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クワイエットルーム   作者: 冬司
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room18 頭のおかしい人

 room18 頭のおかしい人



 瀬山鶫は殺された。

 その事実を瀬山本人は知らないだろう。これが分かったのは後の捜査状況からひき逃げ事件だったと判定されたからだ。さらに清蓮はその後のいきさつも思い出していた。

 あの病院で、瀬山は誰かに狙われた。病室に何者かが忍び込み、瀬山の心臓を止めた者がいる。病室の窓は開いており、ちょうどその真下に位置する場所で一人の女が倒れていた。

 あの女は確かに、森本ちえりだった。

 こうなると全ての点と点が繋がってくる。ちえりは瀬山に異様な執着を燃やしているようだった。瀬山の家に盗聴器を仕掛けていたのもちえりだと断定できる。彼女は探っていたのだ。瀬山の隣にいる、女の存在を。

「狙いはアタシだったってことかい」

「ん? どうした蓮子」

「いんや。なんでも」

 瀬山は何も知ることなく生死の境を彷徨っていた。この事実を瀬山に伝えるべきかどうか清蓮は迷ったが、やはり思いとどまる。話がややこしくなるだけだ。もとよりちえりとは袂を分かっているし、次に相対した時は敵同士になるのは確実。なんならアタシがとどめを刺せばいいだけのことだ。

 もう一つ、はっきりしているのは黒狗一行が自分を狙う動機だった。

 徐歌の病室が爆発した。あそこに爆弾を仕掛けたのは状況的にちえり以外にあり得ない。だが、タイミング悪く清蓮が徐歌の病室を出る瞬間を景虎に目撃されてしまった。あれが致命的だったのだろう。景虎の憎しみの矛先がこちらに向いたのはあれが原因だ。なんて納得のいかない因果だろう。どこまでボタンが掛け違えばこんなことが起きる。状況は理不尽なまでに絶望的だが、小さな希望も残っていた。

 瀬山はあの時、意識不明の重体だったが、医者の話のニュアンスから生存可能性は十分にあるという話だった。推測だが、ここに来ている人間全員が現実世界で生死の境を彷徨っているのだ。清蓮の最後の記憶は秋彦に刺されたのだと思い出す。確か刺された位置は背中だった。心臓ではない。病院もすぐそばだし、一命をとりとめていてもおかしくない。同様に秋彦にも同じことが言える。森本ちえりも、死亡は確認していなかった。そうだ、思い出したぞ。東太も自殺を図ったが、結局重体で死に切れていない!

 この空間の本質は見えた。いわば三途の川のようなもので、全員が見ている共通夢。ならば、ここで生き残れば現実世界で生還できる可能性が極めて高い。

「生き残ろう。必ず、鶫ちゃんと……」

 清蓮が取り戻した記憶には確かに、この男を愛した自分の姿が残っていた。自分はこの男が好きなのだと、あらためて認識したのだ。



 二人は次々と部屋を暴いていった。このテーマパークは広く、入れる場所も多い。ヒントを使い切ってしまった二人にできることは、とにかく探索だ。新しいヒントを求めて部屋を捜索するしかなかった。

「次はここか」

 コクリワンダーモールと書かれた看板がでかでかと踊っている。ここはパークの雑貨店売り場だったはず、と清蓮は記憶をさらった。二人が入ってみると、そこは惨状が広がっていた。

 血まみれの肉片がそこら中に散らばっている。その光景に既視感すら覚えた。そうだ、戦闘が行われた部屋は皆こうなっていた。

「どうやらこの部屋は当たりの部屋だったみたいだね」

「ああ、見ろよ蓮子。あそこの部屋の奥」

 レジカウンター裏の『staff only』と書かれた扉が半開きになっており、そこから中がちらりと見え隠れしていた。同じような血だまりが広がっていたが、奥に何か、巨大な物体が見える。

