第三十九話 ありがとう(5/5)
「『シングルタスク』を実現するコツは、普段から『考えなきゃいけないこと』『覚えておかなきゃいけないこと』を減らしていくことね。例えば……」
そう言って、三条オーナーは私の手元に指を差す。
「そうやってタブレットにメモを残すのとかね」
「あ、これはせっかくずっと欲しかったタブレットだから、使わないと勿体無いなーって……」
「それで良いのよ。勿体無いとかそんな理由で形から入っても。『覚える』という行為は毒にも薬にもなるんだから、今日の私の話だって、全部理解して頭の中に入れる必要なんかないのよ。メモを取るのは『覚える』ためじゃなく、『忘れる』ためにやると考えた方が良いわ。メモを取るという動作で『メモを取った』という事実だけ覚えておけば十分。外付けの記憶装置に頼っちゃえば良いのよ」
「……三条さんがそういうののために普段やってることって、何かありますか?」
「私?そうね……常に標準語で話すとかかしら?」
「え……?」
「自慢でも何でもないけど、生まれつき立場のある人間だからね。小さい頃から公の場に出ることも多かったのよ。そういうとこって標準語で丁寧に話すのが当たり前だから、大阪生まれだからってわざわざ使い分けるのも面倒だし、あえて普段から関西弁は使わないようにしてるのよ。別に関西が嫌いとかそんなんじゃなく、そういうことに『頭を使わない』ことを選んだだけ」
でもさっき喋ってたよね……?確かにアレ以外で喋ってるとこ見た記憶がないけど……
「野球って昔から、『頭を使う』って言われてるのに何か不思議ですね」
「逆よ。『頭を使えない』ってのは確かにダメだけど、『頭を使わない』ってのは『頭を使った』結果なんだから」
「……最近、たまに球界のOBとかOGが『最近の野球は頭を使わなくなった』的なことを言ってますけど、そういう肯定的な意味だったら良いですね」
「そうね。それに実際は『頭を使う方向性が変わった』が正しいと思ってるわ。昔から野球では『頭を使う』って言ったら、例えば『捕手のリードでジャンケンに勝てる確率を上げる』とか、『守備やルールの穴をつく』とか、全体的に見ると『勝負する相手や周囲の環境をメタな視点で見て考える』ことを前提にしてるのが多いわね。それはもちろん今の野球でも通用する考え方ではあるけど、どれも共通して言えるのは『相手や周囲に欠点がなきゃ成立しない』ってことよね?」
「あ、確かに……」
「昔は技術が広く浸透してないとかで選手同士のレベル差が今よりもずっと大きかったし、ルールも成熟してない、あるいは生かしきれてない部分があったけど、それらは長い歴史を経てどんどん是正されてきてる。だからこそ今はそれ以上に、『自分自身をメタな視点で見て考える』ことで、自分の能力を最大限に発揮できるようにすべきなのよ。最近『トラッキングシステム』っていうのを球界でよく聞くようになったわよね?」
「ああ、あの打球速度がどうとかっていうやつですか?」
「そうそう。アレは確かに『相手の欠点を見つける』のにも使えるけど、『自分の欠点を見つける』のにも、『自分の長所を探る』のにも使えるわ。ただ、アレってどっちかと言えば投手の方が恩恵が大きいと思うのよね。投手は勝負を主導する側で、打者は貴女がさっき言ってたようにそれに応じて反撃する側だから。工夫の選択肢が投手の方がずっと多いし、多分だけどそれのおかげで球速なんかもこれから先どんどん平均値が上がっていくはずだから、余計に打者の工夫の余地が減ると思う」
「幾重さんとかあのへんた……妃房さんみたいに160とか出す人が増えていくってことですか……?」
「そうなるはずよ。そうなってくると、人間のスイングスピードとか反射神経とか動体視力だけじゃどうにもならなくなる。そういった不利を打開するって意味でも、打者は特に自分自身の最大値を高めるために、『頭を使う』ってのを1つの武器に昇華できなきゃ生き残れないでしょうね」
「……うーん……」
自信がなくなる……というかそれ以上にめんどくさい。
「……心配ないわよ」
「?」
三条オーナーはそう言って、ホワイトボードアプリを落として動画アプリを立ち上げた。
「貴女多分、今日ニュースとかは観てないわよね?」
「……はい」
正直エゴサが限界だったからね。
「なら、これもまだ知らないわよね?」
そう言って、ブックマークしてた動画の1つを流した。ニュースの動画みたいだけど……
「横須賀EEGgシャークス・妃房蜜溜、またしても大記録です。本日8月10日、横須賀スタジアムでの対パンサーズ戦にて、ノーヒットノーランを達成しました」
「……!!?」
あの変態って、確か……
「9回112球、18奪三振、パンサーズ打線の出塁は2四球1エラーのみ。9回にも159km/hを記録する力投で、なんと『プロ1年目から2年連続でノーヒットノーラン』という快挙を成し遂げました」
「……ほんと、気まぐれな奴よね。開幕してすぐはあんなにグダグダしてたのに、乗ってる時は平気でこんなピッチングをするんだから」
三条オーナーはちょっと呆れて……でもどこか少し嬉しそうに笑った。
「だけど、貴女はこんな奴に勝ったのよ。何千万、何億と貰ってる一流の打者達でさえ打ちあぐねるほどの存在にね」
「あたしが……」
「明日はもっと良いもの、見せてくれるわよね?」
肩に手を置いて、尋ねてきた。答えは決まってる。
「もちろんです。おかげで頭を切り替えられましたから」
あんな難しいこといっぱい考えさせられて、こんなもの見せられたんだから、もう今日のことなんて考えてる余裕はない。
「それがわかってるなら大丈夫ね。ありがとう」
「……?そこで『ありがとう』なんですか?」
「貴女がそうやってほんの少しずつでも進歩してくれるのなら、貴女自身も、そして貴女の可能性を信じた私も信じられるからね」
「……!」
そう言ってくれるこの人のためにも、あたしはまだまだ前に進まなきゃいけない。




