たらないようにパソコンの向きを変えてやる。
だが、それでもまだあいつは不安そうに周囲を見回している。
「どうした?」
あいつの目線を一緒になって追ってみる。
あいつの目は、洗面所の方を見つめていた。どうやら、さっきから稼働している洗濯機の音が気になって仕方がないらしい。
「あれは洗濯機。怖いもんじゃないよ」
座敷童子は怯えたような表情で、俺に目を向けた。
その時、突然、ガタッという音とともに、洗濯終了を知らせる「ピーピー」というブザーが鳴り響き、座敷童は傍目にもはっきり分かるほど体を震わせ、こわばった顔で再び洗面所の方を見た。
「どれ、干しに行きますか」
おもむろに立ち上がり、洗面所に向かう。俺の後ろを、座敷童はどうやらついてきているらしく、ひたひたと何かが歩いている気配とともに、時折、暗闇で白いスカートがひらりと揺れる。電気をつけるわけにもいかないので、仕方なく壁を伝いながら暗闇の中を進んだ。
☆☆☆
洗濯物も、なつめ球の黄色い光に淡く照らされた薄暗い部屋で干す。
黄色い明かりは刺激が少ないらしく、あいつは洗濯を干す俺の側まで寄ってきて、作業の様子を興味深そうにしげしげと眺めている。
「何? 手伝ってくれんの?」
からかい半分にそう言ってみると、驚いたことに座敷童は洗濯かごから洗濯物をひとつ手に取った。
幽霊や妖怪がものを持てるなんて思ってもみなかったので、驚くと同時に妙に感心してしまった。
「凄いな、おまえ……じゃあ、それ、こうやって皺、伸ばせるか?」
シワシワのハンカチを手に取り、パンパンと引いて皺を伸ばしてみせると、座敷童もそれにならってたどたどしく手にしていた洗濯物の皺を伸ばし始めた。それにしてもどこかで見たことのある形だなあと思って見たら、それは俺のブリーフだった。一瞬凍ったが、まあいいかと思い直してハンカチを小物干しにぶら下げる。
「伸ばしたら貸して。俺が干すから」
そう言って手を差し出すと、座敷童はブリーフくんをしっかりと握りしめ、不満げに口をとがらせて自分の胸に抱え込んだ。
「え? ……もしかして、おまえがやりたいの?」
口の先を魚みたいにつぼめたまま深々とうなずくその顔が何だかおかしくて、思わずふき出してしまった。
「分かった分かった。じゃあ、お願いしますよ」
小物干しから一歩離れて場所を空けると、座敷童は緊張した面持ちで小物干しの下に歩み寄ってきた。
きっと、妖怪パワーを発揮してフワフワと宙でも飛ぶんだろうと、期待に胸を膨らませながらその後ろ姿を見つめる。
座敷童は、精いっぱい腕を伸ばして高々とパンツを掲げると、白いスカートをふんわりと膨らませて、ぴょん、と飛んだ……いや、跳んだ。
足の裏は、床から数センチも離れていなかった。
座敷童は、そうして空しい跳躍を何度か繰り返していたが、やがて疲れきったように動きを止めると、ゆるゆると振り返って俺を見上げた。すでに、涙目だった。
「ああああ、分かったって。抱っこしてやるから、泣くな」
慌ててかがみ込んで、体温がないのでヒンヤリと冷たい、でもふんわりと柔らかく、不思議なほど確かな重みのあるその体を、小物干しに手が届く位置まで持ち上げてやる。
座敷童は嬉々として小物干しにぶら下がる洗濯ばさみを手にしたが、片手でパンツを持ちながら洗濯ばさみに挟むのがなかなか難しいらしい。何度も失敗しては、パンツを落としそうになる。仕方がないので、空いている方の右手で落ちそうになったパンツを持ち上げてやったり、洗濯ばさみをブラブラしないように押さえてやったりしながら、座敷童が作業を終えるまでの間、ずっと抱っこしてやらなければならなかった。てか、自分でやった方が早いって。
五分ほどもかかっただろうか。震える手で洗濯ばさみにパンツを挟み込み、ようやくあいつはもう一方の端をとめることに成功した。
「やったな!」
思わず嬉しくなってこう言うと、座敷童は首を巡らせて俺を見た。ふくふくした両頬を思い切り引き上げ、やり遂げた喜びにその目をキラキラ輝かせながら、なんとも嬉しそうに笑いながら。
☆☆☆
「ほら、ここがお前の寝場所」
そう言うやいなや、座敷童は俺の足元に走り寄ってきて、上らせてくれと言わんばかりに両手を差し伸べた。
もうあれこれ言わずにその脇下に手を入れて、当たり前のように押入の上段に上らせてやると、某アニメの猫型ロボットが寝場所にしているのと同じところに、あいつはちょこんと正座して、嬉しそうにニコニコしながら小首を傾げた。
「……そういやあ、おまえさ。初めて姿を見せた時、もしかして、ここからおりたかったから大人の姿になったのか?」
こいつはどうやら、体温がないことと、暗闇に溶けて消えること以外、身体能力は普通の子どもと変わりがないらしい。となると、この状態からここから出るには、こいつの短い足では不可能だ。
座敷童は俺の質問には答えず、相変わらずニコニコしながら首を心持ち右に傾け、正座した膝の上に両手をお行儀よく載せている。まあ、そんなことは今さらもうどうでもいいか。
肩をすくめて笑ってから、座敷童に向き直る。
「じゃ、おやすみ」
小さく頭を下げてみせると、きょとんとした表情で俺を見ていた座敷童も、自分なりに居住まいを正し、俺に倣って頭を下げた。膝に額がつくまで体を曲げてから、ゆっくりと体を起こして得意気ににっこりと笑う。
「はいはい、よくできました」
苦笑まじりにうなずいてみせると、あいつは満足そうな表情でほほ笑みながら、押入の闇に溶けて見えなくなった。
その夜、俺は久しぶりに、夢も見ないでぐっすり眠った。