第四十五話 猪鹿蝶と日月星(5/8)
******視点:月出里逢******
プロ入り前に買って、随分放ったらかしにしてたレディーススーツ。11月中旬になって、ようやくクローゼットからお出まし。一軍に上がったら移動中にも着るかもねと思ってたけど、良くも悪くも無名のままで1年目を終えたから、遠征でも、何なら大阪の中でも私服姿で十分だった。
お仕事の大半は練習。別にプロになる前でも街を歩いてれば男の人が群がってきてたし、その内のほんのちょっとがファンからのサインねだりとかになっただけで、いまいちプロになった実感が湧いてこない1年目だった。
でも、すみちゃんと仲良くなれたのは良かった。長子として生まれた分、正直兄や姉にちょっとした憧れみたいなものがあったから、そういうのに近い立ち位置で支えてくれたのは本当に心強かったし、何より、罪悪感とかそういうのでの義務感で接し続けるのは、非のある方のあたしが言うのは烏滸がましいけど、正直息が詰まる。
だからできれば秋季リーグで優勝して、お肉をお土産にして今日を迎えたかったんだけど、今回は働きぶりだけで満足してもらうしかない。
「ふぅ……」
深呼吸して、目の前の扉を2回ノック。
「入って、どうぞ」
「……?」
返答は男の人の声。他の偉い人とかと一緒なのかな?
「失礼します……!?」
トアの向こうには、すみちゃんの姿はなかった。けど、代わりに意外な人の姿。
「吉備監督……?」
「一度きりだが、覚えておったか」
「……有名人じゃないですか」
「今は監督ではない。ただの裏方でおじゃる」
嫌でも目立つ、昔の公家みたいな服装と烏帽子。吉備公彦さん。高校球界最強校・大阪桃源の監督……だった人。つまりはすみちゃんと九十九くん、そして若王子さんとその妹の……
「お久しぶりです。すみません、今まで挨拶も無しに……」
「よい。そう畏まると思って、あえて今まで姿を見せんかったのだからな」
「……あの、三条オーナーは?」
「昨年の今頃と違って、学業でご多忙での。今日の麻呂は言うなれば名代でおじゃる」
「そうですか……」
「まぁ立ち話も何でおじゃる。そこにかけるでおじゃる」
促されてソファに座って、吉備……さんと向かい合わせ。
まぁ、そうだよね。契約更改って言っても、オーナーが絶対に立ち会わないといけないものではないんだし。
「ではまず、オーナーからの言伝でおじゃる。『1年間御苦労であった。一軍での出場は1試合のみながら、春季キャンプからオープン戦、二軍戦、そして秋季リーグに先日の秋季キャンプも含めて、将来性は十分に感じられた。改めて"史上最強のスラッガー"になりうると確信が持てた』……とのことでおじゃる」
「ありがとうございます……」
言葉の内容自体は確かに嬉しい。けど、やっぱりすみちゃんに直接言って欲しかったな。プライベートだけじゃなく、こういうかしこまった場でも。
「とまぁ前置きはこのくらいにして、さっそく本題でおじゃる。我が球団から提示する、貴殿の来年度の年俸はこの通りでおじゃる」
礼儀を湛えるように、電卓を叩いてこっちに向ける。
「いちじゅうひゃくせんまん……600万円」
「主に二軍での8月以降の成績と、秋季リーグでの活躍を評価した形でおじゃる。秋季リーグの成績は公式記録には残らぬが、最高出塁率に加え、2位に倍以上の差をつけての盗塁王。来年以降の活躍を見越し、昨年より20%アップと査定させてもらったでおじゃる。オプション等は特に無しの固定額での1年契約。いかがか?」
「……これって、三条オーナーが決定したんですよね?」
「無論でおじゃる。オーナー殿個人で全てを決めたわけではないが、最後に判をつく権利があるのは紛れもなくオーナー殿のみでおじゃる」
なら何も言うことはない。こんな肩が凝る服は早く脱ぎたい。懐から印鑑を取り出す。
「書類下さい」
「……即決、と見て良いのだな?」
「めんどくさい条件とか付けたくないですし、何よりもあの人が決めたことですから」
「ほっほっほ、言いよる。たとえ1円玉1枚でも納得しそうな勢いでおじゃるな」
「そんな非常識なことをする人じゃないって分かってるからこそですよ」
「……さもありなん。試すような言い方になって悪かったの」
「こちらこそ……」
「?」
書類へのサインの手が進められない。
「すみませんでした。あたしのせいで……」
「……三条のことか?」
「はい。やっぱりあたしのせいで、吉備さんにも……」
「自惚れるでない。あれは三条が自分で選んだこと。もし他に取り立てて責められるべきがいるとすれば、地位と名誉に溺れて教育者という根本的な立場を軽んじた愚かな男だけでおじゃる」
「……だから今はここにいるんですか?」
「然り。役割は違えど、お主と麻呂の目指すべきところは同じ。何もかもを叶えられるはずだったあの娘がよりによって叶えられなくなったことを叶えてやる。それが今の麻呂にできる全てでおじゃる」