 二人は扉を開けて中に入ると、はじけ飛んだ人間の死体と一緒に棺桶が設置されていた。棺桶の中身は空だ。先客にやられたらしい。

「亡骸か、録音機か、何かがあったみたいだな」

 清蓮は辺りを見渡し、探るような視線を地面に這わせる。すると、彼女は床に落ちている死体の着ていたズボンに何かが入っているのを見つけた。ポケットから半分のぞかせているのは見覚えのある録音機ではないか。

「ラッキー、鶫ちゃん。探してみるもんだね」

 清蓮はその録音機を拾い上げて得意げに笑う。

「見たところ僕たちが持っているものと同じような形だな」

 早速再生してみよう。データも3つ入っており、一番と二番は笑い声とこの空間の説明。やはり、最初の部屋で手に入れたものと同じようだ。

 きっとこの人も最初の部屋で録音機を手に入れた。ようやくここまでやって来たが、力が及ばなかったというところだろう。となると、3つ目の情報は期待できる。どの録音機も三番のデータには異なるデータが入っていた。

 期待を込めてスイッチを押した。のんびりとした機械音声でその情報は語られる。


『――それでは、皆様の最終目的地である火葬場の場所についてお伝えいたします。火葬場は 式場A コクリエンターテイメントパークの中で通じている、北のトンネルを越えた先にある部屋となっております。亡骸を全て集めた方は速やかに火葬場にお集まりいただきますよう、よろしくお願いいたします』


 北のトンネル!?

 どっちが北だ?

「鶫ちゃん。これを見て!」

 清蓮が持ってきたのはパークの地図だった。客用のパンフレットに描かれているものだ。部屋の机の上に大量に置いてあるのを一枚拝借してきたらしい。

 地図の右上に方位磁針が描かれているのでどちらが北か分かった。大きな観覧車のある方向が北。となるとトンネルは観覧車の後ろ側にあるはずだ。

「なるほど、これでゴール地点は分かったな」

「でも、亡骸が足りないね」

「いや、皆が行きつく場所は同じだ。僕達も火葬場に行こう」

 清蓮は瀬山の顔を見て確信した。

 ようやく彼も腹を決めたのだと。もはや敵に対して情けとか、どっちつかずの態度をとることはないと。

「亡骸はあと二つだ。そのうち一つはコクリが持っているし、あと一つだって誰かが手に入れているに決まっている。そうなると、次に取れる手は他人から奪うしかない。どこにいるか分からない敵を探すためにこの広い空間を彷徨うよりも、皆が目指す同じゴール地点があるのなら、そろそろ皆そこへ向かうはずだ」

「じゃあもう、戦いは避けられないねぇ」

「ああ……そうだな」

 最後の決着は、火葬場でつける。そのためには誰よりも早くたどり着いた方が有利だ。先に火葬場に入れば、戦場の地の利も把握することができるし、罠を仕掛けて待ち伏せ、なんてこともできるかもしれない。

 もちろん、そんなことは言わなくても清蓮も分かっているようだった。二人は踵を返してコクリワンダーモールを後にした。




 ***




 秋彦は耳の奥へ流れてくる情報を次々と頭の中で精査していく。聖徳太子にでもなった気分だ。ただ、自分は彼ほど頭が回らないから、聞き取れる情報の半分は捨ておくしかないのだが。

 それでも秋彦は重要な情報は聞き逃さなかった。森本ちえりからの協力の打診は僥倖と言える。追ってくる菊泉を倒すには自分だけの力では厳しいと分かっていた。それはちえりにとっても同じだったようだ。彼女がどうやって菊泉から逃れたかは知らないが、彼を倒すという目的は一致している。

「全く、ちえりさんったら。よく一度殺されかけた相手と手を組む気になれますね」

 それは信頼などではない。ただ菊泉を倒すにはボクの力が必要だからという合理的な判断に過ぎないのだろう。その判断を迷わず下せるあの子もよほど頭のねじが狂ってるとしか思えないが……

 秋彦は呆れたように一笑し、『劇場ホール』の扉を開けて中に侵入した。短い廊下を超えると、広いホールに出る。200席ほどの観客席が連なり、その奥に大きなステージがあった。後ろ側が高い位置になるように若干の傾斜がかけられており、ステージ側の席に近づくにつれ、低い位置になっている。秋彦は身をかがめて移動し、ステージの上に登った。

