竜と竜仕官
細い路地だ。暗くて湿っている。表通りの賑わいが耳に届いてはいるが、膜を一枚隔てた別世界のように感じられた。
レンガ造りの壁に背中を預けると、その冷たさを服越しの背中が感じ取る。
こんなところで一息入れている訳にはいかないのに、体は言うことを聞かなくて、これ以上動けそうにもなかった。
昨日の夜から怒濤のような出来事だった。
どうしてこうなってしまったんだろう。
熱と痛みに浮かされる頭で考える。考えなんかまとまらなくて、起ってしまったことがまるで泡のように浮かんでは消えていく。集中はいっこうにやってこず、眠気すら感じてきた。今まで主張していた肩の灼熱も段々と感じなくなってくる。
怪我をしていない左腕で、胸元のお守りを強く握る。たとえここで意識を失ってしまったとしても、これだけは手放してはならないと思った。
その感触を確かめて、ほっと息をつく。状況的には全く安心していられないのに、考えるのは自分以外の事だった。
あの子は無事だろうか。あの場所はどうなったんだろう。あの宝石は。
解決策もなにもなく、こうして飛び出してきてしまった自分が酷く愚かに思えて、恐怖が背中から這い寄ってくるようだった。
寒い。
投げ出した足を引き寄せて、鞄と一緒に腕に抱えた。
でもそれが、自分にできる今の限界だった。
表通りからは人の足音がたくさん聞こえる。規則正しく石畳を打って、少しとまって、もう一回歩き出して。
なくなりかけている意識の端に、大きくなる足音を捕らえたけれど、どうすることもできずに闇の中に沈んでいった。
もう一度こう考えながら。
どうしてこうなってしまったんだろう、と。
思考の海に落ちていく意識は、もう人の声を拾わなかった。
*
都市タルテアンには長く低い音の鐘が鳴り響いていた。コロンカランと反響する音に、浮き足だった気分が、ルイスの足を急かす。
街で響く時報よりも低い音。この音は竜の訪いの合図だ。
上空高く飛んできた竜が〈竜の庭〉へと舞い降りた合図なのだ。鐘がなって上空を確認したルイスは、見習いが呼びにくるのも待ちきれずに、こうして廊下を小走りに急いでいる。
街壁に囲まれた大きな都市タルテアン中央区、そのさらに中心にはその発展の中心たる大きな宮殿が建つ。
二百年ほど前に建てられた白亜の宮殿は、時折改装と増築を繰り返しながらその偉観を保っていた。北側には大きな塔、円型に連なった建物。その真ん中にはもう一つ豪邸が入りそうなほど大きな庭。ぐるりと四階建ての建物に囲まれた庭は入り口がひとつしかなく、一階にしかないこともあってルイスは階段を駆け下りる。
途中で先輩や後輩とすれ違い、行動を嗜める視線を向けられながらも、内心すみませんと思いつつ、はやる気持ちを抑えられなかった。
気分は浮き足立っている。
竜に会う時はいつもそうだ。彼らの叡智をたたえた瞳、光を反射してさざ波立つ鱗、そのひとつひとつが無類の喜びを湧き立たせるのである。
左手に抱えた籠を抱き直して、庭の入り口に立つ。背筋を正しながら立ち入りの許可証を警備兵に見せた。
「竜仕官のルイス・レイガートです」
「確認しました。どうぞお入りください」
「ありがとうございます」
白い官服の襟を正す。ようやく着慣れた竜仕官の制服。
大きく開かれた両開きの扉を通り抜けて巨大な空間に一歩踏み出す。
〈竜の庭〉。巨大な都市の中心に位置し、大きな建物の内側に隠されるように存在する庭。ここには竜がやってくる。ルイスはここに出入りすることを許された〈竜仕官〉の一人だった。
庭の中程には、ルイスを待つ竜が休んでいた。
庭に生い茂っている芝を踏みしめる。待っている彼らは音で自分の竜仕官を判断する。他の竜が三体ほど休んでいたが、彼らが反応する事はなく、中央の一匹だけがその長い首をもたげた。白くまろい鱗に、瞳は薄水色。細長い瞳孔がこちらを見据えている。
体躯は他の竜に比べて小柄で、二回りほどは小さいだろうか。
それでも立ち上がって首を伸ばせばルイスを二人積み重ねて同じくらいだ。
この都市に来るようになって三年になるルイスの相棒の竜だった。
「お久しぶりですね。カルセドニー」
挨拶の代わりに手を伸ばすと、そこに鼻先があたった。親しい友人のように挨拶を返してくれる。
彼らが人間に分かる言葉で話してくれることはないが、それでも友情のようなものは間に必ずあると、ルイスは思っていた。水滴を垂らしたように、瞳の色が変化する。まるで水をはった盆を覗き込んだようだ。
