竜と竜仕官2
竜にもらった〈竜の息吹〉はすぐに専用の部屋におさめに行く必要がある。
ルイスは〈竜の庭〉を出て一階を進む。同じフロアにあるけれど、その部屋は建物のもう少し奥にあった。建物の配置から言うと北側の方だ。竜仕官ではない他の職員と共有している南側は人の出入りも多いが、北側になると入れる人は限られてくる。
人の出入りが制限される場所には必ず警備兵が立っていて、その都度許可証を確認された。
それだけ厳重な人の出入りの管理が必要なのだ。
都市の根幹であり、大切なものをおさめているところ。
息吹の間。
そう呼ばれている場所だ。
腰で揺れている鍵は二本。一本は息吹の間の鍵、もう一本は宝石保管庫の鍵。いずれも見習いを卒業した竜仕官にしか配られない。現在の竜仕官は二十人程度。竜一匹に対して一人だからそれだけの竜がこの都市にやってきている事になる。
竜が多いほどその都市は発展し、大きくなる。
竜仕官は都市機能を持続させ、今以上に発展するために必要不可欠な職務なのだ。
とはいえそれだけの緊張感を常に持って仕事をしているというわけではなく、子供の頃から憧れた竜に関わる仕事ということで日々楽しく充実した時間を過ごさせてもらっている。
見習いを卒業してずっと夢のような生活が続いていた。
解錠して古い扉を開ける。扉のすぐ向こう側は小さな踊り場があるものの、五歩も歩けば階段がある。下に大人の身長分ほど降りれば、平面になるが、その床にはところどころ細い水路があるので気を付けなければならない。中の水は透明で、そこには割れた色とりどりのタイルが敷き詰められているのが見える。水路に足を取られてもせいぜい足首まで水没する程度の深さだ。
室内の真ん中まで進むとそこには大きな水盆が置かれている。中を覗くと浅い盆の底に雫型の石が沈められているのがわかるだろう。それが〈竜の息吹〉だ。
溢れた水は床の鉄格子を通り抜けてもっと下へと落ちていく。その先は水道局の役人が管理しているらしいが、ルイスは詳しいことを知る立場にはない。
新しくカルセドニーからもらった〈竜の息吹〉は室内の奥の壁に設けられた棚に保管される。
壁を覆う巨大な棚と、ずらりと並べられた息吹の結晶たちは圧巻だ。
天井のオレンジがかった光に照らされてゆらゆらと反射光が舞う。
人の世界を離れたような光景に初めて見たときは感嘆したものだ。
竜に関わる現実はいつだってルイスを虜にした。
いずれ水になって都市を潤す原石たち。都市の心臓みたいなそれを、慎重に籠から取り出して棚に置く。棚に空いた空白を埋めて、一歩離れると安堵の息をはき出した。
「後は活動報告書をまとめて、竜仕官長様に提出してそれから……」
〈息吹の間〉辞した後、宮殿の廊下を歩きながらまだある業務を指折り数える。
竜への対応だけではなく、竜の健康状態・今回得られた〈竜の息吹〉の詳細の報告が義務づけられている。それを報告書にまとめると、竜仕官をまとめる長に提出する。
カルセドニーがやってきたのは午前の二つめの鐘が鳴った頃で、それからすぐに向かったから、と情報を頭の中で整理していると、すぐ近くで人の声が聞こえた。
聞き覚えがあるその声に、なんとなく耳をすませることになる。
竜仕官以外の立ち入りが制限される北側から、南側に移動する途中、増改築を繰り返された建物はやや移動が不便で、建物内の部屋の配置を頭に入れて廊下を進んでも予期せぬ行き止まりや出入り口に遭遇することが多くある。
見習いの間は竜仕官になるための研修期間であると同時に、建物の内部を覚えるために歩き回る日々でもある。
外廊下を移動して、中二階に不自然に存在する中庭を通り過ぎようとしたときだった。
女性の声と歳を重ねた男性の声が聞こえてきたのだ。
片方は聞き覚えがある。学舎からの友人の声だ。
もう一人は誰だろう。
聞き耳を立てるのはなんとなくマナー違反だと思いながらも、ここを通らなければ目的の場所には行けない。
どうしよう。