 ステージの袖から控室のような部屋に入れないかと思ったのだ。しかし、控室と思しき部屋の扉は開かない。鍵がかかっている。ステージ付近には隠れられる場所はないようだ。

 ならば仕方がない。彼は一番前の列の一番左端の客席の下に潜り込んだ。上から見ると、座席の下は背もたれの影になって見えない。だから、自分を探すには一列ずつ下に降りて座席を目視する必要があるだろう。劇場ホールの出入り口は自分が入ってきた正面入り口一つのみ。自分には『地獄耳』で外の様子が聞こえる。菊泉が入って来るタイミングも分かるのだ。

 奴が近づいてきたら奇襲攻撃をかける。しばらくすればちえりが来るから。動くタイミングはその時だ。菊泉はちえりに対してノーマークのはずだから、彼女が襲ってくれば間違いなく意識はそちらへ向く。その瞬間をつく!

「一つネックなのは、菊泉の音響爆弾か」

 彼はあれをあと何個所持しているのか。ショッピングモールで戦った時は、出し惜しみしている使い方ではなかった。まだ持っているのは確実だろう。もしかすると、彼はあの扉を少しだけ開け、隙間から爆弾を投げてくるかもしれない。

 一応、それも見越してこの広さがある劇場ホールを戦いの場所に選んだわけだが、爆弾が爆発する位置によっては殺される危険もあった。秋彦は自分の腕の数値をもう一度確認した。数値は0に戻っている。

「60以上ダメージを食らったらまずいな。クラッカーが撃てなくなる」

 菊泉は部屋の中に入ってから爆弾を使うことはしないだろう。ならば、使うタイミングはこの部屋に入って来る直前の一回のみ。それをしのげば勝機はある。

 不安は残るがやるしかない。

 秋彦は服の袖を噛み切り、それを自分の首に巻き付けた。何もないよりはましだ。爆弾の攻撃が来たらさらに喉元を手で隠し、椅子を盾にしてうずくまる。

「! 聞こえてきた。奴の足音だ」

 この建物のすぐ外に来ていると分かる。

 秋彦はわずかに腰を浮かせ、扉の様子を窺った。爆弾が投げ込まれた場合、どこへ飛んでくるかを見ておく必要がある。

「投げるのか? それとも、入ってくるか」

 分かる。菊泉は手前の廊下を歩いている。奴だってボクが観客席のどこかに隠れることは読んでいるだろう。

「さあ、来い」

 ボクが菊泉なら、爆弾はなるべく部屋の中央に投げる。爆発の脅威範囲は半径約20メートルだろう。この位置は中央からギリギリ20メートル離れた所だ。ショッピングモールで戦った時は扉を遮蔽物にしてかわしたが、今回は距離で爆発をかわす。

 大丈夫だ。凌げる――

 秋彦は汗で湿る手をズボンで拭い、固唾を飲んでその時を待つ。

 入り口の扉が動いた。そして、ほんの少しだけ開き、隙間から手が伸びてくる。その手には、さっきの音響爆弾が握られている。

 来た! さあ、どこに飛んでいく?

 と、秋彦が身構えたその時、地獄耳に新たな音が聞こえてくる。砂嵐のような音。それが聞こえてきた瞬間、菊泉の爆弾を持つ腕がびくりと震え、すぐに扉の外へと引っ込んでしまった。

「なんだ……?」

 秋彦は全神経を集中させ、菊泉の身に起こったことを聞き取ろうと努めた。




「こんな時に!」

 トランシーバーの無線だ。鳴りっぱなしでは位置がばれる。すぐに扉を閉めて応答した。これにかけてくる相手は一人しかいない。桐島さんだ。だって会長はもう――


 菊泉は応答を躊躇った。

 今頃、観覧車に仕掛けた爆弾が爆発した頃だろう。当然、そのことは桐島さんも知ったはず。俺は何を言われるのだろうか。この裏切り者、となじられるのだろうか。

「仕方がねぇ。仕方がなかったんだ。でも俺は、あんたが殺されるくらいならこうなる道を選ぶ」

 会長の望みがこの空間にいる人間たちの全滅ならば仕方がない。選択肢は残されていなかった。桐島と生き残る。それが菊泉の選んだ道だった。それが叶うのなら、あんたに何を言われようが文句はねぇさ。……辛いけどな。

