第百五十四話 天使(6/6)
「ただいま……」
「おう、おかえり!」
お母さんの入院中。
テスト期間で、幼稚園通いの結よりも早くに帰宅すると、エプロン姿のお父さん。忙しなく動いて家事をこなす。いつもならトレーニングルームで汗を流してるのに。
「あれ……?機材がない?」
「ああ。最近ミニマリストとか断捨離とかよく聞くだろ?ちょっと思い切ってな」
「……あたしも何か手伝うよ」
「逢はテスト期間なんだろ?学生は勉強して部活に励むのが仕事だ。お母さんが帰ってくるまで、家のことは全部俺がやる」
「全部って言っても……お父さんだって仕事があるでしょ?」
「トレーニングと比べたら屁でもないさ。むしろいつもやりすぎな俺にとっちゃ良い休暇になってるくらいだ」
「でも……」
「……わかった。2階で掃除機だけかけてくれるか?」
「うん」
結構良い機材だらけだったトレーニングルームが、いつの間にかダンス教室みたいにガランとして。
お母さんの医療費が具体的にどれくらいだったのかは未だ聞けずじまいだけど、それだけで色々と察するものがあった。
「……!」
なのにお母さんが趣味で集めてた宝石は全く手付かずのまま。
「逢、すまん!結が熱出たみたいだから、ちょっと迎えに行ってくる!」
「う、うん……」
……お母さんだけじゃなく、お父さんもほんと意地っ張りで。
「監督」
「おう、どうした月出里?何か悩み事か?今度初スタメンなんだし「退部します」
「え……!?」
だからあたしも意地を張った。
野球はやっぱり何だかんだでお金持ちのスポーツ。ボールだけじゃなく、バットもグローブも高い上に消耗する。遠征費もバカにならない。世の中の不景気に比例して競技人口がどんどん減ってるのも納得。
何よりお父さんまで倒れたらどうしようもない。せめて家のことだけでもあたしがやるためにも、こうするしかなかった。
「逢ちゃん……」
「ごめんねのりちゃん、短い間だったけど……」
「き、気にしなくて良いよ!しょうがないよ、こうなっちゃ……逢ちゃんのお母さんに『お大事に』って伝えてくれる?」
「うん。ありがと」
当然、未練はあった。でも、自分が野球に対してどこか甘ったれてたとこがあったのもその頃には自覚してたから、『遅かれ早かれ』ってことで割り切るつもりでいた。
「そうか……アメリカで……」
「うん。日本じゃ手術できるとこが本当に少なくて、待ってたら時間がかかりすぎるって話で」
「……アレな話だけど、相当カネがかかるんじゃねーか?」
「多分……ごめんね。あたしも多分これから先、こうやって一緒にいられる時間があんまり取れなくなると思う」
もちろん、彼氏とも相談。
「俺も力を貸すぜ?」
「え……?」
「正確には『俺んちも』だけどな。カネなら多分工面できるし、じいちゃんに頼めば他に医者のツテも見つかるかもしれねぇ」
「わ、悪いよそんなの……」
「俺と逢の仲だろ?だから……」
「ッ……!?」
急に距離を詰めたと思ったら、胸を弄られて……
「嫌ッ!!!」
「!!!」
「……!?ご、ごめんなさい!その……」
男と女の仲なんだし、いつかはこういうこともするんだろうなって思ってたけど、このタイミングは違うって思って、咄嗟に跳ね除けてしまった。
「……いや。俺も調子乗ってたわ。悪いな」
「う、うん……」
「「…………」」
気まずい沈黙がしばらく流れる。
「今日はもう帰るね……」
「……おう」
それでも、待ってるばかりじゃ家のことだって片付かない。
彼氏はバスケ部を続けるし、このこともあって、次の日以降は逢う機会もすっかりなくなった。恋愛はこれが初めてだったから確信は持てなかったけど、この時点で破局なのかなって、あたしとしてはそういう認識だった。
「ただいま」
「……おう」
その日家に帰ると、疲れた……というか、何か思い詰めてる感じのお父さん。
「逢、ちょっと良いか?」
「うん。どうしたの?」
リビングでお父さんと向かい合わせに座る。
「まず、お母さんのアメリカ行きの日程が決まった」
「やっぱり向こうに行かなきゃなんだね」
「ああ。放っといても悪くなるばっかりだからな。少しでも早くってなったらそうするしかなかった」
「まぁしょうがないよね……」
そういう覚悟だから部活も辞めた。最終的にお母さんが助かるならそれで良い。
「それと……逢には悪いが、お父さんしばらく東京の方で仕事をすることになった」
「……!?え……?」
「日本チャンピオンに挑戦することになってな。それでテレビ関係の仕事も受ける必要があって……家のことはお手伝いさんや千葉の方のおばあちゃんが協力してくれることになったんだが、やっぱりそれでも逢にも色々と負担をかけてしまうことになると思う。しばらく純と結の面倒を「何で?」
「え……?」
「何でこのタイミングなの?」
彼氏に限らず、お父さんまで……
「お母さんが大変な時なのに、何でこんな時に"最強"を目指すの?お母さんのことはどうでも良いの?お母さん、お父さんのことずっと応援してたのに。"最強"になるとこ、お母さんに見せないの?誰かに頼まれたんだとしても、断るのが普通じゃないの?お母さんだけじゃなく、あたし達のこともどうでも良いの?」
「!!?い、いや、そういうことじゃなくてな……」
「……サイッテー」
「!!逢!おい、逢!」
お父さんが今までのこだわりを何でこんな時に捨てたのか?そんなの、ちょっと考えたらわかることだった。でも彼氏のこともあったから冷静になれなくて、そこに思い至るまでにえらく時間がかかってしまった。
そんな出来事で、お父さんにはしばらく"天使"じゃいられなくなった。




