夜の異変3
捻りあげられた腕になすすべなく、ルイスの体は地面におさえつけられる。
地に伏せたルイスを見下ろして、クイーズは鼻を鳴らす。邪魔者がいなくなってようやく目的を果たせると、カルセドニーへと宝石を掲げた。
(あれを取り込んではいけない)
おさえられた関節が悲鳴をあげる。体格の違う護衛官は、筋肉のないルイス一人簡単に無力化できる。命令を忠実に実行して主人の邪魔をしない。
だけど、その目的を達成させてしまったら? 嫌な予感だけは大きくなって、ルイスは出来うる限りの力を使ってそこから抜け出そうと試みた。
痛みに歯を食いしばる。脚をばたつかせると、後ろから膝でおさえられた。剣を抜いていないのだけは幸いか。
「いっ」
ひ弱な筋肉が悲鳴をあげる。
カルセドニーが突如大きく翼を広げた。片方だけでも人ひとりを簡単に包めてしまえそうなほど大きいそれは威圧感がある。
そして、鋭い鳴き声をだす。静かな薄水色の瞳には炎が宿っているように見えた。
怒っている。
両前足が地面から離れ、大きく羽ばたく。怖気付いて後退するクイーズを追い詰めるように踏み出して鋭い爪を振り上げる。
「何をする!」
宝石を持つ手を引っ込めて、クイーズは顔をしかめた。
ルイスを抑えていた護衛官が動いた。主人を守ろうとして前に出る。重しがなくなって、息ができるようになる。
しかし、鞘から抜かれた刃をみて冷や汗が出た。
カルセドニーの周りには今まで庭の端で成り行きを見守っていた竜も寄ってきている。うちの一匹は先輩竜仕官の緑色の竜だ。他の竜も鋭い目で剣を構える護衛を見据えていた。まるでカルセドニーに同調しているみたいに。
暗い竜の庭にくっきりと浮かぶ白い竜は、大きな威嚇の咆え声をあげた。大気を震わせるような低い声。翼を広げ、その姿はいつもよりも何倍も大きく見える。
ルイスは伏せていた体を持ち上げる。
カルセドニーに人を傷つけてほしくない。カルセドニーにも、他の竜にも、傷ついてほしくない。
地面を蹴って前に進む。
多分今、双方を止められるのはルイスだけだ。
護衛官に庇われ、竜に意識を向けているクイーズの手から、宝石を奪い取る。
まずはこの石をどこかへ持っていく。竜が取り込んでしまわないように。
そして、声を張り上げた。
「飛んで!」
逃げろという気持ちだった。
彼らには空がある。こんな宝石に興味を示さず、剣を向けてくる人間に構わず、その翼で大きな空へ飛び立ってほしい。
そこには自由がある。
カルセドニーの目がいつもと同じようにルイスと合う。真意を見ようと覗き込むように。
「はやく!」
一拍して、竜は大きくはばたいた。今回は威嚇するように広げたままにするのではなく、風を掴むように上下する。
前足が地面から離れ、後ろ足が離れる。まるで魔法みたいだといつも思う。他の二匹の竜もカルセドニーに続くように地面を離れる。
空は彼らの場所だ。どこまでも行ける場所。
ルイスは竜たちが、侵入者の手の届かないところは逃げたのを見届けると、踵を返した。手のひらがじっとりと汗ばむのに、掴んだままの宝石のせいでざわざわと鳥肌が止まらない。
これをできるだけ遠くに運ぼう。警備を探して預けるのがベストだが、それまで逃げ切れるだろうか。いや、不安に気を取られている暇はない。
反撃されて唖然とする侵入者が眦を吊り上げ叫んだ。
「貴様!! おい! あいつを捕らえろ!」
そして護衛官に命令する。背中を声と足音が追いかけてくる。この大声で警備の人間が気付いて対処してくれればなんとか事態を収めることができるかもしれないが、そんな希望は抱かない方がいい。
扉前に常駐するはずの警備がいなかったことも、侵入者がいたことも、こうなるように手引きして事を起こしたと考えた方が自然だ。
靴底で芝生を掴み、前に進む。
扉までは遠くない。白亜宮の中は普段からここで仕事をする人間以外にとっては迷宮と同じ。
開きっぱなしの大扉を抜けて、申し訳程度に勢いを付けて後ろ手に扉を閉める。進む足は止めない。
追いかけてくる声が建物に響いて、それほど遠くない場所を彼らが追ってきているのを感じていた。
一番近いのは西側の出入り口だ。でもそこへの道を走っても多分追いつかれるだけだ。予想でしかないが、彼らもここにやってくるためにその道を通っただろうから、クイーズが覚えていなくとも護衛官は覚えているだろう。だったらそれ以外の出入り口を選ばないといけない。
薄暗い通路を駆ける。短い階段を数度あがる。廊下を曲がる。正面に窓。その手前をもう一度曲がる。窓の並んだ廊下の先には扉があって行き止まりになっている。足音は近い。
ルイスは簡単な仕掛けの鍵を開ける。
追いかけていた足音がとまった。
「行き止まりだな」
獲物を追い詰めた男は笑った。護衛官から剣を奪い取ると左手に持ち、躊躇いもなく振り抜いた。
ルイスが窓を開くのと同時だった。
剣はルイスの右肩を裂いて、窓にぶつかる。ガラスが大きく音を立てて割れた。散らばった無数の破片が降り注ぐ。肩に走った痛みの熱で、ルイスは宝石を取り落とした。だが、それに気をとられたクイーズから、少しの猶予をもぎ取った。
ルイスは窓枠に足をかけると、階下へと飛び降りた。
「まだ逃げるか!」
恨みを孕んだ声が追いかけてくる。
「邪魔をしやがって。許さないからな!」
声の場所が移動する気配はない。
多分彼らは気がついていない。窓から下は外だ。外灯はなく、植え込みと木で視界がふさがれる。しかし、地面まではそれほど遠くない。きちんと着地すれば、怪我を負うほどではない。ここから南側に移動すれば宿舎まではすぐだ。彼らはこの状況で飛び降りてくるだろうか。
ルイスは息を殺してその様子をうかがった。
「許さないぞ! ふざけるな! 僕が何のために!」
しばらくはそこで外の様子をうかがっていただろうか。しかし、人の気配は遠ざかっていった。建物内を移動してここにやってこようとしたら二十分はかかる。いらいらと踏み鳴らされる音が遠ざかるのを確認して、ルイスは詰めていた息を吐き出すと壁伝いに移動した。
(逃げないと)
男に宿った狂気を思い出して腕をさする。どうしてそこまで恨まれたのかはわからない。正気だったのか、そうでなかったのか判断はつかない。
しかし、これだけは言える。この場所にいたら遅かれ早かれ見つかってまた向かってくる。クイーズはただの文官でも父親には権力がある。そしてクイーズの持っている竜の庭へ入る許可証には父親のサインがあった。
彼らの手の届かないところまで逃げないと。そう思った。
いつも下げている小さな鞄をぎゅっと握る。走って走って、宿舎の部屋にたどり着いたが、安心はできない。思えば、まるでなにかに駆り立てられるように、逃げろという心の声に従ったルイスも、このときは正気ではなかったのかもしれない。
必要なものを古い小さな鞄に詰め込むと、官服の上に黒い上着を羽織る。部屋は鍵もかけなかった。薄暗い一人部屋は、闇に消えていく家主をひっそりと見送った。