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香澄の話

 カレー専門店『ナルセ』店内の壁には何枚かの絵が飾られている。

『ナルセ』のインテリアはカレー屋というよりカフェっぽい雰囲気で、その雰囲気によく合う風景画だ。一枚はそれほど大きくないが、いろいろな色が店に華やかさを添えている。実はその絵は売り物で、近くに住むアーティストの作品を店主成瀬の厚意で店に置いているのだ。


 絵の作者は住村香澄、と添えられている。


 彼女の絵は透き通るような色彩が特徴で、絵のどこかに小さな男の子が必ず隠れている。

 男の子が絵のどこにいるのか探すのが楽しい、と彼女の新作を楽しみにしている客も多い。




「こんばんはぁ。はあ、冷えますねえ」


 その日の夜遅く、香澄が『ナルセ』にひょっこりと顔を出した。時間はラストオーダーまであと30分、かなり遅い時間だが、実はこの時間に香澄がやってくることは珍しくない。

 バイトをしながら絵を生業にしている彼女だから、生活のサイクルがしばしば狂っているのだ。

 とはいえ彼女は月に1回決まった日に必ずやってくる。根はきっちりした人なのだ。


「いらっしゃい、住村さん」

「ダルカレ―、3辛で」


 キッチンから成瀬が出てきて水とおしぼりを持ってきた。今夜はさくらはもう退勤していて、成瀬がひとりで切り盛りしている。

 絵がよく見える席に荷物を置いて、香澄は暖かいおしぼりで手を拭いた。


「あったかい……天国……」

「今日はちょっと風がありますもんねえ。日が落ちてから急に寒くなってきました」

「あれ、厨房で火を使っててもわかりますか」

「はい。意外とわかりますよ。ほら、ドア開けた時に冷たい空気が入ってきますからね、気持ちいいんです」

「あはは、なるほど――で、申し訳ないんですがまた持ってきました」


 持ってきた大きなバッグを開けて、丁寧に梱包された小さな包みを取り出した。自分でがさがさと開いて取り出したのは、B5くらいの大きさの額縁だ。中には広い草原の絵が収めてある。


「わあ、新作ですね。申し訳ないどころか大歓迎ですよ。実は1枚売れたところだったんで、ほら、ここにあったひまわりの絵」


 成瀬に言われてよく見れば確かに1枚なくなっている。夏のひまわり迷路を描いた絵は比較的大きい絵――といってもA4くらい――で、子供の頃遊びに行ったひまわりの群生をモチーフにしている。

 品種的に大きくなるひまわりだったんだろう。父親の頭よりも上に花が咲いていたのを覚えている。


「――あれ、ですか」

「はい。初めていらっしゃった男性なんですけどね、ずいぶん気に入られたみたいで。作者についても聞かれましたよ」

「そうなんですね」

「――あれ? 今一つ浮かない顔ですね。あの絵が売れちゃったらまずかったですか?」


 成瀬が香澄の顔を覗き込む。


「あっ、いえ、そうじゃないんです。もちろん売れて嬉しいですよ――ただ、ちょっと思い入れのある絵だったので感慨深いんです」

「思い入れ? そういえばいつもとちょっと違いましたよね、あの絵。男の子が白い帽子をかぶってた」


 その通り、青いストライプのリボンがついたマリンキャップをかぶせていた。服装も帽子に合わせたセーラーカラーの服装に――それは成瀬の指摘通り、他の作品とは違い「アイデアを思いついて作り上げた絵」ではなく「記憶の中の1シーンを描き出した絵」だからだ。


 それはまだ香澄が小学生だった頃。


 夏休みに香澄はひとりの男の子と出会った。自分より少し年下なその子は、大きな家の裏手でひとりでつまらなそうに遊んでいた。

 たまたまそこを通りかかった香澄は、彼があまりにつまらなそうだったので思わず声をかけたのだ。


 香澄の故郷は有名な別荘地で、両親とその友人と一緒に別荘に来ていると男の子は言った。でもその友人夫妻には子供がいなくて、何となく自分があぶれてしまっている、と。

 だから香澄は「遊ぼう」と誘った。最初は香澄が男の子――たっくん、と呼ばれていた――の滞在している別荘に顔を出してその周囲で遊んだ。二人はあっという間に仲良くなり、滞在していた1週間はいつでも二人一緒に遊んでいた。香澄はたっくんの両親にも気に入られて、ベランダでジュースとおやつもごちそうになった。

 そうしてたっくんの滞在が終わりに近づいた頃、家族ぐるみですっかり仲良くなった香澄の両親の提案で、香澄一家とたっくんは出かけることになった。たっくんの両親は友人夫妻と遊びに行くらしい。

 香澄たちが出かけたのはひまわりの迷路だ。背の高いひまわりで迷路が作られており、ひまわりの間の通路を歩いてゴールを目指すのだ。

 香澄はたっくんと手をつないで迷路を進んだ。香澄の家族はまた別に迷路を進んでおり、咲き乱れるひまわりの中で香澄たちは二人きりだった。


「ぼく、明日はもう東京に帰るんだ」

「うん――元気でね」


 この1週間ですっかり仲良しになったたっくんがいなくなるのが、香澄にはものすごく寂しかった。自然と寂しそうな声になってしまう。するとたっくんが足を止めて香澄を振り向いた。


