第七十七話 『さよなら』をもう言葉にできないから(5/6)
******視点:月出里逢******
9月30日。シーズン最終戦の次の日の朝。球場近くの大きな病院。
「お邪魔します」
「あ、月出里さん。いつもありがとうございます」
病室に入ると、前と同じ人。監督の娘さんの、綺麗めのおばちゃん。お見舞いの品を渡してベッドの方へ。
「おはようございます」
「…………」
ベッドを見下ろすと、呼吸器に繋がった柳監督。当然、言葉で返すことはできない。そんな状態だから、前よりもさらに弱々しい姿。前に来た時と違ってあたしをあたしだとわかってるかはわからないけど、笑って歓迎してみせた。
「これ……」
「……!」
タブレットを操作して、スポーツ速報のサイトにアクセス。あたしが盗塁王になったことを知らせる記事を拡大して見せる。
「新人王はまだわかりませんけどね」
「…………」
そう言うと、柳監督はあたしに近くに来るように手で促す。
「……!」
震える手であたしの頭を撫でながら、うっすらと涙を浮かべてあたしの方を見てる。
(ようやったのう、ようやったのう……)
透明なマスクで口元もうっすらと見えるけど、口の動きを見なくても、何を言ってくれてるのかはその顔で簡単にわかった。
わかってくれてる。こんな状態でも、あたしのことをわかってくれてた。
「う゛……っ……」
今日は最後まで我慢する。どうにか涙を堪える。
「あの、月出里さん」
「?」
「これ……」
おばちゃんが差し出したのは、ブランドのロゴが入った化粧箱。
「父からです。『必ずタイトルを獲ってくるから、その時になったら渡してほしい』って」
「…………」
中には随分と洒落たペンダント。おじいちゃんの趣味にしては若々しい。それと、メッセージカードが1枚。
『未来の世界的大スターへ』
「……まだまだ"プレイボーイ"気取りですか?」
そう聞くと、辛そうにしながらも見慣れたドヤ顔。『何もかも自分の思い通り』と言わんばかりの、あのウザったい笑顔。
「う゛……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ……」
……だったら最後まで"クソジジィ"でいろよ、ちくしょう。こんな惜しませるようなことして……
物なんかなくって良い。それより言葉にして褒めてほしかった。そしてそれ以上にまだ生きていてほしい。
だけど、しょうがないよね。あたしも監督も『さよなら』をもう言葉にできないから。
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昼には寮に戻ってきた。伝えたいことは伝えたし、あれ以上いても何も変わらないし。
「どうぞ」
「お、お邪魔します……」
呼び鈴に応じて、卯花さんを部屋に迎え入れた。
「えっと……今日はどうしたんですか?」
若い……それもクッソ可愛い女の子の部屋に招き入れられたからか落ち着きがない。
「卯花さん、ありがとうございました」
「え……?」
「卯花さんのおかげで、どうにか間に合いました」
「あ、タイトルのこと……?」
「はい。新人王だけだったら間に合わなかったですから」
「……やっぱり監督は」
「もうじきに、みたいです。素人のあたしが見てもそう思いました」
「…………」
あたしは約束を守れるかはわからないけど、約束を破ろうとはしない。すみちゃんが望む通り"史上最強のスラッガー"にも、監督が望む通り"世界的大スター"にもなろうとはしてみせる。
生きてさえくれれば、そのくらいいつか叶えてみせるのに。
「嫌になっちゃいますよね。こんなに頑張っても、『さよなら』の代わりしかできないんですから。あたしはまだまだこんなものじゃないのに」
「……それでも、気持ちは伝わったはずです。気持ちが伝われば、きっと信じられるはずです。月出里さんがもっとすごくなれるって」
「…………」
「おれはそう信じてるから、これからも月出里さんの力になりますよ」
……ああ、嫌だ嫌だ。すみちゃんはプロにしてくれたけど、バカみたいに高いハードル用意して、前にポンコツかまして酷い目に遭わされたし。ジジィは期待するだけしてさっさといなくなるつもりだし。そしてこのヘタレ男はこんな思わせぶりなこと言ってくるし。
今のあたしに必要なのは言葉じゃねぇんだよ。
「ぐっ……う゛う……」
「……!?」
もう嫌だ。もう嫌だ。耐えられなくなって、卯花さんの胸に縋る。
「何で……何で死んじゃうんだよ……!?こんなに頑張ってきたのに!」
日陰者でも腐らなかったのに。普通に働くのを諦めたのに。お粗末な成績で後ろ指差されても耐えてきたのに。
「バカな奴に嫉妬されたのに……すみちゃんの代わりに襲われたのに……好きでもない男に汚されたのに……何で、何で全部報われる前に……!」
男の人の体温に触発されたのか、女の性なのか、堰を切ったように我慢してた嫌だったことが次々と溢れ出てくる。勝ち負けのない、ただ不毛に続くだけの連想ゲーム。
「…………」
卯花さんは何も言わず、あたしを抱いて、頭を撫でてくれてる。
何だ、わかってるじゃん。疎ましい気持ちは言葉で誤魔化すんじゃなく、望ましい気持ちで上書きするべきだって。
しばらくそうしてもらって、気持ちは少し落ち着いた。だけどその代わり、別の気持ちが昂ってしまって。今までにないくらいお腹の下が熱くなって。
「卯花さん」
「?」
「寮住まいの人、今もうほとんど秋季リーグに出かけてるんですよ」
「!!!…………」
お互い、身体は正直なもの。これだけ密着していれば鼓動で、感触ではっきりとわかる。卯花さんもあたしを欲しがってるって。心なしか卯花さんの方からも押し当ててるような感じさえする。
「これじゃ合わないかもですね」
前に薬局で買った小さい箱を近くの引き出しから片手で取り出す。お子様の目に触れても良いように、シンプルに商品名と数字ばかりを強調したデザイン。それがちゃんと使えるか確かめるの半分、好奇心半分で、もう片手で卯花さんのに触れる。卯花さんは赤らめた顔で、あたしの両手を交互に見てる。
したことはないけど、お父さんと純以外のも見たことはある。だから適当に選んだわけでもないんだけど、思った以上に大物っぽい。だけどこの際、上書いてくれさえすればそれで良い。また前みたいなことになっても大丈夫なように、とりあえず望む『初めて』だけは欲しい。
「ッ……月出里さん!」
「?」
急に意を決したように、あたしの両肩を掴んで、いったん深呼吸した。
「おれ、月出里さんが好きです」
「……!」
「可愛くて、綺麗で、ちょっと変わってるけど本当は優しくて、すみちゃんや他の人達のためにも一生懸命になれて……そんな月出里さんのことが……」
やっぱりね。そりゃそうだよね。やればできるじゃん、ヘタレ男くん。生きてるんだから、言葉にもした方が良いよね。
「けど、いきなりこういうのは……」
「……順序は守りたい派ですか?」
「それもあるんですけど……おれのこと、ちょっと話して良いですか?」
「……?はい……」
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