 菊泉は意を決し、応答のボタンを押す。

 だが、彼は動揺のあまり気づけなかったようだ。そのトランシーバーに表示されていた周波数が、彼のものではなかったことに。


『菊泉』


 その声を聞いた瞬間、彼の身体に震えが走った。

 馬鹿な……殺したはずの男の声。不気味に響くゆっくりボイスだ。

「か、会長……」

『生きているのが不思議かな? 菊泉』

「な、なぜ」

 会長が、生きていた。俺は、あの人を殺せなかったのか?

 でもなぜだろう。その事実を知って、安心している自分がいる。おかしい、腹をくくって一度は殺そうと決意したはずなのに。

 やっぱり心のどこかで俺は――

『お前がやろうとしたことは水に流そう! とりあえず話を聞け。頼みがある』

 景虎はまくしたてるように言った。何か妙だ。余裕が全くない。ぜえぜえと、息を荒立てているし。あの会長のことだ、間違っても自分を殺そうとした部下に対して「水に流す」などと言うはずがない。

 菊泉は訝しんだ。

「……何を企んでいるんです、会長」

『企む?』

「まさかあんた、桐島さんを……」

『違う、逆だ! 馬鹿者、なぜ分からない! 僕らは脅されている!』

 僕、ら? だと。まさか桐島さんも?

「脅されている? いったい誰に」

『真澄だ。安西真澄! 奴は桐島を倒した。とどめを刺されたくなければ、お前が亡骸を持って火葬場に来いと』

 にわかには信じがたい話だ。だが、景虎がこんな嘘を吐く理由がない。景虎は亡骸など眼中にないから、亡骸を持ってこさせようとしているのは彼の意志ではないはずだ。

 ならばやはり本当に真澄が二人に勝利し、人質にとったということか。

 一体どんな汚い手を使ったら桐島さんを倒せるんだ? 真澄の野郎……

「会長。そこに真澄はいるんですか?」

『あ、ああ』

「代わってください」

『しかし……ん? なんだ。お前っ』

 ガサゴソと大きな雑音が聞こえた。真澄が無理やり景虎から無線を奪い取ったのだろう。しばらくして、あの憎き真澄の声が返ってくる。

『よぉ~菊泉君』

「てめぇ……桐島さんをどうしたァ!?」

『桐島という男は今喋れる状態じゃない。安心しろ。お前が来れば命は助けてやるよ。亡骸を持ってきな』

「チィッ!」

『秋彦という男を追っているそうだね? そいつは周囲の部屋の音を盗聴できる法具を持っているから注意したまえ。ああ、それと、もう一ついいことを教えてやろう』

「ああ!?」

『そこは劇場ホールだよな? そこに会長の急所が隠されている』

 真澄の横から怒号が聞こえた。

『彼を殺したいならそれに音を浴びせることだ――』

 それからは激しい雑音にまみれ、それ以外の音が聞こえなくなる。景虎が慌てて真澄から無線を奪いに走ったようだ。その後無線は乱暴に切られた。

 状況は極めて最悪だ。急いで火葬場に行かなくては。桐島さんが危ない。

「くそっ! 一旦引くか? まずは火葬場に行って……」

 いやまて。

 秋彦は周囲の音を盗聴できると真澄が言っていた。奴は十中八九このホールの中にいる。もし盗聴できるのなら、奴には俺がすぐそばまで接近しているのが分かっているはず。逆に遠ざかるのも分かるはずだ。もっと言えば、さっきの会話も聞かれていたとしたら? 奴に俺の行き先が分かってしまう。いざ火葬場に辿り着いた時、真澄との戦闘中に邪魔が入るのは避けたい。

