第百一話 影はいつまでも落ち続ける(1/5)
******視点:???******
8月7日、埼玉県深谷市のとあるアパート。スマホの二度目のアラームで目を覚ます。
「おはよう、逢」
一人暮らしなのと寝ぼけてるのを良いことに、スマホの壁紙の美女に挨拶。世間で言われてる"ちょうちょ"じゃなく下の名前で呼ぶのは、特別な間柄でありたいという願望がむき出しになってるからだと自覚してる。
シャワーを浴びてから徒歩1分圏内のコンビニへ。
滋賀から埼玉に来て一ヶ月ほど。引越しと新生活を始める手間も考えて早めの移住。大手の派遣会社だから待機期間でも正社員扱いで最低限の賃金は出るし、今住んでる部屋も会社の借上で家賃は半分会社持ち。けど、やっぱり職務手当なしだと心許なかった。
おかげで貯金に響いたけど、代わりにオリンピックの野球はフルで観ることができた。そして、月出里逢という未来の大スターを知ることができた。
「868円になります」
「あ、■■payで……」
朝からいつもより少し散財して英気を養う。今日から新しいとこに勤め始めるから。深谷市はネギが有名らしいけど、業務内容はネギ畑の世話とかそういうアナログなものじゃない……はず。
とりあえずで買ってずっと使ってる安いスーツに着替えて、スマホの壁紙を見つめる。
「行ってくるよ、逢」
またしても我ながら気持ち悪いことして気持ちを切り替えてから、徒歩圏内の新しい派遣先へ。
「おはようございます」
「お名前は?」
「塩津です。■■■■の塩津晃です」
「……はい、どうぞ」
派遣元の社名とフルネームを名乗って、出入口の守衛からゲストカードを受け取って中に入る。新しい派遣先は工場。ただ、工場とは言っても、でかい敷地内にオフィスっぽい建物もあって、他に出入りするおっちゃんを見ても、同じようにスーツを着てる人も結構いる。
「……あ。お忙しいところ失礼します。私、本日からお世話になります塩津と申します」
指定された建物の前で、指定された番号へ電話。相手は派遣先の部署の責任者的な人。
「お待たせしました。私、山本と申します」
「塩津です。よろしくお願いします」
「それではこちらへどうぞ」
しばらく待ってると、建物の中から責任者さんが出てきて、案内されるままに中へ。指定の上履きに履き替えて、更衣室の前へ。
「お着替えはこちらで」
「ありがとうございます」
着替えと言っても、制服は上着だけの作業着。スーツの上を脱いでそのまま着るだけ。今日は初日だからスーツで出勤してきたけど、普段は下にジーパンとか短パンとかでもない限りは私服通勤でOKらしい。
とは言え、やっぱり制服を着る仕事はどうにも好きになれない。俺としてはいつか在宅で働けるようになりたい。こういうのを着てると、どうしても『働くために生きてる』というのを実感して、窮屈さを覚える。
……ま、室内でパソコン使って働くのは最低限間違いないっぽいから、空調はしっかり効いてるはず。電気代節約のために日光が天井から日中ずっと入り込んでる倉庫の中で、スポットクーラーだけを頼りに部品の数を数えてた頃よりはずっと待遇がマシになったと思うしかない。
「塩津さんの今日からの業務内容はサービスデスクです。この工場では……」
実際に業務する部屋に入って、責任者さんから業務内容の説明。
簡単にまとめると、この工場は半導体を半自動で作ってて、俺の仕事はその製造システムが異常を起こしてないかの監視とか、現場で実際に作ってる人達からの問い合わせに電話やメールで対応したりとか、そんな感じ。
ちなみにこの部屋で働いてる人達はこの工場の会社の人ではなく、こういう業務を委託されてる会社の人らしい。つまり俺の立場は最近世間でアレコレ言われてる"下請けの下請け"的なやつ。今の日本経済の衰退の元凶とされる『中抜き』とかそういうのに、図らずも加担してる立場。まぁ引きこもりニートよりはいくらかマシだろうけど。
製造システムは24時間稼働してるから、業務形態は特殊なシフト制。出勤1回あたりの勤務時間が長い分、休みも多い。もちろん平日休みもある。日程さえ合えば、ビリオンズ戦の時にでも月出里逢を観に行けるはず。滋賀に住んでるとどうしてもそういう機会がなかった。
と言うか、月出里逢の出身地もネットで調べた限り、ここ埼玉県深谷市。新しい派遣先を聞いた時点じゃ、いくらIT系の実務経験を積む為とは言え地元を離れて関東で一人暮らしというのはどうにも億劫だったけど、ここに来てからオリンピックをきっかけに彼女を知って運命じみたものを感じた。元引きこもりニートの俺には電話対応なんて相当気が滅入る仕事だけど、今の心境ならどうにか乗り切れそうな気がする。
そして、この勤務先の規模。家族……とまではいかなくても、かつての同級生とか近所の人とか、そういう人とも巡り合って彼女のことをもっと知れないかと淡い期待も少し抱いてたりする。
