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少女は雲を洗う

作者: 瀬嵐しるん

真っ青な空にぽかりぽかりと浮かぶ雲。


その雲を縫うように、地上で死んだ人間の魂が空を昇る。


このまま雲の間を抜け、どこまでも飛び続けるのだろうかと思う頃、唐突に四角い穴が現れる。

ただ上昇気流に乗ったように流されて来た魂は、その穴を通って真っ白な床の上に降りたつ。


「お疲れ様。お前の望みは何だい?」


気付けば目の前に金髪碧眼の麗しい男が立ち、魂に問いかける。


『あなたは誰?』と訊ねる者はない。

この状況で彼が神以外、誰だと言うのか。


「もう一度、地面を思い切り走りたい」


若い時は敏捷さで鳴らした男は、戦場に行き足を傷めた。

それからは晩年まで、ゆっくりとしか歩けずに何度ももどかしく思ったのだ。


「そうか。では、次の人生は伝令にでもなるか?」


「人でなくてもいいなら、馬になってみたい」


「おや、いいね。思い切り走れるだろう。

では、お前は駿馬に生まれ変わるがいい」


神に命じられた魂は、再び地上に降りていく。


近づいてくるのは厩舎だ。


大きな厩舎。これは軍部のものだな。

ああ、俺は一介の兵士に過ぎなかったけれど、次は将軍の愛馬を目指そうか。

男の心が希望に満ちた。

その途端、魂は前世を忘れ、仔馬として母の腹に宿る。



「お馬になりたい人もいるんですね」


少女が神に話しかけた。


「そうみたいだね。前には猫が好きすぎて、猫になった魂もいたよ」


「まあ、猫ちゃん」


それはちょっと素敵かも、と少女は考える。


「さて、しばらく誰も昇ってこなそうだ。一休みしよう」


神がそう言っただけで、テーブルと椅子が現れた。

湯気の立つティーポットとカップ、そしてビスケットの載った皿も。


少女はお茶を注いで神の前に差し出した。


「おつかれさまです」


「ありがとう」


神は飲み食いしなくても困らない。

でも、少女がここに来てから、お茶の時間を持つようになった。


「あれ? どうして、お茶するようになったんだっけ?」


「ビスケットが美味しかったから、です」


「そう、そうだそうだ。美味しいビスケットが焼けたんだった」




この世界が出来た時に、神は人間の魂を生まれ変わらせる役目を負った。


肉体を離れた魂は、青い空に昇って行き、ここにたどり着く。

雲の隙間をすり抜けるうちに、辛さや悲しみを少しずつ和らげながら。

神の前に来た時、たった一つの望みを言えるように。



いろいろな望みを聞いて来た。

叶いそうなもの、叶わなそうなもの。

もし叶わなくても、また次がある。

強い強い望みなら、魂はそれを忘れない。



ある日、老婆として亡くなった魂がやって来た。


「お前の望みは何だい?」


「シーツを真っ白に洗い上げたい」


それを近くにいた雲が聞いていた。

雲はぎゅうっと縮まり、平べったくなり、一枚のシーツの姿になった。

白いけれど、ところどころ灰色に汚れたシーツ。


「おやおや、雲がお前に洗って欲しいようだ」


神がそう言うと、魂は少女の姿になった。

空の青色をしたワンピースに真っ白なエプロンが良く似合う。


白い床に浅い洗い場が出来、そこに雲のシーツがすすすと入って行く。


「雲を踏んでもいいのでしょうか?」


「雲は踏まれたいようだよ」


少女が素足で雲をそっと踏む。踏む踏む踏む。

シーツはくすぐったそうに踏まれている。


しばらく踏むと、灰色の汚れは塊になって洗い場から放り出された。


「なるほど、魂の辛さや悲しみを吸い込むから、汚れたんだな」


このまま放っておけば、空は灰色の雲ばかりになっていたかもしれない。


少女は洗い場から出ると、シーツを両手で持ち上げた。


シーツはひらりと軽やかに翻る。


「手を放してごらん」


するとシーツはふわりふわりと空に舞い上がり、やがて真っ白な雲になる。


それを見ていた雲たちが、我も我もとシーツになろうとする。


「一日十枚まで、だ!」


神が雲たちに命じた。

みんなみんながシーツになれば、辛さや悲しみを持ったまま魂がここに来てしまう。


「お前はここで雲を洗濯するということで、本当にいいか?」


「はい」


少女は優しく微笑んだ。



一日十枚でも、灰色の汚れはどんどん溜まって行った。

これをどうしたものか?