「なら尚更、お手を煩わせるわけにはいかないですね」
「うむ。もしお主が麻呂に報いねばならぬことがあるとするのなら、それで十分でおじゃる」
胸のつかえが1つだけなくなった。自分の名前の無駄に多い画数をクリアして、回すように判を押す。
「だから月出里よ。あの娘の望み、何としてでも叶えてやってくれ」
「……吉備さんも、あたしを信じてくれるんですか?」
「忘れたか?あの日のあの試合に立ち会ったのは三条や九十九だけではないと」
「『偶然』じゃ片付けてくれないんですね」
「こんな格好でも、お主の憧れる若王子姫子に野球を教えた身でおじゃる。確かにお主の真の値打ちは三条に教えられた形となったが、そんな麻呂から見ても、お主には可能性があると断言できる」
そう言うと、吉備さんが身を乗り出して右手を差し出してきた。
「今や三条の伝書鳩や猫の手にしかなれぬが、これからもよろしく頼むでおじゃる」
「だったら球団のことを考えた台詞で締めるべきじゃないですか?」
「ほっほっほ、全くその通りでおじゃる」
差し出された右手を握り返した。
「その力で三条を、バニーズをよろしく頼む」
「……はい!」
もちろん、頼まれなくったってそうするつもり。
「それと最後に……オーナー殿からこれを渡すようにと仰せつかった」
「……!」
差し出された小さな箱を開けると、一軍の初試合の後に送られてきた画像と同じ、紫のスミレ。1本だけが琥珀みたいに透明な四角いガラス?に入ってる。右下の端には金色のフォントで数字の「1」の刻印。
「レジンフラワー……というものらしいの。ドライフラワーを樹脂で覆ったものと聞く。年俸とは別にこれも毎年、1年間戦った証として贈りたいとのこと。端に刻印された数字はプロ何年目のものかを示すものでおじゃる」
「…………」
「全く、本当に何でもできる娘でおじゃる」
正直、花にはそこまで興味がなかったけど……綺麗。
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新幹線から電車、バスを乗り継いで、見慣れた借家へ。
「ただいま」
「お姉ちゃん!」
玄関を通った途端、結に抱きつかれる。うーん、我が妹ながらマジ天使。あたしがこの世で唯一あたしよりも可愛いと認めてる同性なだけある。この1年でまた綺麗になった。
「お、ねーちゃん。もう着いたんだな」
「うん。荷物届いた?」
「おう。ねーちゃんの分は部屋に入れといたから」
「ありがと」
2階のあたしの部屋。一応美容には気を遣ってるからそれらしいものはあるけど、他は野球とか筋トレ絡みのものばっかりと、ほんの少しの古いゲーム機。女子力のかけらもない。
純の言ってた通り、荷物は気を利かせて机の上に置いてくれてた。寮から持って帰りたい物はキャリーケースや用具用のバッグに十分収まるけど、帰る前に買ったこれは割れ物な上にどうしても嵩張っちゃうからね。
「〜♪」
手持ちの荷物はその辺に置いて、鼻歌混じりに届いた荷物の封を開ける。中身はガラスケース。大きくはない。でもできるだけ丈夫な物。あたしの胸の厚みじゃちょっと頼りないけど、懐に入れて守ってた小さな箱を開けて、中身をガラスケースの中へ。
「うーん……」
ガラスケースは贈られたレジンフラワーが30個くらい並べられそうなのと思って選んだんだけど、やっぱりこれ1個だけじゃ寂しいよね。
「やっぱりこれも……」
こんなこともあろうかと、手荷物の中に入れてた写真立てを取り出して、これもガラスケースに。奥の中央に写真立てを置いて、手前くらいにレジンフラワーを寝かせて……うん、良い感じ。
今度ホームセンターかネットで板のスポンジも買おうかな?ちょっとした揺れでも倒れたりしそうだから、飾るところをくり抜いてケースの底に敷いて……うん、そうしよう。
「ふふっ」
膝をついて、同じ高さからの目線で机の上のガラスケースを眺める。写真立ての中には、すみちゃんと遊んだ時に撮った、プリントアウトした写メ。眺めてると、シーズン中のことを色々と思い出す。辛いことももちろん多かったけど、それ以上に嬉しいことが多かったんだって、後ろ向きなあたしにそう言い張ってくれてるみたい。
「来年もまた、もう1個もらうからね」
この借家にも思い入れはあるけど、やっぱりいつかは家族に自分達の家をプレゼントしたいと思ってるから、お給料が増えたのはもちろん嬉しい。
でも、あたしにとってはこれが一番嬉しいかもね。
「おかえり!」
「おう、ただいま!」
「おんやぁ?随分高そうな靴が並べてあるねぇ?お客さん?」
1階からの聞き慣れた声を聞いて部屋を出る前に、一度机の方に振り返って手を振る。まだまだ何年も頑張らなきゃだけど、今は少しの間だけ、久しぶりの家族との時間を許してね。
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