カルセドニーという名前は初対面のときルイスがつけた。
見習いから一人前の竜仕官に上がろうかという頃に新しく都市にやってきた竜で、見習いはその竜との相性を見られることになる。
初めて竜の近くに寄って、自分の名前を名乗るのである。
憧れの竜を前に緊張で声は小さくなるし、手足は強ばるし、今考えてもいい格好ではなかったが、好奇心旺盛なその瞳がルイスを覗き込んで、よろしくというように一声鳴いて瞬きしたその瞬間、望外の喜びが体中を駆け巡ったのを覚えている。
名を呼ばれたカルセドニーは、くるくると喉を鳴らし、ルイスの肩を鼻で押すと、左手で抱えている籠の中を覗き込む。籠の中に入っているのは竜への捧げ物だ。
竜は宝石を求める。
竜仕官の起源は数百年前に遡ると言われている。当時竜は人とは生息域が離れていて、特に関わりもなかったが、竜は水を守る使者で、彼らがこの世に恵みをもたらし、大地に潤いと豊穣をもたらしてくれると信じられていた。
そんな中世界はとてつもない水不足に陥る。
人は水を求め、竜を探すが、彼らは人に興味を抱かなかった。
それを打開したと伝わっているのが、英雄となった男。
竜は彼に興味を持ち、彼が差し出すものを受け取った。それが彼が一等大事にしていた宝石で、竜はそれに感銘を受けると彼を認識するばかりか、彼を友として接し、水を生み出す〈竜の息吹〉を渡したという。
この話は小さな子供が読めるような童話にもなり、竜と英雄の話として今まで伝えられている。ルイスはこの物語が幼い頃から大好きだった。
人が宝石を差し出し、それを対価に竜は〈竜の息吹〉を人へともたらす。
籠の中から宝石をとりだして、カルセドニーの前に差し出すと、竜はそれをぱくりと口に入れる。
栄養を貰ったように白金の鱗の表面が光を帯びて、カルセドニーが胴震いをする。満足したように目を細めた仕草が、まるでおいしいものを食べたときの人間のようだ。
カルセドニーはたたんでいた前足を伸ばすと、高くなった頭をもう一つ下げて、ルイスの目を見た。
その仕草に誘われるように籠を置いて、両の手を捧げる。カルセドニーはゆっくりと吐息をはいた。それは徐々に曇り水晶のような雫型の石に変化していく。
竜の息吹。竜の生命を閉じ込めたそれは、見た目に反して少しあたたかい。
「ありがとうございます」
ルイスの感謝の言葉に、カルセドニーは喉を鳴らした。いいよと言わんばかりである。
大切な竜からのもらい物をクッションの引かれた籠の中に寝かせると、代わりにブラシを取り出す。
それをみたカルセドニーはさっきよりも目を輝かせた。カルセドニーとルイスの交流は数年に及ぶが、彼はブラッシングが一等好きなのである。使い込まれたブラシは、柔らかい素材でできている。固い毛でもその強靱な鱗が傷つくことはそうないが、カルセドニーはこの硬さが一番好みだ。
まずは鼻の上。額。それから首におりる。鱗の流れに沿って肩の方にまでこすっていく。カルセドニーは会う度に少しずつ成長していて、力も強くなっている。もう少し大きくなるとこのブラッシングが大変になるかもしれないとルイスは笑った。
そうすると、なんだよと抗議するように背中を小突かれる。耐えきれない笑いがこみ上げてきた。
くすくすと笑いながら背中、柔らかな皮膜、尻尾をなでる。先ほどまで服の端っこで遊んでいたカルセドニーは、もう少しというように首筋を押しつけてきた。力が強くて上半身が押される。先ほどから全身運動で汗がでてきたが、ルイスはこのふれあいに満足していた。
表情豊かな竜を見ているとそれだけで胸がいっぱいになる。
もっと撫でてほしい、構ってほしいと擦り寄ってくるのはどうしようもなく愛しくて、温かで愛嬌のある存在が竜仕官となったルイスの心をかたときも掴んで離さなかった。
小一時間ほど要求に付き合い、同時にカルセドニーの体を観察し、業務記録のために健康状態を確認する。
傷もないし怪我もない。今日も相棒は万全だ。
首を軽く叩くと満足したカルセドニーは身を離した。
今日はもう休むらしい。満足して休憩するとばかりに背を向けた竜が、庭の隅の木陰を求めて歩き出したので、手を振って見送った。
さて、この後も他の仕事がある。庭の隅で丸くなったのをみて、ルイスもまたその場所を離れた。