「やはりここで始末しておくべきか」

 菊泉はさっき投げかけた音響爆弾を取り出した。

 この部屋の広さから計算して、真ん中に投げ込めば部屋の端まで射程圏内だ。爆心地から遠ければダメージも減るが、少なくとも60以上は確実。奴の攻撃手段はそれで潰せる。

 戦術的にはこの爆弾を使わない手はない。だが、菊泉はここで足踏みしてしまう。

「真澄の野郎……会長の急所がここにあるとか言ってやがったな」

 会長が観覧車で死ななかったのは、急所である喉仏が会長の体の中になかった、というなら説明がつく。その急所があるホール内に音響爆弾を投げ込めば、会長を殺すことになるかも――

「クッ! 馬鹿が。一度やろうとした相手だ! 何を躊躇うことがある!」

 自分で自分が情けない!

 俺はいつからそんな甘い男になった。やると決めたらとことん非情にターゲットを葬ってきた元殺し屋だろうが俺は。

 そうだ。そんなんだから、俺はあの日も失敗した。それで死にかけたのを忘れたのか?

 菊泉は音響爆弾を握りしめ、ピンをつまむ。

 この爆弾は手榴弾と同じような仕組みだ。ピンを抜いて、レバーを放してしばらくすると爆発する。これをホール内に投げ入れろ。秋彦に有利に立つにはそれしかない。

 秋彦を殺せ。それで桐島さんを助けに行くんだ。

 そのために会長が巻き添えになろうが俺は。

 俺は……それでも。




 その失敗は実に単純なものだったが、殺し屋としては致命的だった。ターゲットはとある資産家の老人だった。老人が各界のフィクサー達との会合が終わった後の帰り道、タクシー乗り場にたどり着くまでのたった数分の間に、奇襲をかけて殺す。それだけの仕事だったのに。

 俺がタクシー乗り場で見たのは、彼の孫娘であろう、幼い少女と抱擁を交わす姿だった。彼のことを迎えに来ていたのだろう。少女は老人にこぼれるような笑顔を浴びせ、とても懐いていた。すぐそばには母親と思しき女もいる。なんて微笑ましい家族だ。

 そんな彼らを見た時、体が硬直したのだ。

 菊泉の腕なら、今の自分の位置からナイフを投げて老人の眉間に命中させることなど容易かった。しかし、それをやればあの少女の目の前で、老人は血を噴きだしながら死ぬ。その光景を想像した瞬間、菊泉は思ったのだ。

 あんまりだ、と。

 菊泉は誰かを殺す前に、必ず心の中で十字を切った。誰が相手でもそうした。所詮そんなものは気休めにすぎず、自分の精神の平穏のためにやっていることだと分かり切っていたが、やらずにはいられない儀式だった。

 でも今度ばかりは、いくら十字を切っても許されない気がしたのだ。あんな小さな少女の目の前で肉親を殺すのは。

 結局菊泉はナイフを老人の背中に突き立てることができなくなった。

 やがて、老人は菊泉の存在と手に持っているナイフに気づき、すぐに護衛を呼んだ。


「殺し屋向いてねぇのかな、俺」


 老人の護衛達に襲われ、傷つけられて路地裏に逃げ込んで倒れた。死にながら菊泉はそう思ったのだった。




 そして今も。菊泉はすでに失敗を犯していた。

 部屋の中に爆弾を投げ込めない。どうやっても、投げ込めなかった。それが会長の死につながるとはっきり分かっている。会長から無線で連絡があった時、ほっとしている自分がいた。それが俺の本心だ。一度助かった彼の命に、もう一度とどめを刺すのは無理だ。菊泉はその凶器を、静かにショルダーバッグの中にしまった。

 やっぱり、俺に会長は殺せない。

 彼は命の尊さを理解していた。そして、己の譲れない大切なものの存在も。だからこそ彼は捨てきれなかったのだ。

 尊い人の命を。そして、人としての情を。

 だからこそ、背後から迫りくる狂気。菊泉はその存在を全く予期できなかった。よもや――

「ほんと、こんなお人好しっているのね? 優しい狐さん!」

 彼女が自分を攻撃してくるなど、思うはずがない。恩人を殺そうなど思うはずがない。恩返しなどされたいとも思わないが、まさか救った人間に命を狙われるなど。菊泉には理解できなかった。

