コア 10
10
竹下雁と高地悠斗は同じクラスであるものの、会話をしたことはなかった。
とは言っても別に避けていたからというわけではなく、クラスには他に何人も同級生がいるわけで、お互いにその中の一人にすぎなかったからだ。
ある日の休み時間、一人自分の席に座っていた雁はふと周囲に気配を感じた。
顔を上げてみると、机の周りを数人が取り囲んでいた。
「がん、がん、がんってあれだろ!ガンサイボー!!」
小学生は覚えたての難しい言葉を使ってみたい年頃だった。
「…え?」
雁にはそれがなんのことかよくわからなかった。ただ、自分がからかわれていることはわかった。
「わるいびょうきなんだよなぁ?」
「ぼく、かぜひいてないよ?」
「おまえがわるいやつなんだってば!!」
なにがなんだかわからない雁がオドオドしていると、突然机の上にドサっと大きな本が落ちてきた。
びっくりして振り向くと、ニコリともしていない悠斗が立っていた。
「ちがう」
「え?」
その場にいた全員がキョトンとした。
「これ」
悠斗は机の上の図鑑を指さした。鳥の写真がのっている。
「雁は鳥だよ。細胞じゃなくて鳥」
同級生たちはそのあともなんだかんだと言っていたが、そのうちつまらなくなったのか、散り散りに離れていった。
「なんでわかったの?」
放課後になって雁は悠斗に声をかけた。
「この名前ぼくのおじいちゃんがつけたんだって。ぼくもかあさんに聞くまでわかんなかったんだ。どうして悠斗君知ってるの?」
「なんでって…調べたから」
悠斗は相変わらずのすました顔で言った。
「変わってるから、調べてみた。そしたらあれだった」
ランドセルをかついでそのまま帰ろうとする悠斗に、雁は後ろから小さな声で聞いた。
「ぼく、へん?」
「変じゃない」
振り向いてそう言い切った悠斗の真っ直ぐな瞳を、雁はその後もずっと忘れられなかったのだった。
お互い態度には出さないが、頭の中はひどく混乱していた。
放課後、雁に呼び止められたとき、悠斗にはなんとなくこれが「最後」なのではないかと感じるところがあった。
なにを話せばいいのか、なにを言うのが正解なのか。
答えを導き出せないまま、悠斗は待ち合わせの場所へと向かった。
そこは小高い山の上だった。ずっとこの町に住んでいる悠斗も来たことのない、人けのない静かなところだった。山道には人の手が入っていないのか、草や岩がごろごろとしていた。
いくらか進んでいくと、少し開けた場所に出た。町を見下ろせるくらい高くまでのぼってきたらしい。遠くでかすかに人々の声や生活の音がする。
あたりを見回すと、背の高い木の下でぽつりと雁が立っているのが見えた。その隣に…
「あの人…」
雁とは別になった剣士の姿もあった。が、その姿は向こう側が見えるほど透けていた。悠斗はぐっと息を飲んだ。
「今回で最後になる」
剣士が落ち着いた声で言った。
「なにか話したいことがあるのなら、済ましておいたほうがいいと思って来てもらった」
悠斗はゆっくりと剣士に話しかけた。
「…あんたは生き残りたいって言ったな。死にたくない。消えたくないって。だけど無事雁を核に復活できたとしても、それでもあんたはいずれ死ぬ。あんた自身が言っていたように、死ぬことは誰にも避けられないからだ」
悠斗は雁の方を向いた。
「この人のこと、少し調べてみた」
と言ってカバンから古そうな本をいくつか取り出してみせた。
「いつの時代の人なのか、どこの誰なのか…鬼とはなんなのか…なにもわからなかった。そんな記録なかった。古すぎて残ってないのかもしれないし、俺の調べも甘かったとは思うけど、何も残ってなかったんだよ」
悠斗は雁に一歩ずつ近づいた。
「お前の身体はお前自身のもの…だから自分で決めればいい」
雁の細い肩を両手でぐっと掴む。
「けどさ、お前いいのかよ…!雁…!お前は死んでもいいのか…!どこの誰かもわからない、幽霊なのか、なんなのか、そんなわけのわからないもののために消えてなくなってもいいのかよ!」