神は試しに、ピリピリと弱い雷を通してみた。


すると灰色の塊は、いろんな形のビスケットに焼き上がった。


ものはついでと食べてみた。

いろんな人生の、いろんな味がする。

総じて美味い。


「お前も食べてごらん」


少女もビスケットを口にする。


「まあ、美味しい」


少し苦かったり、少し辛かったり。

甘いのは少ないけれど、花の香りがしたり、陽だまりの香りがしたり。


「お茶が欲しいですね」


「お茶か、どんなものだ?」


飲み食いの必要がない神は、お茶のことがわからない。

少女の話を聞いて、少しずつお茶の支度が出来上がっていった。



お茶の時間は会話の時間。

少女は自分の人生を振り返る。


「私の若い時に大きな戦争があって、若者は皆駆り出されました。

男の人は兵隊に、女の人はその支援に」


ほんの短い時間、兵隊の訓練を受ける若者たち。

少女はそこで洗濯係として働いた。


「だんだん戦況が悪くなり、物資も無くなって。

シーツを洗う水も汚くて、石鹸も足りなくて」


厳しい訓練で兵士はくたくた。

せめて一晩、真っ白なシーツでぐっすり寝かせてあげたい。

毎日毎日、そう想いながら洗濯をした。


戦争が終わり、生活は少しずつ良くなった。

でも、戦争から帰れなかった兵士は多い。


「祈っても想っても、どうしようもないことですけど、忘れたことはありません」


「人間は、自分以外の者のためにも後悔するのだな」



神は、とある将軍を思い出す。

戦争の責任を取って、終結後に処刑された男だ。


『儂は、若い兵士に腹いっぱい食わせてやりたかったよ』


将軍は酒場の親父に生まれ変わった。

毎晩、大鍋を振るって、安くて旨いものを皆に食べさせていることだろう。




長い長い時間を二人で過ごした後、ある日、神は少女に言った。


「お前を雲の洗濯係にしてしまったが、生まれ変わりたくはないか?」


「いえ、私は、雲のお洗濯が好きなので」


「そうか。では、他に望みは?」


「戦争のせいで行き遅れ、生涯独身でした。

お嫁さんになってみたかったです」


少女はふわりと笑った。


「そうか、わかった」


神が空を見上げると、さっき洗われたばかりの雲が降りてきた。

少女を取り巻いて軽やかなレースのウェディングドレスになる。

長いベールが風にたなびいた。


「花婿は、私で良いか?」


神が訊ねる。

少女はハッとして、それから頬を染めて頷いた。


「これからもずっと、ここにいてくれ。

きっと寂しくて、もう一人ではいられない」


「はい、ずっとお側にいます」


近くにいた雲は踊るように祝い、遠くにいた雲は昇って来る魂をそっと包んで、しばらくの間足留めした。


二人は向かい合い、両の手を繋ぐ。

花婿である神が、花嫁である少女の額に口付けた。

それが、彼等の結婚式のすべてだ。



それからも神は魂を次の人生へと導き、少女は雲を洗う。


そして毎日、ビスケットでお茶をして、二人で魂たちの望みが叶うようにそっと祈った。




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― 新着の感想 ―
[良い点] あ〜とうとう全作品読んでしまった!どれも本当に優しくて素敵なお話ばかりでした。良作、っていうんですかね。読んだら少し優しい気持ちになれるお話ばかり。どんな気分のときでも安心して読めて、ちょ…
[一言] > 男の心が希望に満ちた。 もうこの導入のひと文だけでスマホの画面が滲んじまって…年ッスかねぇ……。 この短い一話で、神話、童話、歴史、神の嫁取り異種婚姻譚とさまざまなお話の一端が垣間見え…
[一言] ふわっと心が軽くなるようなお話、ありがとうございます。 この年になると辛かったことも苦しかったことも多すぎて覚えている方が辛くて、忘れるようになりましたが、魂のどこかにこびりついているのか…
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