第百五十五話 月出里勝はなぜ加藤信浩を殺さなかったのか(6/?)
「次はスポーツのニュースです。昨日、総合格闘技日本チャンピオン30戦連続防衛を賭けて村田光と対戦し、敗れた加藤信浩。本日、突如引退を発表しました」
「「「「「……!」」」」」
食卓を囲んでいると、まさかのニュース。家族揃ってハッとしたようにテレビの方を向く。
新品で買ったそこそこお高いテレビを借家に引越しした時に売って、代わりに中古で安く買ったテレビ。家族の中でもテレビ業界に対する不信感はあっても、やはり今の日本を生きていく上では必需品。
豪華になったおかずでワイワイしてた雰囲気から一変して、耳もそっちに傾ける。
「加藤選手は2007年、所属する団体・Road Of Powerの王者に君臨。同年の内に日本チャンピオンとなり、以降29戦にわたって防衛戦に勝利。しかし、昨日の試合ではまさかの4分足らずでのKO負け」
加藤の華々しい経歴を簡潔に伝えるべく編集された映像。ほんの一瞬だが、俺との試合も映し出された。もちろん、そこだけでは不可解な出来事があったとわからないような場面だけ切り抜いて。
「へっ……ざまぁみろ」
「こらこら、あんまり品のないこと言わないの純」
一応口では諌めるが、いつもとは違う調子で薄い笑みを浮かべてる牡丹。あの試合そのものよりも、その後に起こった諸々のことを思い出したのか明らかに不機嫌そうな表情に変わる逢。家の中の異様な雰囲気に困惑する結。
「んー……この試合、最初に仕掛けたのは村田選手なんですけど、何か加藤選手が妙に動揺してたんですよねぇ。その機に乗じて一気に攻勢に入って、そのまま短期決戦で決着。まぁ結果ほど両者の実力に差は感じませんけど、加藤選手ももう33。"王者"として自分の衰えが許せないってとこなんですかねぇ」
KO負けした加藤は皮肉にもあの時の俺と同じように、血まみれでぐったりと倒れ込んでた。村田の実力を見る限りでは当然の結果だとも思うが。
加藤は多分、村田にも俺にやったことと同じようなことをやったんだろうな。ただ俺は約束を律儀に守ったが、村田は守らなかった。マスコミは『年齢による衰え』みたいに説明してたが、本当のところは多分そういうことなんだと思う。
俺も親としてビシッと言うべきところなんだろうが、やっぱり俺も人間。正直、胸のすく思いがした。加藤が言ってたほど世の中は残酷じゃなくて、因果応報はあるんだなって。それで俺の気は済んだ。済んだはずだった。
……ただ、その1年くらい後。
「……!!?」
あの時の俺の働き先はたまたま夜勤ありのシフト出勤のとこで、牡丹が出勤して逢達も登校した後の朝頃に家に帰ってきたんだが、家の前で1人の坊さんが申し訳なさげに身を縮こませつつ立ってた。坊さんに知り合いはいないはずだったが、顔を見て気付いた。そいつは加藤だった。
「ッ……!!!」
「!!ぐっ……!」
坊さんの正体がわかった瞬間、俺は思わずそいつの頬を殴った。そして倒れた加藤を何度も足蹴にしてた。
加藤はくぐもった声を少し出すだけで、周りに助けを呼ぶことも抵抗することもしなかった。それどころか、ちょうど倒れたからついでにと言わんばかりに、そのまま俺に向かって土下座の体勢。小綺麗な格好が土で汚れるのもお構いなしに。
俺は許したつもりだった。直接こうやってやり返すつもりなんてなかったはずだった。けどあの後、特に逢は酷い目に遭ったし、俺自身も陰で色々言われたりもした。仕事が比較的順調とは言え、やっぱり行き詰まったり人間関係で上手くいかない時もあったし、稼ぎがだいぶ少なくなって身体の弱い牡丹も働きに出なくちゃいけなくなったりもした。
夜勤明けの眠気での苛立ちだけじゃない。その時になってようやく、俺には加藤への恨みがこんなにも残ってたんだと自覚した。綺麗事なんかじゃなく、家族のためにただ我慢してただけなんだって。
