Last room
Last room
光が明滅する。
白い光だ。頭がぼんやりして……目が開けられない。
瞼の裏で白い光が蠢いていた。きっと外が明るいのだと分かった。次第に、物音も聞こえてくるようになる。最初は雑音のような意味の分からない音だったのが、だんだんはっきりと、言葉として理解できるようになってくる。
「先生? 先生! おい、医者を呼べ! 早く!!」
これは、自分に呼び掛けているのだと分かる。
この声には何やら聞き覚えがあった。耳の奥で声がわんわんと鳴り響く。頭が痛くて鬱陶しそうに呻くと、声の主はさらに興奮して何かをまくしたてる。
「おかえりなさい! おかえりなさい先生! 本当に良かった……」
ぎゅっと手を掴んでくる。温もりを感じた。この手の主は本当に自分を案じてくれたのだと分かる。だけど、心は寂しさでいっぱいだった。
「清蓮先生! 私です。担当の敷島です。見えますか?」
清蓮は頷いた。
目はかすんでいるが、だんだん焦点が合ってくる。するとここがどこなのかも分かってきた。
風間市立総合病院だ。年季の入った内装がそれを確信させる。一度入ったことがあるし見覚えもあるから分かった。なぜならここは、あの日自分が殺されかけた病院だからだ。
清蓮は目を見開いた。
光が急激に入ってくるが、彼女の目はそれをしっかり景色に変えることができた。白衣の医者や看護師が慌しく入って来て、体を弄られる。自分で動くことはできないから、なすがままにさせていた。
その状況を処理するだけで清蓮の脳は限界だったらしい。彼女はまたゆっくりと目を閉じると眠りについた。
彼女が次に目を覚ましたのは丸一日経ったある日の夕方。前に起きた時と部屋が変わっていることに気づく。今度は気分も幾分か良い。上体を起こしても具合は悪くならないし、頭痛も治まっていた。
視界は相変わらずぼやけているが、コンタクトがないためだと分かった。彼女は傍にあった机の上に手を伸ばしてまさぐるように動かす。
「これをお探しですか先生」
突然聞こえた男の声に思わず身構えたが、彼が担当の敷島だと気づくと安堵する。彼は気を利かせて清蓮の眼鏡を持ってきていた。それを受け取り、かけてようやくいつもの景色が見えるようになった。
「よかったですよ先生。目を覚まされて。編集者一同心配したんですから」
「ア……」
!?
なんだ、声が……
「清蓮先生。何から話したらよいのか」
「……」
敷島は迷うように俯いたが、やがて決心したように彼女に告げた。
「先生、落ち着いて聞いてくださいね。あなたの声ですが、今は出すことができません。何ていうか、医者も訳が分からないと言った様子で、とにかく、あなたの喉仏は綺麗になくなっているんです」
ああ、なるほど。
それなら納得。驚くどころか、腑に落ちてすっきりしたくらいだ。彼女は思わず微笑んでしまった。それを見て敷島は感心したように目を丸くした。
「流石先生、肝が据わっていらっしゃる。まぁ、ご安心を。医者の話によると、今の医療技術なら声帯の代替を作ることは可能だそうです」
清蓮は手で何かを書くジェスチャーをした。敷島はすぐに紙とペンを用意する。それを受け取り、彼女は筆談で会話を試みた。
『アタシはどれくらい眠っていた』
「2週間ですかね。先生はまさにこの病院の庭で刺されていたんですよ」
『アタシを刺した奴は?』
敷島は言いにくそうに唇を舐めた。
「先生、気負う必要はないですよ。もみ合いになったんでしょ? 犯人は先生に刺し返されていたと警察が言っていました。この病院で治療を受けているそうですが、重体だそうです」
安心してください。正当防衛は明らかなので先生が罪に問われることはありませんよ。と、フォローされたが、気を遣われる必要はなかった。いっそ殺してしまってもいいと思っていたほどだ。
清蓮はさっきから流れっぱなしになっているテレビが気になった。ちょうどニュースが流れている。
「あっ、すみません。今消しますね」
立ち上がりかけた敷島の手を掴んだ。清蓮はそのニュースに釘付けになったのだ。字幕に、『コクリエンタープライズ』の文字が躍っていたからだ。