 そのナイフは確実に菊泉の背中を貫いていた。

「ぐはっ! も、森本ォ!?」

 菊泉はすぐにちえりの腕を払い、ナイフを抜き去った。ちえりが落ちたナイフを拾う。まずい、彼女から距離をとらなければ。

 ホールの中に入る。

 すると、そこには奴が立っていた。秋彦はもはや隠れることもせず、通路の真ん中で菊泉を待ち構えているではないか。

「ボクの勝利条件は一つ。ちえりさんがここに来るまで生き延びることでした。菊泉さん、本当は爆弾を投げられると覚悟していたんですよ? でも、あなたは投げなかった」

 なんで投げなかったのか、ボクは理解に苦しむなぁ~? ハハハハハハハハハ!

「ああ、会長さんを殺せないからですか? 見上げた忠誠心だなぁ」

「やっぱり聞いてやがったのか」

「ええ。この地獄耳、結構優秀でね。すぐ隣の部屋の音くらいなら簡単に拾える。あなたと会長の会話も、真澄さんとの会話も丸聞こえでした」

「菊泉、さっきは助けてくれてありがとう。でもごめんね? 正直、私はあなたが頭のおかしい人なんだと思ったわ」

 ちえりがナイフをくるくる回しながら、菊泉の背後につく。

「頭のおかしい人か」

「ええ、だってそうでしょ? なぜ敵を助けるの? あなたを殺そうとした私を。私が女の子だから? くだらない情が芽生えた? それとも、人助けをする自分がかっこいいって、悦に浸りたかったのかしら」

「頭がおかしいのは、てめぇの方だろ」

 そうだよ。お前が女だから。秋彦に裏切られて可哀想だと思ったから。その通りだよ。情けをかけたかったからだ。それで俺が気分いいから、助けてやったんだ。何が悪い?

 俺がおかしいのか?

 ……ふざけるな。

「俺は、てめぇらよりもずっと人間だ」

 森本ちえり。

 てめぇは情けをかけられるべき人間ではなかったようだぜ。

「死がお望みか、お嬢ちゃん。せっかく助けてやった命を捨てられるのは一番ムカつくぜ。少しはてめぇ自身の命に敬意を払ったらどうだ?」

「はぁ? 命? 敬意? 哲学的なこと言うね。ごめんなさい、全然意味わからないわ。ただの動く肉袋に払う敬意なんてないでしょ? 頭か心臓壊せばすぐ止まっちゃうのに」

 ちえりはナイフの切っ先を菊泉に向け、再び突進した。同時に秋彦も動く。彼の手にはクラッカー。挟み撃ちで菊泉を攻撃する。

 菊泉は瞬時にどちらを捌くべきか見切った。やはりクラッカーだ。あれは即死に繋がる凶器。彼は秋彦が音を鳴らす前に、その手を掴んで止めた。手首を捻り上げてクラッカーを落とさせる。だが、秋彦もそれを読んでいたのか、すぐさま紐を掴んでいた右手で人差し指と中指を立てて目潰しの攻撃に移る。

 菊泉はそれを身をよじってかわす。だが、背後から迫るちえりのナイフはかわせなかった。最初に刺された位置の数センチ横にもう一撃食らってしまう。

「チッ!」

 傷が浅い。菊泉はわざとその位置を刺させたのだ。

 瞬時に菊泉の後ろ蹴りが飛んできて、ちえりは手でガードせざるを得なかった。拍子にナイフを菊泉の背中に残したまま距離をとらされてしまう。

 菊泉は後ろ手にナイフを抜くと、それを逆手に構えて秋彦に迫る。

「おいおいおいおい~随分様になった構えだなぁ~」

「会長のボディーガードになる前はこいつをよく使う仕事をしていたもんでねぇ」

 激しいナイフの応酬が秋彦を襲った。後退しながら次のクラッカーを構えるも、前に突き出そうとするものならすぐにナイフで切り裂かれて使い物にならなくされる。やがて秋彦はステージの方まで追い詰められていった。


 パァン!


