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翼の話

 翼は『ナルセ』に入った途端固まってしまった。

 今は少し遅いランチタイム、遅番で昼休憩に出たのだがまだ席が埋まっている。その中に見知った顔を見つけてしまったからだ。

 カッチリとしたスーツに細身の眼鏡をかけた男は、4人がけの席にひとりで座り、お冷のグラスを手にこちらを見ている。


 男の名は本間卓弥、翼が事務員として勤める大学の准教授だ。若くして准教授になった彼は将来性とその容姿、人当たりのいい性格から人気が高い。それこそ学生からも、女性職員からも。翼も例外ではなかった。ほんのりと「いいな」と感じていた思いはいつの間にか翼の特別な部分にしっかりと根を下ろしてしまっていた。

 けれどそこでガツガツと迫れるような意気地は翼にはない。彼女はむしろ本間にも誰にもばれないように、必死に気持ちを隠している。そのせいで本間に対して事務的すぎる態度を取ってしまっているが。


 ――だってしょうがない。噂では本間には心に秘めた人がいる、ということなのだから。

 隠しておかないと、きっと誰が見ても丸わかりのはずだから。


「やあ霜岡さん」


 だというのに本間が翼に声をかけてきた。思わず仕事モードの顔に切り替わってしまう。


「本間先生」

「霜岡さんもこれからお昼ですか? 席が一杯のようですし、よろしければご一緒しませんか。僕と一緒でお嫌でなければ」


 そんな言われ方をしたら断われない。正直、相席とはいえ本間と一緒にランチなどと心臓に悪すぎて全力でお断りしたいところだけれど、その反面滅茶苦茶嬉しいのも本心だ。逃げ道を塞いでくれてありがとう。


「――ではお言葉に甘えさせてもらいますね。失礼します」

「はい、どうぞ」


 木製の椅子を引き、本間の向かいに座る。すぐにさくらが来て水とおしぼりがテーブルに置かれた。本間もまだオーダーしていなかったようで、メニューを見ながらすぐに「ラムのキーマカレーを」と注文した。

 翼はここに来ると注文するものはほぼ一択だ。


「えびのマサラカレーで」

「はい。いつものですね」


 メニューを回収してさくらがキッチンへ去ると、本間は人当たりのいい笑みを翼に向けた。


「おとといはありがとうございました。霜岡さんが気がついてくれなかったら申請の締め切りに遅れるところでした」

「いえ」

「そうだ、お礼に食後のお茶をご馳走させてください」

「そういうわけにはいきません。あれは仕事の一環ですし」

「そうおっしゃらず。僕がご馳走したいんです。ああ、ここでご馳走し損ねたら午後の講義に身が入らないかも」

「――午後は先生の講義はなかったかと記憶していますが」

「あれ、ばれましたか」


 いたずらがばれたのに、まるでいたずらが成功したような本間の笑みに翼の心臓が大きく音を立てた。ほんのりと頬が熱い。

 紅くなってしまっているだろう頬を見られたくなくて、翼はメニュー表を手に取って顔の前に広げた。これで本間からは見えないだろう。


「どうします? コーヒー? それともチャイかラッシーにしますか?」

「では、チャイで」

「はい」


 本間がもう一度嬉しそうな笑みを浮かべた。

 勘弁してほしい。



「――でね、菅原教授と飲みに行ったんですよ、その後」

「ああ、それは大変でしたね。ちゃんとおとなしく帰りました? 教授は」

「ええ、ちょっとだけごねましたけどちゃんと約束した時間には帰りました」


 カレーを食べながら雑談する。最初は緊張していた翼だったが、本間はものすごく話し上手聞き上手で、いつの間にか翼はごく普通に会話を楽しんでいた。そういえば大学の先生だった、この人は。そりゃあ人に興味を持たせる話し方がうまいわけだ。

 件の菅原教授は普段から厳格な雰囲気で、講義も事前にまとめてきた資料をもとに理路整然とかっちりした指導をするので有名だ。だがひとたびアルコールが入ると非常に饒舌になる。素面の時の理路整然さはどこへ行ったと聞きたくなるほど話は脱線するわ笑い上戸で泣き上戸で、悪い酒ではないのだけれど帰りたがらず大変だといううわさが流れているのだ。


「僕はね、嫌いじゃないですよ。教授と飲むの。話がすごく面白いんです。とっても人生経験の豊富な方だから、講義じゃ聞けない色々な知識や体験を聞けるまたとないチャンスだと思ってます。そのうち霜岡さんも一緒にいかがですか?」

「私――ですか?」


 エビを掬ったスプーンが止まる。本間に誘われたことでおさまっていた動悸が激しくなる。

 いやまて勘違いするな。二人きりじゃなくて、菅原教授や他の人も含めてのお誘いだ。気負うようなものではない。

 そもそも講師陣と飲みに行く機会なんて事務職員の翼にはそうそうない。つまりこんなチャンス、後にも先にも今回だけかもしれないのだ。

 けれど一緒に飲みに行くなんて、気持ちを隠し続けられる自信がない。断らなきゃだめだろう。


「いかがです?」


 本間が少し首をかしげて翼の目を覗き込む。やめて、その仕草は犯罪だ。ついつい頷いてしまいそうになる。

 翼の頭は本間の笑顔でいっぱいになってしまっていた。


「は、はいぜひ……」

「本当ですか! やった、うれしいな。それじゃ菅原教授とも相談して日程決めますので、よければ連絡先を」


 気がついた時には連絡先を交換し終えていた。

 その後一足先に店を出た翼は何が起こったのかわからないままふらふらと大学へと戻っていった。




「本間先生、霜村さんのラインIDゲットできたんだ!」


 翼が帰ったあと、大きなため息とともに『ナルセ』の机に突っ伏した本間に店の外から幸奈がすっ飛んできた。幸奈と一緒に入ってきた荒熊が苦笑いしている。


「戸田さん――ミッションクリアです」

「やったね! 一歩前進ですね」

「戸田さんたちの協力のおかげです」

「そりゃあね、本間先生にはお世話になってますから。恋の協力、惜しみませんよ」


 本間はずっと翼のことを好ましく思っている。仕事には真摯に取り組み、職員や学生が相談に来ると親身に話を聞いてくれる翼。だのになぜか自分に対してだけはものすごく事務的な対応をすると気がついたのが彼女が気になった発端だった。

 そうしていつの間にかすっかり彼女に心を占められてしまっていた。

 だが本間はあいにく愛だ恋だに疎かった。どうしていいのか悶々としているうちに、学生に見破られてしまったのだ。幸奈と荒熊に。


「私と荒熊先輩もちゃんと自分の気持ち言えなかったからずっとすれ違ってたんです」


 と恋愛の先輩風を吹かされてしまったのはつい先日。どうやらこの二人もつきあい始める前には周りをやきもきさせたらしい。

 翼がランチに行く時を狙って先回りをし、うまく誘って相席して飲みに誘う。二人きりの飲み会でなくても構わない。それを口実に連絡先を聞き出す――というのが幸奈の考えた今日のミッションだった。

 正直、結構穴がある計画だとは思った。けれど一生懸命考えてくれたものをばっさり断る気にもなれず、ダメ元で幸奈の計画に乗ってみたら、なんと成功してしまった。


「この調子です本間先生! ファイト!」

「うん、がんばるよ」


 幸奈と荒熊にカレーをおごり、午後の会議のために本間は『ナルセ』を出た。

 さあ、会議の後に菅原教授を誘わねば。

 いつもはちょっと面倒だと思っている会議への足取りは自然と軽くなっていた。

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