『――コクリエンタープライズ主催のツアー旅行の旅客機が墜落した痛ましい事故により、意識不明となっていたツアー客36名が昨夜未明、病院で息を引き取ったことが分かりました。また同乗していた当ツアー主催者であるコクリエンタープライズ会長、黒狗景虎さん、およびスタッフ3名も同様に死亡が確認されました』
アタシの仮説はやはり、間違ってなかったのか。
あの空間で死んだ者は須らく、この現実でも死んだ。いや、あるいはそういう運命だったのかもしれない。アタシがたまたま運よく傷が浅くて生き残っただけかもしれない。あの空間のことはただの夢で、こうなったのもただの偶然かもしれない。
だけどやっぱり、それは希望的観測だ。
受け入れなければならないのだろう。あのニュースを見て確信した。もはや、彼と会うことは二度とないのだと。
清蓮は一言だけ、紙に文字を書いた。
『瀬山鶫は?』
敷島は、その名前が彼女の恋人を指すことを知っていた。清蓮は表立って瀬山のことを話したりはしなかったが、自分は彼女のことを最も身近で見てきた相棒でもある。その名前くらいは知っている。そして、清蓮がそもそもこの病院に来たわけは、その瀬山鶫を見舞うためだったということも。
「ええ、彼は……」
瀬山鶫さんはお亡くなりになりました。
清蓮は顔を覆って泣いた。
嗚咽だけを漏らし、声もなく涙を流した。
敷島は一言も発することができなかった。どんな慰めの言葉も、彼女の悲しみを癒すまい。自分にできることはただ、彼女が一人にならないよう傍にいてやることだけだった。
***
また数日が過ぎた。
失って初めて。彼の存在が自分の中でどれだけ大きいものだったかのかを痛感していた。秋彦に刺された傷はまだ完治していないが、もう自分で松葉杖をついて歩ける程度には回復している。だが、今の清蓮にはリハビリ以外にすることがなかった。
敷島に頼んでパソコンを持ってきてもらえば小説を書くこともできる。だが、全く筆が乗らない。真っ白の原稿用紙を見つめるだけで時間だけが過ぎていった。こんなことは今までに一度もなかった。
これがスランプってやつか。なるほど。書く気が起きないってのはよほどナイーブになっている証拠だ。
書いたところで、一番読んで欲しい読者はもういない。そんなことを思う時点でプロとしては失格かもしれないが、アタシはきっと、いつの間にかキミに読んでもらうことを目的に書いていたのかもしれない。
いつものアタシなら、あの空間で起きた摩訶不思議な戦いのことを書いてやろうと思うところだが、書けそうになかった。
どう書いても、最悪なオチにしかならない。
空虚な日々が続いた。
筆を取る気は一向に起きず、ただ医者から命じられるリハビリのメニューをこなすだけ。清蓮はやつれていく。いっそこのまま、自分でも無意識のうちに魂が居なくなってしまいそうな。
抜け殻のようになっていた清蓮に、吉兆の一報がもたらされたのは突然だった。
「瀬山さんの遺骨ですが、引き取り手がいないそうです」
見舞いに来てくれた敷島が、そんなことを漏らした。
「親戚は彼を親族として認めていません。なんでも、両親が駆け落ちしてできた子供が瀬山さんだったそうで、瀬山さんの両親は勘当状態だったようで」
瀬山の両親は離婚し、女手一つで育てられたと聞いたことがあった。父親の方も亡くなっていたのは初耳だし、両親の駆け落ち云々も初めて聞いた。
「それで……このままだと無縁仏として市が処理します」
『ならアタシが引き取ろう』
迷う余地はない。
アタシは彼の恋人だったし、いずれ結婚も考えていた。瀬山側の親族からも文句は出まい。弔いだけでもさせてもらえるのなら、それで十分だ。
「ええ、それが良いと思います」
敷島は優しく微笑み、賛同した。
――ありがとう。少し気が楽になったよ。
彼女はようやく、笑顔を取り戻した。
***
夜。
清蓮は寝付けなかった。眠るのが怖い。意識を手放せばまたあの静かな部屋に戻されるのではないかと心配になるのだ。子供じみた妄想だが、流石の清蓮もあの部屋の出来事はトラウマとしてこびりついている。
真澄を焼却炉に叩きこんだ後、自分は全ての力を使い切って倒れた。喉にぽっかり穴が空き、そこからとめどなく血が流れていた。
真澄の長い悲鳴がやがて止み、世界が静寂に包まれた時、フッと意識を失ったのだ。あの空間での最後の記憶はそれだけだった。
――アタシはなぜ生き残った。
爆発して死ななかったからだろうか?
