第百四十七話 人を変える力(9/9)
「恵人」
「!はい……」
「そんなとこで突っ立ってると母さんの邪魔になるぞ。座れ」
「う……うん」
いつも通り黙々と夕飯の準備をするお母さん。お父さんも黙ったままで、おれも次の言葉を待つ。
「恵人」
「はい」
「よくやったな」
「え……?」
むざむざチームを負けさせたおれか、回の途中で降ろされたおれを責める言葉を覚悟してたのに、意外な一言。
「あの大舞台で途中までパーフェクト。失点の内容も不運が重なった結果。内容に関しては誰も何も文句は言えまい」
「……どうしたの、お父さん?」
思わず聞いてしまった。
「去年の今頃のこと、覚えてるか?お前がプロで初めて勝った試合の日」
「あ……」
朱美がお父さんに文句を言ったアレ……
「考えてみればそうだった。恵人、お前はもうとっくに俺よりもずっと良い投手になった。俺が今更アレコレ言う資格なんてない。むしろお前が俺よりも良い投手になれたからこそ、最近考えることがある。『恵人はもっと良い投手になれてたんじゃないか』ってな」
「…………」
「お前を左利きに矯正させたのも、単純に今の時代は左打ちが多いというのだけじゃなく、野手でも歴代で最高のスラッガーは日本もアメリカも左投げ左打ちだから。仮に野手をやらざるを得なくなったとしても、野球でトップを目指すならそれが一番可能性があると思ったからだ。だが、お前のさらに上をいく風刃は右。むしろ今となっては、生まれながらの右のままの方がもっと上を目指せたんじゃないかと思うようになった」
「……別に左だからって、こんな早くから風刃さんに勝つことを諦めたりしないよ」
「わかってる。あくまで可能性の話だ。『俺がやってきたことは、むしろ恵人の可能性を潰したんじゃないか』ってな」
「そんなの、そうならなかったから正解か間違いかなんてわからないよ」
「だが、俺が勝手を通してきたことは確かだ。俺が潰れなかったifをお前にやらせようとしたことも。それに、俺も親であるだけでなく1人の男で、1人の投手だ。自分勝手な話だが、たとえ実の息子でも、俺と違って無事にプロになれて、俺の上を行かれることに悔しさがなかったわけじゃない。プロになってからもお前の粗を指摘し続けてきたのは、そんな俺のちっぽけなプライドを満たすためだったのかもしれない。俺自身はそんなつもりじゃなかったとしても、俺は『期待』というものをとことん履き違えてた。お前のチームメイトにキツいこと言われて、ようやく自覚できた。そういう意味でもお前には申し訳ないと思ってる。すまない……」
……根っこの部分は頑固なままだよね。何がなんでも俺に謝りたがってると言うか……
「それでも、お父さんのおかげでプロになれたんだから、別に恨んだりなんかしてないよ」
「……そうか。ありがとう」
「お待たせ」
きっとこの話を聞いてたはずのお母さん。何事もなかったかのように、山盛りのお茶碗をおれに渡す。
「いただきます」
「ところで、彼女は……宇井は今日欠場だったが、何かあったのか?」
「いや、単に左が先発だったからだよ。真木さんのまっすぐモロにぶつけられても平気な奴なんだから、そんな簡単に怪我とかしないよ」
「そうか……なら良かった。もし機会があったら、彼女にもあの時の非礼を詫びたい」
「おれから言っとくよ」
「お父さんにそれくらいガツンと言える子なら、お嫁さんとして来てくれると良いわねぇ」
「ぶっっっ!!!」
突然爆弾を投げてきたお母さん。何言ってんだよ……
「今日観に行って、宇井ちゃんって子のポスターも見たけど、なかなか可愛いじゃない。しかも恵人と同い年なんでしょ?あんな子がウチに来てくれたら嬉しいわぁ」
「…………」
宇井の話題を出したお父さんが味噌汁を啜りながら申し訳なさそうな表情をして、空いた右手で『すまない』ってジェスチャー。まったく、とんだ藪蛇だよ。おかげで今日の試合前のことまで思い出しちゃって……
お父さんがおれをお父さんのifにしたのは野球がお父さんを変えたからだけど、そんなお父さんをこんなふうに変えたのも野球。
別にお父さんに限った話じゃない。野球は大きなお金を動かすから、時には企業だけじゃなく政治家だって動くし、賭博だったり犯罪に関わってしまうこともある。野球はとことん人を変えてしまう。良くも悪くも。