「かすみちゃん、ぼく、また来年ここに来るよ」

「うん。待ってるね、たっくん」

「来年だけじゃなくて、次も、その次の年も絶対来る」

「本当?」

「うん。絶対だ。だからさ、だから、その――」


 ひまわりの通路は蒸し暑く、襟足がじっとりと汗ばんでいる。たっくんの額を汗が流れ落ちるのをきれいだ、と香澄は思った。

 その香澄の目をまっすぐ見て、たっくんが言葉をつなぐ。


「だから、大きくなったらぼくのお嫁さんになってね」

「うん。約束する」

「約束だよ」


 小さな子供同士の約束。大人と違ってハグもキスもない。ただつないだ手にぎゅっと力がこもり、香澄はドキドキした。

 約束のかわりにたっくんは香澄にかぶっていたマリンハットをくれた。


「また来年、絶対来るからね」


 ――けれど翌年、そのまた翌年もたっくんは来なかった。





「大事な思い出なんだね」


 サービスだよ、とカレーを食べ終わった香澄と自分にチャイを淹れた成瀬が穏やかに笑った。

 香澄はひとつ頷く。


「バカみたいですよね、子供の頃に一度会ったきりの名前しか知らない男の子なんです。でも、どうしても忘れられなくて」

「そんなことないよ。大事な思い出じゃないか。そうか、絵に描いてある男の子はその『たっくん』だったんだ」

「うあー……言わないでください。子供の頃の思い出にしがみついてる痛い奴じゃないですか、私」

「だからそんなことないって。ひょっとしたらたっくんだって今でも住村さんのこと忘れないで探してるかもしれないじゃないか」

「――だったらうれしいんですけどね」


 まだ少し熱いチャイをぐいっと飲み干す。

 時間はそろそろ閉店、居座っては迷惑になってしまう。香澄は席を立った。


「じゃ、そろそろ帰ります」

「そう? あ、絵の売り上げ持ってくるからちょっと待ってて」


 成瀬も合わせて立ち上がり、キッチンの奥へ行ってすぐに戻ってきた。手にした茶封筒を香澄に手渡しにっこり笑う。


「住村さん、たっくんに今でも会いたいと思ってる?」

「はい――迷惑じゃなければ会いたいです」


 本心はすごく会いたい。

 今までに他の男の子からつきあいを申し込まれたこともあった。けれど心のどこかにたっくんとの約束があって、他の誰かとつきあう気になれなかったのだ。

 子供の頃からの刷り込みかもしれない。長い時間の中で思い出が美化されてしまっているのかもしれない。

 わかっているけれどどうしても忘れられなかった。

 自分の絵に彼を住まわせてしまうほどに。


「なら、はい。これも持って行って」


 エプロンのポケットから取り出したメモを手渡された。半分に折られたそれは、いかにも手帳から破り取ったらしく片側がぎざぎざになっている。


「これは?」

「ひまわりの絵の買主から」


 いぶかしみながらメモを開いた香澄は、メモの中身を読んで目を見開いた。

 メモにはこう書いてあった。


【マリンハット、まだお持ちかどうかわかりませんが、香澄ちゃんの思い出の中では大事に取ってもらっているようでうれしいです 達也】


 達也。たつや。


「――たっくん?」

「うん。もし住村さんが自分のことを覚えていたら渡してほしいって言われたんだ。会いたいけど仕事の都合でどうしても今夜帰らなきゃいけない、って――今ならまだ彼に追いつけるよ。今日の最終の特急に乗るって言ってたから」


 彼の電話番号はここに書いてあるよ、そういってメモの裏を示す成瀬にお礼を叫んで香澄は店から飛び出した。









「ええ! それでどうなったの?」


 翌日の開店前、さくらが興奮してカウンターから乗り出した。


「何とか彼が特急に乗る前に間に合ったんだって。さっき住村さんから連絡があったよ」

「へえ~……なんかいいなあ、幼馴染同士の再会とか、恋愛小説みたい。うまくいくといいなあ」

「大丈夫だと思うよ、あの二人は。だってたっくん――本名は近衛達也さんって言うんだけど、絵を買った時に実は全部話してくれてね。彼もずっと住村さんのことを忘れられなかったらしいよ」

「でもどうして住村さんのところに来られなくなったの?」

「ご両親の事業がちょっと大変なことになってたらしくて、避暑どころじゃなくなったんだって。おまけに住村さんも一家でこっちに引っ越しちゃったから連絡が取れなくなったんだね。彼も約束を忘れられなくてずっと探してたって言ってた。だからここで彼女の名前を見て驚いたって」

「うわあ――本当に恋愛小説! それにしてもこの店が間を取り持ったみたいで、なんか嬉しいですね」

「だね。こんなことあるんだなあ」


 二人でほわっとしているうちに開店時間がやってくる。


 今日の『ナルセ』は店長も店員も大変にごきげんだ。



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