あの部屋の脱出条件を思い出す。まず一つは故人の葬送を行うこと。結局葬送は失敗し、亡骸の大部分が真澄と一緒に灰になった。
確か、あの録音機は脱出の条件をもう一つ言っていた。それは、式場全体が静寂で満たされること。
あの言葉の意味は生存者が全員死ぬことだと解釈したが、違ったのか? いや……あの言葉を額面通り受け取るなら、『誰も喋る者がいなくなった』時に静寂で満たされると言えるのかもしれない。
つまり、土壇場で延命のために喉仏を抉り出したアタシは偶然にも死なずに生還できる道を選んでいたというわけか。皆、法具という音を出す武器を渡されて喉仏を狙って敵を倒していた。そうしたほうが簡単に人を倒せるからだ。体格差なんて関係ない。だからこそだ、あの法具を使わずに敵を倒したらどうなるのか、誰も考えもしなかった。
――ひょっとすると、アタシの他にも生き残っている奴がいるのかもしれない。
清蓮は急に不安になった。
この病院に、意識不明で重体になっている奴が一人眠っているのを思い出したのだ。そういえば、敷島はあいつが息を引き取ったかどうか明確には言っていなかった。
気になる。あいつは生きているのか? 生きていたら今頃、アタシのように目を覚ましているのではないか。
その時だった。
病室の外で物音が聞こえたのだ。ドン! と壁に大きなものがぶつかる音、そして、ずるずると何かを引きずる音だった。
何か異常なことが起きている。そう確信した清蓮はいてもたってもいられず、松葉杖をとって病室を出た。
廊下は暗い。天井に光る非常口を示す緑のライトだけが不気味に光っていた。
人の気配はない。
だが、何かがおかしい。さっき聞こえた音は空耳ではない。暗くて周りがよく見えないが、とりあえず前に進んでみる。
「あっ!」
松葉杖が何かに当たり、彼女はバランスを崩した。咄嗟に手を出して体を支えようとする。床に手をついた彼女はじっとりとした生暖かい感触を得た。その感触は忘れもしない。あの部屋で散々感じてきた、生気の発する何か――
「ッ――!」
慌てて立ち上がり、手を拭う。臭いを嗅いでみるとやはりそれは血だった。
誰かが倒れている。暗くて見えづらいが、白い服を着ていると分かる。ここの看護師だろう。清蓮はゆっくりその体に指を這わせ、死因を特定しようとした。首元まで触り、そこに傷がついているのが分かった。
1か所大きな穴が空いている。穴はちょうど指先が入るくらいの大きさ。太い、ペンか何かを首に刺して殺したのか? 狙われたのはちょうど喉だった。おかげで悲鳴も出さずにやられてしまったのだろう。
「ダ……」
誰か! と助けを呼ぼうとしたが、声が出ない。
とにかくまずい。部屋に戻ってナースコールを使おう。誰か人を呼ばなければ。
振り返って自分の部屋に戻ろうとしたその時、いきなり自室の反対側の病室の扉が開いた。
男が現れた。その位置はちょうど、非常口のライトで照らされており、顔が見える。
秋彦だ。
手には小型の包丁が握られていた。あの病室に置いてあったものだろう。リンゴでも切るために見舞いの客が置いていったのだ。
恐らくだが、あの病室の患者ももう、殺されている。包丁には血が滴っていた。
秋彦は清蓮の存在に気が付いた。緑のライトは彼女の顔もしっかり照らしていた。秋彦は裂けんばかりに口角を曲げ、奇声を発しながら走り出した。
やばい。
逃げなきゃ!!
