第百五十五話 月出里勝はなぜ加藤信浩を殺さなかったのか(5/?)
「うぃっす」
「月出里さん、もう大丈夫なんすか……?」
「おう、お医者様のお墨付きだ」
歴代の試合で一番の重傷を負ったが、昔から傷の治りが早い方。すぐに身体は動かせるようになった。身体は。
「ッしゃあ来い!」
リングに上がっての実戦練習に戻れたのもすぐ。
確かに加藤に直接復讐したりとか、そういうことをする気にはなれなかった。こういう業界だから血の気の多い奴も多いし、俺のために仕返しを企てる友達もいた。それでも、俺の方でどうにか止めた。
別に直接殺す必要なんてない。また勝ちまくっていけば良いだけ。プロ入ってすぐはわざと負けまくってたんだし、キャリアの途中の1敗なんて何てことない。それこそ加藤自身の言う通り、相手は世間の中じゃ"日本最強"で通ってる奴。
『変わらず真っ当に"最強"を目指し続けること』。結局のところ、それ以上の答えはない。そうすればいつか加藤が大事にしてた立場も自然と奪い取れる……
「う……げぇぇぇっ!!!」
「!!?月出里さん!?月出里さん!!?」
そう思ってたのに、いざリングに上がって、相手と対峙した途端、強烈な吐き気。
ガキの頃から磨き続けた力と技を競い合える舞台。身を削って身に付けた技の数々に賞賛を向けてくれる無数の観客。俺にとっては最も命が輝く場所……だったのに、あれ以来リングに上がるたびに思い出すのは、あの試合のことばかり。
身体に走る強烈な痛み。誰一人として味方してくれない周囲からの冷ややかな視線。理不尽な判定のせいで技を全く振るえないもどかしさ。そういうのを頭が全部鮮明に再現しちまって……
「確かに負傷の影響が身体にも若干残ってますが、これは精神的なものですね……」
「そうですか……」
そしてお前達も知っての通り、そこで"格闘家の俺"は終わっちまった。
失意で何もやる気が起きず、その頃は子供達にも散々迷惑をかけちまった。
「勝……」
そんな中、アメリカで手術を終えて地元の病院に転院となった牡丹。
髪はボサボサ、無精髭だらけでヨレヨレのジャージ。そんな情けねぇ姿だったのに、牡丹は俺が見舞いに来たことを喜んでくれた。
「身体はもう大丈夫か?」
「ええ、お陰様で。ほぼほぼ病院の中だったけど、初めてのアメリカ旅行楽しませてもらったわ」
「そうか……」
牡丹は何とか助かった。持病の方はともかく、難病の方は再発の可能性はまずないって話。ならもう思い残すことはねぇ。ああいう仕事をしてたから、それなりに良い保険にも入ってる。ここで終わっても、家族は何とか食っていけるだろう。その時はそう思ってた。
「……勝」
「ん?」
「ちょっと前に、逢と話してたわよね?『地元でずっと下積みしてるのは、"未完成な自分"を見せたくないから』とか」
「ああ……」
「それだけが全部じゃなかったんでしょ?」
「…………」
「そりゃそうよねぇ。こんな病弱な奥さんと子供3人も抱えてたらねぇ。本気で"最強"を目指すならむしろ、あたし達を置いてでも日本中……どころか世界中を飛び回って色んな奴と闘うべきだったのに」
「……逢が生まれる前まではそのつもりだったんだけどな」
「…………」
「けど、生まれてちょっとした頃に、逢を抱いた時に指を握られて……その時に俺は"最強"であると同時に"父親"でもありたいと思えた。逢を産んでくれた牡丹をこれからも守っていきたいと思えた。逢……だけじゃなく純と結もこれから先、こういうことだけじゃなく他にも何ができるようになるのか……目を逸らさずずっと見つめていたいと思えた」
そこだけは確かに心残りだったけどな……
「ふっ……ウフフ。あの日、あたしを抱いてなかったらねぇ」
「成人したばかりの男がお前みたいなのに迫られたらしょうがねぇよ。今だって、牡丹と一緒になったことに後悔はねぇ」
「……あたしは"あたしに勝てる男"を求めてた。そいつに守ってもらう代わりに、そいつの子を産んで、そいつが"最強"になるのを支えるつもりだった。でも最初から、そういうのはできない仕組みになってた。まるであたし、『呪いの装備』みたいなもんね。お父さんに嫌なこといっぱい言われても、諦めずにあたしをもらってくれたのに。なのにあたしは、勝をこんなふうにして……あたしと巡り会わなければ、勝は今頃当たり前のように"最強"になれてたはずなのに……あの子達にも最初から苦労する宿命を背負わせて……」
「…………」
「ッ……ごめんなさい、あ゛、あたしのせいで……あたしのせいで……!ごめんなさい、ごめんなさい……!」
病み上がりの弱々しい力で俺の手を握りながら、ボロボロと涙をこぼす牡丹。
いつも余裕な態度を崩さず飄々(ひょうひょう)としてるのに。あんな牡丹を見たのは、今でもあれ一度きり。
牡丹にとっちゃ俺には罪悪感しかなかったんだろうが、俺にとっちゃそれもまた1つの救いだった。あの頃の俺はずっと俺こそ世界で一番不幸であるかのように思ってたが、それ以上に牡丹が傷ついてて……憐れみとかそういうのじゃなく、ただ純粋に牡丹と子供達をまだまだ守り続けなきゃならねぇって、そう思えた。
「このファイルではE列にSUM関数が入ってるので……」
「す、すんません……『さむかんすう』って何すか……?」
心身のことを考えて、そして俺としても『気持ちを新たにして』『未練が出ねぇように』ってことで、全く無関係なところから再スタート。
肉体派だらけの前職だったから、ほんのわずかに表計算ソフトを扱えただけで"パソコンの先生"扱いされて、それで調子に乗ってそういう業界を選んだが、まぁ最初は簡単なテスト業務でも苦戦しまくりで……
「で、できた……!山根さん、チェックお願いします!」
「……はい、OKです。お疲れ様でした。月出里さん、そろそろ慣れてきましたか?」
「ええ、お陰様で」
「月出里さんは1ヶ月でここまでできるようになったんですから伸び代ありますよ。これからも頑張って下さいね」
「あ、ありがとうございます!」
ただ俺は最初に入ったところに恵まれた。
「いただきまーす!」
「おおっ、久々のハンバーグ!」
達成感ばかりを積み重ねられる良い環境で少しずつできることが増えるたびに、食卓に並ぶおかずも増えていった。俺達の都合で逢に辞めさせてしまった野球も復帰させることができた。
色々あった逢もまたよく笑うようになって、牡丹もあれ以来大きく体調を崩すことはなくなって、純も結も何事もなく学校生活を送れて。今でも多少は残ってる"最強"への未練もどんどん薄れていって、『こんな日々も良い』と、そう思えるようになった。




