第百二十二話 揺らぎ(6/6)
******視点:金剛丁一******
8回の攻防。点はいまだに1-0のまま。
「ストライク!バッターアウト!」
「三振!最後はスライダー!」
(むぅ……ストレートと同じ軌道から……)
「これでスリーアウトチェンジ!早乙女、2奪三振、三者凡退の見事なリリーフで8回を凌ぎました!」
「よっしゃ!ええでギャル子!」
「制球戻ってきてるやんけ!」
(『先発で』っていう以前に、まずは勝ちパターンとして信頼を取り戻さなきゃねぇ。今のとこ固定なのは雨田とイェーガーだけだし)
今年は本当に後ろが心強い。ビハインドでも早乙女を出せるくらい、リリーフの枚数には余裕がある。春先に貧打でも最低限勝ててたのは、先発もリリーフも揃って仕事をしてたから。
「8回の裏、バニーズの攻撃。1番セカンド、徳田。背番号36」
この状況で1番から。しかも向こうは無失点なのを良いことに先発の椎葉をまだ引っ張ってる。打線としては1点差くらいさっさとひっくり返して然るべきだが……
「ボール!フォアボール!」
「ショート正面!」
「アウト!」
「一塁はセーフ!」
「アウト!」
「アウト!」
「ああっ、一塁ランナー戻れません……スリーアウトチェンジ!」
「「「「「ほげえええええ!!!!!」」」」」
「ここで三凡……」
「やべぇよ……やべぇよ……」
「最高じゃ椎葉!」
「完封あるぞ!最後まで気張ってけ!」
苦々しい表情でベンチに戻ってくるリリィと十握。
どちらも今日は打席での立ち回りが冷静で、ヒットも打ってる。なのにこの場面でゲッツー崩れにファーストライナーでのゲッツー。連勝中であるが故に久々に味わう『終盤ビハインドのプレッシャー』。それもまた一種の『揺らぎ』。リリィも十握も単純な実力は十分だが、それでもまだ若い。『4番』という『揺らぎ』に振り回されてる月出里もな。
物理的な話ではなく、あくまで精神的な話だが、バッターというものはほとんどの打席で、何かしらの『揺らぎ』の上に立ってスイングをしてる。不動の大地の上でスイングしてるように見えて、実は不規則に波打つ海面に浮かぶイカダの上でスイングしてるようなもの。どれだけ練習で素振りをして、身体の動きを細かく制御できるようになったとしても、いざ試合となればバッティングを狂わせる計算外の要素……『揺らぎ』はいくらでも生じる。『単純な調子の良し悪し』とか、『4番という立場』とか、『終盤ビハインドのプレッシャー』とかな。だからミスショットなんていくらでも生まれうる。打者だけではなくきっと投手にも同じようなことが言えるだろう。
近年は加齢による身体能力の衰えがもたらすマイナス要素の周知とか統計的な要素とかそういうので、いわゆる『ベテランの力』と呼ばれるものが軽視されがちだが、俺は『ベテランの力』というのは、『揺らぎを乗り越えるための力』だと捉えてる。過去の経験から現時点での『揺らぎ』がどれほどのものかをより正確に認識した上でスイングを微調整して、なるべく望み通りの結果を出せるようにする。あるいは『揺らぎ』そのものを無視できるだけの胆力か。そういうものだと考えてる。
伊達さんはキャッチャーという立場だからか、あるいはアマチュア時代からの4番の慣れからか、『プロの4番』というものの『揺らぎ』がどれほどのものなのかイマイチピンときてないような印象だが、好調なはずの月出里が今日三度もチャンスを不意にしたのは、俺にとっては想定内。月出里にとって『4番』という立場が『名誉』か『重圧』かに関係なく、『特別なもの』であることに変わりはない。『プロの4番』の経験がない以上、『揺らぎ』に振り回されるのは当然。
……まぁよくよく考えたら、『調子の良し悪し』とかどうしようもないものはともかく、『4番という立場』をわざわざ特別視して、バッティングでの計算外の要素を自ら増やすのも変な話だな。もちろん、『4番という立場』は『揺らぎ』だけではなく『自信』とかそういうプラスの要素も生んでるとは思うが、日本の野球にある『4番は特別』という感覚が計算外の要素を生み出してることに変わりない。日本というのは基本的に計画性や継続性、安全性を重視して、例外や想定外を嫌う性質のはずなのにな。
ただ、日本は世界で2番目の野球大国でもある。国際試合に限って言えば最優秀まである。そんな成功者が『4番は特別』と言えば、それは1つの正解だと認めざるを得ない。ジェネラルズがスモールベースボールでV9をやったから、統計的にいくら犠打が非効率と言われようとも日本の野球で犠打を重視する層が今でも絶えないのと全く同じこと。大きな成功によって築き上げられた大きな正解……つまり共通認識や常識というのは、大木の根のように多くの人間に根付くから、よほど長い年月をかけない限り覆ることはない。成功ほど確かな根拠は他にないのだからな。
もちろん、個人個人の感覚と一般的な感覚は別なもの。今時のメジャーかぶれのように、『4番』を『単に4番目の打者』と考えればそれで済むようにも思える。だが、人間は中途半端に賢い。『他人がどう思うのか』というのまでつい考えてしまう。日本で野球をやる以上は、『4番』という『揺らぎ』を完全に乗り越えるのは至難の業。打線の中で必ず誰か1人は背負わなければならない業。
だから俺は、今日の失敗続きの月出里を責めるつもりはない。いつかしなければならない失敗を今日ここでやってる。ただそれだけのことなのだからな。
仮に月出里が今後4番に定着しなかったとしても、今日の経験は無駄にはなるまい。『4番』という経験そのものが生かせなくても、今まで知らなかった『揺らぎ』を知ることは立派な経験になるはず。無限に成長し続けてるかのような月出里なら、きっとそれも糧にして、俺達に更なる勝利をもたらしてくれるはず。