躊躇しているうちに、話は進む。
ルイスは心の中で友人に謝りながら、廊下の影に身を潜ませて知らない振りを通すことにした。
低く抑えられた男の声は聞こえづらいが、なんとなく機嫌が良さそうではない。それに対して友人が意見を言っている。
昔から気が強く、自分の意見をはっきりという人間だった。芯の一本通った姿。まっすぐ伸びた背筋に強い光を宿した目は、人の心を動かした。
「壁外の事は放置なさるという事ですか?」
その声音には抑えきれない感情が現れている。
彼女はリリアナ。若手の文官で名を知らないものはいない。都市を形作った最初の五家の血筋で、彼女の父は前任の市長だった。
正義感の強い性格であり、善人。弱いものが虐げられている様は見過ごせない。彼女の父もそういう性格であったが、彼女よりは気性が柔らかだったかもしれない。
「その通りだ。あそこは我々が庇護すべき場所ではない」
すげない返答が返る。彼女と男の温度差は明確だ。やや沈黙が落ちる。
「わかりました。また報告書を提出させていただきます」
「好きにしろ」
男が去った気配。ちらりと見えた後ろ姿は、男の護衛官に重なって見えづらかったが、おそらくタルテアンの市長、トゥレ・イリュジオだろう。白髪が混ざり薄くなった金髪。高身長でヒョロリと長い。元は農業文官上がりのエリートだ。
リリアナとは叔父姪の関係であるけれど、イリュジオ家に婿入りしたトゥレとリリアナはそこまで親しい間柄ではないと聞いている。
一人になったリリアナはその場から踵を返すと、一階への階段を下っていった。
その後を一人の護衛官が追う。彼は廊下に隠れていたルイスの方をちらりと見ると、小さく頭を下げた。
「あー、気づかれてましたか」
いつからだろう。多分最初からだ。
隙のない護衛官に苦笑して、ルイスは目的地へ再び移動しはじめた。
昼の鐘が鳴ったのはそれからしばらくした後だ。一日の中時間に位置する鐘の音は軽快で高い音だ。
思い出したように空腹を訴える音が自分の体の中から響いた。
竜仕官の共同執務室は三人ほどが机を使っていて、他は出払っている。
この職に就いて初めて知ったが、竜仕官は竜と交流するだけが仕事ではない。中央区を出て他の区画に出張する事もあれば、中央区ではあっても他の文官と連携をとることもある。
見習いの方がむしろ竜仕官としての仕事はこの場所で完結しているし、担当する竜が来ている時の方が一日の移動が少ない。
まだ仕事を続けるという先輩を置いて部屋を出る。もう一人の同僚はそろそろ都市を去りそうだという担当竜を見送るために〈竜の庭〉に行くらしい。
「雨に気をつけろー」
「はい、ありがとうございます」
昼食は外で食べてもいいかなと思っていたところなので、計画を変える必要がある。
竜の去り際には雨が降る。
鱗は雨の雫で濡れて、昼間なら太陽の光が反射して言い得ぬ美しさを残していく。
竜はすべてが恵みだ。
ほんの少ない時間、空に架かる虹は竜の帰り道とも呼ばれた。
食堂は白亜宮東側にある。もう一つの大きな建物との間に位置し、文官同士の交流の場所になっていた。貴重品のみを入れている小さな肩掛け鞄をひっさげて、ルイスは空腹を伴いそこまでの道を急ぐ。
この時間なら食堂もそこまで混んでないはずだ。そう思って歩調を早めたところで、廊下の窓側に、人が立っているのを見つけた。
黒の文官服に金の髪。後ろに長身の護衛官を連れた彼女は、片手をひょいとあげると、微笑んだ。
リリアナ・エレクシオン。今日見かけるのは2回目だ。
「やあ、竜仕官殿は忙しいかな?」
軽く話しかけてくる声に応える。
「いいえ。お昼の休憩をとろうとしていたところですよ」
「それならちょうどいい。よければ昼食を一緒にどうだろう」
「いいですね。ちょうど私もお腹が空いたところだったんです」
軽口をかわしながら近寄った。護衛官が手に持つバスケットにはなにが入っているのだろう。用意された食事にわくわくしつつ、ルイスはリリアナをとっておきの場所へと促した。