「はぁっ……はぁっ……やり返さねぇのかよ……?テメェもまだそんなに鈍っちゃいねぇだろ?」
身体を動かすことは引退しても続けちゃいるが、こうやって人を殴ったり蹴ったりするのは久しぶりで、身体がびっくりしたのか思った以上に息を切らしてた。
「そんなことができる立場ではございませんから」
「テメェはほんと、立場でしかものを言えねぇんだな」
「……返す言葉もございません」
加藤は頭を上げず、ただその体勢のまま。
「月出里さんにも……月出里さんのご家族にも本当に申し訳ないことをしました。この程度のことで許されるとは思っておりません。どうぞお気の済むまで……」
「その証がその格好かよ?」
「お恥ずかしながら……」
「自分が一方的に『正義』になるように仕組んだかと思ったら、今度は俺の方を一方的に『悪』にするつもりかよ?」
「そう思われても仕方ありませんね……」
「……いつからそうなったんだ?」
「引退してすぐです。俗世そのものからも離れたかったですし、頭を丸めでもしなければ実家の軛からは抜け出せないような立場でしたので」
「"歯車"でいるのに疲れちまったか?」
「その通りです。私としてはあの敗戦はある意味で救いでした。『ようやく終われる』と。村田さんにはむしろ約束を破ってくださって感謝してるくらいです」
「…………」
「私も1人の人間で男です。恵まれた立場に甘えて贅沢を享受してきましたし、人並み以上の数の女性も抱きました。その立場を守るため、月出里さんのように貶めた人間も10や20ではききません。私自身もまた、この醜い俗世の一部そのものでした。ですがそれと同時に、こんな私を……こんな俗世を否定してくれる人間を望んでもいました。私のような人間が正しく『悪』として断じられる世の中であってほしいと願い続けてました」
「だから許せと?」
「それが事実である、というだけの話です。少なくとも私が覚えている限り、私は月出里さんに嘘を言ったことは一度もないはずです」
「……そうだな。確かにそうだ」
確かにそれだと、今までの加藤の言動が腑に落ちる。腑に落ちちまう。
「でも、自分からは手放せなかったんだろ?そういう立場を。あわよくばそういう立場のまま生き続けたかったんだろ?」
「おっしゃる通りです。私はただ立場に従うしかできない弱い人間です。だからこそ、私は許されざる者であると自覚しております」
「ならとっとと消えろ。もうテメェの思った通りにはならねぇ。俺にも家族にも、二度とツラ見せんな」
せっかく手に入れた新しい毎日。それを、こんな奴を手にかけることでもう失いたくねぇ。それに、今のコイツをそうしても虚しいばかり。
「……月出里さん、やはり貴方は強い人です。私以上に……いえ、私などと違って」
「嫌味ったらしい」
「そうですね。こんな言葉だけで埋め合わせられるわけがありませんね」
そう言って加藤は1枚の紙切れを差し出した。
「今日からの私の命は月出里さんから頂いたものと認識します。ですからいつか、月出里さん自身か月出里さんのご家族に何かしらの形で報いることができればと思います。何かお困りごとがあればこちらまでご連絡下さい。寺の固定電話なのですぐには反応できないかもしれませんが……」
「テメェなんかに頼らなくても家族揃って幸せでいられるのがこれからの俺の望みだ」
「……そうですね。きっとその方が良いですね。本当に、本当に申し訳ございませんでした」
何度も頭を下げてから、加藤は静かに去っていった。
その後ろ姿を見てると、もう一度駆け寄って殴り飛ばしたい衝動に駆られた。それでも拳を力一杯握りしめて耐えた。
俺にはやっぱり、加藤に対してそれ以上のことはできなかった。