「……そろそろお昼ですね。食堂へ案内しますよ」
午前中は作業用のPCをセットアップしたり、業務の細かい説明で終わり。同じ部署の人だけではなく、同じ部屋の別部署の人も何人か一緒に食堂の方へ。
「塩津さん、初めまして。私、月出里と申します」
「ぶっ!!!」
「……?どうしました?」
食堂へ向かう道中、別部署のとある男性の自己紹介で思わず吹き出す。すぐさま胸元の名札を確認。下の名前はわからないけど、苗字の読みだけじゃなく漢字も月出里逢のそれと全く同じ。こんな珍しい苗字が出身地の市内に何世帯もあるとは思えない。
歳は多分30代か40代前半くらい。彼女に似てはいないけど、なかなか整った顔立ちで長身。髪色は彼女と同じ明るいオレンジ系で、あの特徴的な触角のような癖毛もある。そしてPC作業ばかりでどう考えても運動不足になりそうな職場には似つかわしくない、えらくゴツい体型。何かスポーツなり格闘技なりの経験があるとしか思えない。
……いや、逆に辻褄が合うと言えば合う。彼女のあの尋常じゃない身体能力を考えれば。ということはやはりこの人は彼女の父親か、最低でも親戚か何か……
「塩津さん、どこからいらしたんですか?」
「えっと、滋賀です」
「へぇ、滋賀から埼玉へ!」
「前はどんなところでお勤めに?」
「自動車部品の工場でピッキングとか……」
大人数で食事しながらの会話。もちろん例の月出里さんも時々話しかけてくるけど、こんな感じで当たり障りのない話ばかり。派遣されてすぐは大体どこもこんな感じだから、受け答えも定型的。まぁおかげで、例の月出里さんと彼女の関係が気になってしょうがない心境でもどうにか乗り切れた。
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「ふぅ……」
初日を乗り切って、アパートに戻って一息。
例の月出里さんは勤め先は同じ部屋でも、別部署で勤務形態も通常通り週休2日の8時間勤務。だから先に帰って、話すこともほとんどなかった。まぁ仮に退勤時間が同じでも、自宅を突き止めようとかそこまでの度胸はないけど……
そして、想像以上に12時間ほどの勤務はキツい。仕事の内容自体は肉体的にそこまで疲れるものじゃないけど、今まで通常勤務ばかりで残業もほとんどなかったから、半日も拘束されるのがここまで辛いものとは。
……『未経験からでもITエンジニア』って言葉に釣られて今の派遣会社に転職したけど、最初の方の派遣先は転職前とほとんど変わりのない倉庫作業。大手なだけあって無駄に資格支援とかは充実してるから、独学でプログラミングの資格を取ったりして、それでようやくここまで登ってこれた。
けど、もっと早くに何でも良いから働いてたら、今頃『一応IT系』みたいな仕事じゃなく希望通り家でコーディングしたりオンラインミーティングしたりして、もっと給料も貰えてたかもしれない。こんな狭いアパートじゃなくペット可のマンションで犬か猫を部屋飼いしたり、月出里逢ほどじゃなくてもそれなりの女性と縁があって、子供だって授かれてたかもしれない。
結構難しい資格を取ったり自分なりには努力してるつもりだけど、サボってきた過去が積み重なって、影はいつまでも落ち続けてる。今の俺はそんな状況。
部屋に戻って最初の作業は、スマホの壁紙を無難なものに代えること。もし本当に例の月出里さんが彼女の家族とかなら不審に思われるだろうし、何より無駄に長い勤務中、こっそりスマホを確認するたびに彼女の姿を見るのは、30代前半の男の理性を保つには刺激が過ぎる。その度に『俺は野球選手として彼女に憧れたんだ』と言い聞かせるのも限度がある。
「逢……!」
勤務時間中に考えた、『もしも隣に座ってるのが彼女だったら』とか、『俺のデスクの下に彼女が潜り込んでたら』とか、『帰りに俺の部屋に立ち寄ってくれたら』とか。そういうのを脳内の仮想環境で実現して発散する。逢ったことも、触れたこともない彼女の質感を、願望をベースに再現する。
引きこもりニートはとっくに脱却したけど、こういうところはいつまで経っても変わらない。社会の厳しさを知らなかった分、見た目は歳を取らずに済んで、男としての機能も一人前でいられてるせいで。
……俺の容姿や年齢、収入、経歴。そういうのを冷静に考えれば不釣り合いなのはわかってる。彼女ほどの美女なら男がもういてもおかしくない。例の月出里さんが仮に本当に彼女の父親だとしても、あの人を"義父"と言える日は未来永劫来ないと思う。
だから、これくらいは勘弁してほしい。恵まれて生まれて、その才能を活かせる華やかな仕事をしてる以上、そういう意味で憧れられるのも一種の有名税なんだって言ってやりたい。それもまた、プロ野球選手の仕事なんだって。
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