「いいんだ」
雁があっさりとそう言い切ったことに、悠斗は困惑した。
「それで役に立てるなら。もういいんだ。僕は高地君みたいに頭良くないし、運動もできないし、しっかりしてないし…うらやましいんだ」
顔を下に向けたまま雁が言った。
悠斗は雁が思いがけないことを言うので、さらに混乱した。
「はぁ?お前なに言って…」
「僕、このまま大人になったって、家の手伝いさせられるだけだよ。やりたくもないことを「伝統だから」ってつがされるだけだ。もう嫌なんだ。昔から僕の言うことを笑わずにちゃんと聞いてくれるのは高地君だけだった。みんな僕のことからかって、馬鹿にして…でも高地君は違った」
顔を上げた雁は、もうほとんど泣きそうだった。
「だから、ただ、覚えていてほしかった。消えてなくなる前に、ちゃんと話したかった」
「高地君は…悠斗君は、僕の大事な友達だから」
「消えなかった」
それまで黙って聞いていた剣士がふとつぶやいた。夕日に照らされて、まるで赤く光っているように見えるその姿を、悠斗と雁はぼんやりと眺めた。
「戦いを…自ら望んでいるわけではなかった。でも、気配を感じると刀を持たずにはいられなかった。」
そう言って剣士は自分の手と刀を交互に見た。
「私のこの血に…精神に…魂に、染み付いている。自分の名前さえ思い出せないのに。何年経っても、どんな身体になっても、私がいて鬼がいるかぎり、私は剣士であり続けなければならない。それが私の運命…」
剣士は雁の方にゆっくり視線をうつした。
「君の身体を借りて、何匹も鬼を斬ってきた。そのたび身体に生傷ができた。私ではなく、君に」
そして悠斗をみつめる。
「言ったはずだこの子は「借りる」と…もう返す時がきたようだ」
剣士は刀を自らの腹部に押し当てた。
つらぬいたその傷口から血こそ出なかったものの、剣士はその場に崩れ落ちた。
雁はあっと声にならない声を上げた。
とっさに二人は剣士に駆け寄る。抱き起こそうにも、半透明の剣士の身体は、触れることすらできなかった。切れぎれの声で剣士がつぶやく。
「たとえどんな「核」を用意しても、もう、「私」には戻れない…わかっていたはずだった。ずっと。君たちはここで、この時間で、生きていく人たちだ…私はもう終わった…とっくの昔にここで…私は終わっていた…」
「死んでしまうんですか…?」
どうしていいかわからない両手をバタバタさせながら、涙目になっている雁が叫んだ。
「私はもう死んでいるんだよ」
剣士の瞳は穏やかだった。
「君を消しさってまで、生きようとは思わない。
君は生きなさい。この時代を。自分の人生を」
唖然としている悠斗の方を向いて剣士が続けた。
「…もはや気配は消えた。私と奴らは一緒にここで封じられていた。だから一緒に葬るしかない。もう奴らが現れないようにするためにも、こうするしかなかったんだ…」
悠斗に弱々しく手を差し伸ばす。
「君と話していてわかった。ああ、私はこうなるさだめから逃げていただけだ…」
もう片方の手を雁にも伸ばす。雁は必死でつかもうとするが、どうしてもすり抜けてしまう。
「君が…ついてなきゃだめだ。雁は。心配になるくらい、純粋で、大馬鹿だ…」
もうほとんど聞こえないくらいの声で剣士は言った。
「私の…ことは…忘れなさい…」
「それは無理だ」
震える声で悠斗が言った。
「俺は、俺たちは、たぶんあなたを一生忘れない」
剣士の姿がゆっくりと消えてゆく。
悠斗と雁は、決してつかむことのできないその手を何度も握った。
夕日が地平線の向こうへ沈むとき、剣士は完全に消えてなくなった。
以後、二人がこの出来事について語ることはなかった。
悠斗と雁の日常は変わることなく続いてゆく。
人生も、運命も、自分で決めて、自分で進む。
二人の歩みは終わらない。
いつか命が尽きる、その時まで。
完