松葉杖を必死で動かし、何とか距離をとろうと試みる。だが、簡単に追いつかれて包丁で背中を切り裂かれた。鋭い痛みが走る。
「グッ!」
清蓮は前のめりに倒れた。すかさず秋彦がのしかかろうとするが、彼女は松葉杖で秋彦の急所を思い切り殴る。悶絶し、身動きが取れなくなった隙に清蓮は再び立ち上がって走り出した。
フーーッ……フーーッ!
秋彦にはもはや、何も残っていない。
夢も希望も愛する人も、何もかも失った。愛しの蓮子は手に入らなかった。だからせめて、彼女の命が欲しい。
この手で小説家清蓮を、愛する人清水蓮子を、殺し、その魂を僕のものとする。
彼はあの静かな部屋で喉を貫かれて、それだけを思いながら意識を失ったのだ。そして目が覚めた時、衝動だけが体を駆け巡った。
秋彦は体勢を立て直すと身をかがめ、まるで獣のように息を荒あげて清蓮を追跡する。
再び追いついた。
清蓮は松葉杖を武器に秋彦に攻撃するが、彼はそれをものともせず、左手で抑えこんだ。力任せに杖を奪い取ると遠くに放り投げる。
包丁が清蓮めがけて突かれた。彼女はぎりぎりでよけるが、足がよろめいて倒れていしまった。すかさず秋彦が彼女に馬乗りになり、その包丁を叩き落とす。
が、あと数センチのところで秋彦の手を清蓮がとどめた。彼の目玉がギョロリと剥き、殺意を露にして力任せに包丁を突き立てようとしてくる。
「ハァ、ハァ……」
包丁の切っ先は胸の真ん中だ。
清蓮は秋彦の手を掴んだまま、ぐっと右へ引っ張って手を放した。包丁は勢い余って落とされる。刃は清蓮の右肩に突き刺さった。
秋彦が次の攻撃に出る前に、清蓮は彼の顔に指を這わせて目を狙った。
「ヌッ!? ウゥウウアアアア!」
かすれたような声で絶叫する秋彦。親指を左目に突っ込み、力まかせに爪でひっくり返してやった。あまりの痛みに秋彦は転げまわり、清蓮は自由になった。
――包丁!
しかし、秋彦の動きも早い。清蓮がそれを回収するより一歩早く彼の手が動き、包丁を取られた。危うく指を切られそうになり、一時後退するしかなかった。
秋彦は左目を抑えながら立ち上がる。
彼はむしろ楽しそうに破顔していた。クスクス、クスクス笑いながら、涙を流して清蓮を追いかけていく。
足を引きずりながらだと、遠くまでは逃げられない。清蓮は廊下の角を曲がった。すると、懐中電灯の光が見えた。
そこに人がいる!
巡回の看護師だ。彼はすぐに清蓮に気づいた。
「どうしました!?」
声が出せない。だが、身振り手振りでも何とか伝わったようだ。必死に後ろを指さし、やばい奴が追ってくると伝えると、若い青年看護師は正義感を燃え滾らせ「早くこちらへ!」と清蓮をかばう。
秋彦が廊下の角から姿を現した。
そのただ事ではない有様に看護師は明らかに怯んだ。彼は実直で真面目な男で、これまでも、そしてこれからも誰かに暴力を振るうなどという行為をするはずがない人生を送る男だった。
そんな人間に今の秋彦を止められるはずもなく。
「ぎゃぁあああああ!」
彼は包丁で胸を刺され、そのまま腹まで切り裂かれた。返り血を浴びながら秋彦は興味なさげに倒れた男を見下ろすと、その首筋に刃を立ててとどめを刺した。
――ごめんねぇ。こうなるとは思ってたんだけど。
運が悪かった。アタシも、他人の命を気にかけられるほど余裕がない。だが、キミのおかげで逃げる時間ができた。
清蓮は走り、階段の踊り場までたどり着いた。ここから一階に降りれば、ナースセンターがある。確実に2人以上人がいるはずだ。
「アアアアアアアアアアア!」
早い!
