ある老夫婦の話
その日一番目の客は老夫婦だった。
穏やかな目元の小柄な紳士と、寄り添って連れ立つ明るい微笑みの夫人。どこか小春日和の陽だまりを思わせるような二人を、さくらは外が見える窓辺の席に案内した。
お冷とおしぼりを持っていくと「ありがとう」と微笑まれたので嬉しくなる。なんだか今日はいいことがありそうな、そんな気にさせられた。
「お嬢さん、こちらのお店のおすすめは何ですか?」
紳士がさくらに聞いた。さくらはメニューを開き、バターチキンカレーを指さした。
「一番人気はこちらのバターチキンカレーです。あとはこちらの野菜カレーとか、キーマカレーもおすすめです。それから辛さはお好みに合わせてお作り出来ます。超甘口カレーもございますよ」
「おや、それじゃすごく辛いのもできるのかい?」
「はい、普通の辛さの25倍までお出ししています。普通の辛さを1辛として、辛い方は5辛まで、その上に25倍の超激辛があります。辛いのが苦手な方には、甘口、中甘口、超甘口をご指定いただけます」
「面白いねえ」
夫婦がメニューをじっくり眺め始めたので、お決まりになりましたらお呼びください、とさくらは席を辞した。
「今どきのカレー屋さんはすごいのねえ。25倍辛いってどんな感じなのかしら」
「君はやめておいたほうがいいと思うよ、僕は。無理に頼んで結局食べきれないのは勿体ないし、何より君の笑顔が曇るのは見たくないからねえ」
ちらほらと客が入り始めた店内で二人の会話は続く。
「嫌だわ、またそうやってからかうんだから」
「からかってなんかいないよ。僕はいつだって真剣だよ」
まじめくさった顔でそう返す紳士が軽く手を上げてさくらを呼んだ。
「それじゃあ僕はキーマカレーにするよ。2倍の辛さで頼むよ」
「私はバターチキンカレーをいただくわ。辛さは、そうね、私も2倍くらいでお願いできる?」
「はい、かしこまりました」
そのままオーダーを伝えにキッチンへ入ると、店主で恋人の成瀬がおだやかに笑った。
「すてきなご夫婦だね」
「ですね。何だか癒されちゃうというか憧れちゃうというか」
夫婦の席を振り返るとちょうど紳士が席を立つところだった。キッチンの入り口わきを通り過ぎ、奥のトイレへと入っていく。
そこから他の来店客のオーダーを取ったりとさくらは少し忙しくなり、成瀬も調理に専念し始めた。
ほどなくトイレから出てきた紳士がさくらに声をかけた。
「すみませんが、お冷のお代わりをいただけますか?」
「はい、今伺いま――?」
すっとさくらの手に何かが握らされる。確認する前に紳士はひとつウインクをして、小さな声で「よろしく」と告げて席へと戻っていった。
「おお、来た来た。いい香りだねえ」
「まあ、おいしそう。いただきます」
供されたカレーを前に夫婦がそれぞれ手を合わせた。その様子すら上品で、見惚れてしまいそうになる。
優雅な所作でスプーンを口へ運ぶ夫人だったが、何口か食べて手が止まった。水を飲み、少しだけ首をかしげる。
「――思ってたより辛いのね」
「おや、そうだったかい?」
「ええ。でも大丈夫」
そう言って夫人はもう一口カレーを食べ、すぐに水のグラスに手が伸びる。
「――芳子、こっちのカレーを食べてみるかい? 思ったより辛くないよ」
「あら、でも同じ辛さだったわよねえ?」
「でも種類が違うから、ひょっとしたらそっちより辛く感じないかもしれないよ」
「そうかしら――」
いぶかしみながら夫人が紳士の皿からひとさじすくってキーマカレーを口に運ぶ。
「――あら、本当ね」
「こっちは大丈夫かい?」
「ええ、キーマカレーはそんなに辛くないわ」
「それじゃあ僕のと取り換えようか」
結局二人は皿を取り換えっこして食事を続けた。
その様子をキッチンから見ていたさくらと成瀬は顔を見合わせてにっこり笑い、夫婦のテーブルに視線を送った。キッチンからは夫人の背中と、その向かいに座っている紳士の顔が見える。その紳士がこっそり二人にウインクして見せた。
さくらは笑顔で右手の親指を立てて見せた。
「ご主人の予想通りだったみたいですね」
「うん。わざわざ『自分の分は妻には内緒で普通の辛さにして』ってメモを託したのはこのためだったんだね」
そう、さっき紳士がさくらの手に握らせたのは一枚のメモだった。自分の分の辛さを控えてほしいというのは、夫人が辛くて食べられなかったら自分の皿と交換しようと最初から考えていたのだろう。
「お見通しだったんだな、あのご主人」
「ですねえ。なんかいいなあ、女子としてはやっぱり憧れちゃう」
「――ああいう風になりたいね」
「え?」
成瀬の小さな声が店内に流れるBGMに紛れて消える。さくらが聞き返したが、成瀬はにっこり笑って何も答えなかった。