第百二十五話 これも1つの戦い(2/8)
******視点:月出里勝******
6月14日月曜日。深谷市内の半導体製造工場。俺の長らくの勤め先。
今週も5日間のお勤め。6月はどうしても気が重い。雨が降りやすくて通勤が億劫ってのもあるけど、祝日がないのはな。ガキの頃から勉強嫌いだったからこそ、そのことは昔から知ってる。
それでも、丸一日屋根のあるところで働けるのはまだ恵まれてる方。身体を動かす仕事で身体をまともに動かせなくなった俺だから、ネットワーク関係のことはとにかく必死こいて勉強した。その甲斐があったというもの。
「……ん?」
仕事部屋に入ると、サービスデスクの方が何やら重苦しい雰囲気。
サービスデスクは半日勤務のシフト制で、2人組ずつで交代する体制。どの時間帯にもある程度の経験者が必ず入るようにしてて、平日はそこに主任も通常の勤務時間帯に入る。そしてもうすぐ向こうも日中組とシフト交代って時間帯。いつもは定時の業務を終えて歓談してる頃なんだが……
「はぁ……」
「…………」
黒田さんが溜息を吐いて、スルメを噛みながら脚を組み、マウスとキーボードの間で手を往復させる。隣には気まずそうに目を伏せる山内さん。
黒田さんは人の入れ替わりが割と多いサービスデスクの中では比較的勤務歴が長い。部署は違うが、かなり仕事のできる人だというのはわかる。そして山内さんは塩津さんと大体同じ頃くらいにここに来たから、まだ1年弱ってところ。
そして黒田さんは、身体が縦にも横にも大きい。脂肪分がほとんどだが。そして少し浅黒い肌で、表情も険しめ。俺が言うのも何だが、デスクワーカーにしては随分威圧感のある見た目。それに対して山内さんは細身で眼鏡をかけた色白な人。どちらも20代の男ながら、見た目でも力関係がよく現れてる。
「あ……」
電話が鳴って、ようやく山内さんは顔を上げて恐る恐る手を伸ばしたが、その前に黒田さんが奪うように受話器を素早く取った。電話は2人組の真ん中に置いていて、基本的に経験の浅い方が取るものだが……
「はい。あ、はい。いやぁほんと申し訳ございませんでした。こちらでも対応を続けますのでもうしばらくお待ち下さい。はい。それじゃあ失礼します」
電話応対を終えると仏頂面に戻る黒田さん。狭い仕事部屋だから、自分の仕事をしながらでも向こうの様子は何となくわかる。どうも夜中の時間帯に何かあったみたいだな。
「おはよう」
「おはようございます」
「おはようございます」
「うっす」
「…………」
シフト交代が近づいた頃。サービスデスクの主任、そしてリーダーの田中さんと、塩津さんも入室。メンバーが挨拶し合う中で、山内さんはただ頭を下げて最低限の返しのみ。
「そんじゃ、引き継ぎ始めますが……今ちょっと製造の方がトラブってるんで、自分がちょっと残ります」
脚を組んだまま不機嫌そうに引き継ぎを始める黒田さん。残業を申し出たのは黒田さんの方だが、さっきまでの様子を見る限り、おそらくその原因になったのは……
「何があったん?」
「えっと、製造の方で工程が洗浄のとこで止まって山内さんが対応したんですが、別の過去事例持ってきたみたいで。まぁ多分もうちょっとで復旧……」
「……ううっ……」
「「「!!!」」」
黒田さんの説明の途中で、山内さんが嗚咽を漏らす。
「だ、大丈夫ですか……?」
「ちょ、ちょっと部屋出ようか……」
心配したのは隣にいた塩津さんだけではなく、俺と同じく聞き耳を立ててた部長も。山内さんは部長と一緒に一旦退室。
「……はー!ほんと雑魚っすよ。単にミスっただけならまだ取り返しがつくのに、勝手に自分の判断で『すぐに復旧できます』とか現場に返答して。おかげで向こうもカンカンっすよ。泣きたいのはこっちだっつーの。この1年何してきたんだか。マジ死んでくださいって感じっすわ」
「「「ははは……」」」
黒田さんの愚痴を、田中さん達は乾いた笑いでやり過ごす。
サービスデスクは基本的に定時の業務を除けば、何かしらのトラブルがない限りは基本手すき。長い勤務時間を鑑みて、眠気覚ましのために間食したり、多少の雑談や、資格の勉強なんかもある程度黙認されてる。
その中で黒田さんの愚痴……というか、その時間帯に入ってない誰かへの批判は日常茶飯事。声もでかいからこっちにもよく聞こえる。この仕事部屋で一番偉い部長も寛容で気の良いおっちゃんだし、主任も黒田さんほど酷いことは言わないものの割と同類だし、田中さんもそういうところでは我関せず。正直、抑止力がない状態。
ぶっちゃけ山内さんに対するこういう発言も初めてじゃないし、山内さんも自分自身への批判を直接聞いたことがないとしても、普段の黒田さんの言動を見ていれば、おそらく自分も陰でそういうことを言われてるであろうことは察してたはず。山内さんがずっと萎縮してたのも、多分そういうこと。
……ま、黒田さんの気持ちもわからなくもないがな。他人に対して自分の尺度で何かを言いたくなるのはきっと誰だって同じ。山内さんに非があるのも事実だしな。
俺もそうだ。俺の前職は格闘家。勝つための身体作りや食事管理は人一倍気を遣ってた。そういう経歴だから、どうしても黒田さんのように贅肉だらけの人間には怠惰というか、自分に甘いという印象が拭えない。『病気だから』とか、そういうのっぴきならない事情ももちろんあり得るだろうが、それでも『そんな身体でよく他人に色々言えるな』という言葉が何度も喉から出かかった。
それでも、黒田さんのような人間に色々言われようと、波風立てずにやり過ごしつつ自分の役割を全うするのも大人の務め。そこまでできてようやく給料をもらえるのが世の中の仕組み。
サービスデスクとしても、シフトを回すためには経験者を減らせない。擁護をするわけじゃないが、黒田さんの存在は全体にとって救いになってる部分もあるはず。そのことに各で折り合いをつけるのも、きっと仕事の一部。どうしても嫌なら黒田さんの穴を埋め合わせられるだけのスキルアップを目指すなりするしかない。
今の時代に人間が生きる上では、これも1つの戦い。
前の仕事は身体が痛かったが、今の仕事はひたすら心が痛い。
俺は今でも殴り合いになればこの場にいる全員が相手でも勝てる自信があるが、そんなのは今では多少の嫌なことを流すための心の余裕を作るくらいでしか役に立たない。そしてこの年齢で今くらいのスキルじゃ、これ以上の昇給ってのもなかなかできないだろうし、そもそも不景気なせいでここを辞めるだけでも相当な覚悟が要る。今の俺にはおそらくこの立場が精一杯。逢みたいに野球とかそういうスポーツをやってたら、きっと別の道もあったんだろうな。
「月出里さん。ちょっとファイヤーウォールの設定を変えたいんですが……」
「あ、はい」
……それでも、自分が辿った道を否定することなんてできねぇよな。格闘家をやってなければ牡丹にも出逢えなかったし、逢も純も結も生まれなかった。
だから俺は、今日もこの場所にしがみつく。『俺は間違わなかった』と俺に言い続ける。
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