階段を下りる前に、走ってきた秋彦が追い付いた。全速力だった。包丁を腰だめに構え、彼は清蓮めがけて突進したのだ。その包丁の切っ先は彼女の心臓を狙っていた。
「クッ!」
どすり。
衝撃が襲った。包丁は確実に清蓮の体を貫いたようだ。
終わりか。
何て最悪なバッドエンド。よりによってコイツに刺されて終わるなんて。
来たる激痛を覚悟し、目を閉じた清蓮。
だが、いつまでたってもそれは来ない。
「な……」
包丁は確かに、清蓮を貫いたはずだった。でも、痛みがない。何かが突っかかって、体の奥に入っていない。
服の胸ポケットに何か入っている。固い何かが邪魔をして、秋彦の包丁を受け止めている。
驚愕に震える秋彦だったが、すぐさま包丁を引き、もう一撃を繰り出そうとした。だが、このチャンスを見逃さない。清蓮は秋彦の胸ぐらを掴み、自分の全体重をかけて彼を階段に突き落とした。
「グアアアアアアア!?」
二人は共に階段を転がり落ち、体を打ち付けながら下まで一気に落ちていく。やがて回転は止まり、清蓮は目を開けた。
やったぞ、生きている。
全身痛いが、何とか生き残った。首の骨が折れたかと思ったが、大丈夫らしい。体は動く。
彼女は胸ポケットをまさぐった。そこには入れた覚えのない、USBメモリーが入っている。包丁に当たった傷がついているが、それは見間違えようのない、彼の遺品。
――鶫ちゃん
ちゃんと持って帰って来れたのか。
ありがとうね、アタシを守ってくれて。
清蓮は大切な彼の傑作を握りしめた。
清蓮はゆっくりと上体を起こし、秋彦の様子を確認する。
彼は痙攣していた。
胸に包丁が刺さり、それを抜こうと必死で手を動かしている。
「れ……ン…こ……」
恨めしそうな顔で、秋彦は彼女に手を伸ばす。
清蓮はまだ動く右足で、包丁の柄を思い切り蹴った。包丁はさらに深く刺さり、秋彦は呻いた。血を吐き出し、目の焦点も合わなくなる。
それでも彼は必死に、彼女に触れようとしていたのだろうか。
彼は警備員がやってくるまでずっと、清蓮に手を伸ばし続けていた。届くはずがないその手を、音無秋彦は命尽きるまで下ろすことはなかった。
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クワイエットルーム
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行きつけの書店には今日も、今話題の小説たちがずらりと並んでいた。平積みで置かれている本の横には有名な作家の名前が躍るPOPとそそられる煽り文句が。数多ある小説の中でも目を引くのはごくわずかだ。それに、人気作品はもう読みつくした。
清蓮は平積みのコーナーからは早急に立ち去り、端っこの方にある新作小説のコーナーに向かう。こちらはあまり有名どころの作家の本は置いていない。
彼女はそこで探した。
彼の本を。
「お、あった」
清蓮はその本を手に取り、愛おしそうに眺める。
『 セイレーンの恋 瀬山鶫 著 』
あのUSBメモリーにあった作品を、書き起こしただけだ。誤字脱字だけを推敲し他は一切手を加えず。そして清蓮は彼の名でこの本を出版した。
小さな小さなコーナーだ。数冊しか置いていない。でも、この本が書店に並ぶことをアタシは誰よりも待ち望んでいたよ。
「さてと、ゆっくり読むとしようかな。瀬山先生?」
あなたを愛してしまったことに気づいた時、私は今までの自分ではいられなくなった。否定しようと思ったこともあった。自分が変わることが何より恐ろしいからだ。この力を失うことにさえなりかねない。
だけど、自分に嘘は付けないのだ。
あなたのおかげで私は幸せだった。
様々な障害があろうともそれを乗り越えて。私は貴方と幸せになると誓う。たとえあなたがいつか朽ち果て、私と共に同じ時間を歩めなくても。
この愛は永遠に。沈黙の中で生き続ける。
―― セイレーンの恋 ――
クワイエットルーム 完