 背後からクラッカーの音。ちえりだ。彼女もいくらかクラッカーを持っていたらしい。今ので菊泉の腕の数値は0 5 2。何度も食らうとまずい。

「っだらぁああ!」

 ナイフを大振りで薙ぎ払い、秋彦を大きく後退させると、すぐさま背後に振り返った。ちえりが二本目のクラッカーを持って攻撃を仕掛けようとしてくる。

 ナイフを振って武装解除だ。菊泉は向けられたクラッカーを切断しようと横なぎを放つ。

 だが、ちえりはクラッカーを切らせなかった。腕を下げてナイフの軌道からクラッカーを逸らしたのだ。

「なッ!? このガキ……!」

 しかも、ちえりはナイフをかわそうともせず、そのまま前進してきたのだ。ナイフは無防備にさらされたちえりの顔面を横切り、深い傷を作った。捨て身の攻撃? いや、こいつの目は、そんな覚悟の据わった目じゃない。まるでそうすることが当たり前のような、多少顔面に傷ができた程度で怯む意味などないとも言いたげに。自分が今、切られて死んだかもしれないということすら理解していないかのように。菊泉は何か、得体のしれない昆虫を相手にしているような気分になった。

 ちえりのクラッカーの射程に入ってしまった。

 菊泉は何とか首元を防御し、バックステップでちえりと距離をとるが――。


 パァン!!


「グッ!!」

 終わったか?

 恐る恐る腕輪を見やると、数値は0 9 3。ぎりぎりセーフだが、かなりまずい。次の攻撃で死ぬどころか、自分でクラッカーを撃つこともできない。

 万事休す――そう思った時だった。

「うっ、うぅっ!」

 ちえりが呻き声をあげて、途端に顔を覆った。

 手の指の隙間からとめどなく血がこぼれてくる。思いのほか深く切り裂いたようだ。

「目、目が! 私の……目が!!」

 彼女はよろめいて膝をついた。これはチャンスだ。奴め、無茶な攻撃に出た代償はちゃんと食らったらしい。彼女の動きを止めることができた。菊泉はほくそ笑み、ナイフを手に秋彦に向かい合う。

「フン。そんなものもう怖くはない。あなたのダメージは恐らく相当なものでしょう。今度はクラッカーを切られない位置から爆発させてやる。威力は低いが、十分あなたを殺せるはずだ」

「へぇ? 試してみるか?」

 秋彦が迫る。ダメージが90を超えている今、クラッカーの爆発自体が致命的となる。秋彦は勝利を確信した。

 距離は2メートル。この距離で撃っても菊泉を葬るには十分だ。

 紐を掴む手に力がこもった。

「死ね!!」

 殺意のクラッカーの紐を思い切り引こうとした、その時。

 彼は、息ができなくなった。


 ヒュン! と風を切る音と共に、何かが飛んできたのだ。


 菊泉は元プロの殺し屋だ。そしてその技術は決して常人には真似できないものである。

 彼はナイフの切っ先をつまむと、ダーツを投げるような動きで秋彦めがけて放った。ナイフは回転しながら飛んでいき、寸分の狂いなく秋彦の喉を貫いたのだ。


「がはっ!?」


 ボクの、喉が!? これは、そんな……まずい!

 馬鹿な、ありえない……ガードする余裕もなかった。

「ぐっ! ごほっ! がっ!?」

 息ができない。

 血が、咳と共にあふれだしてくる。

「ぐあ…オォ……うげ、アアアア……」

 喉の異物は呼吸を邪魔し、切り裂かれた頸動脈から流れ出した血液が肺へと流れ込んでくる。秋彦は苦しげに喘ぐことしかできず、叫ぶこともなく静かに、もがき苦しんでいく。

「がぁ…キィ……ク…イズミィ~~~~~!!」

「久しぶりだぜ。コイツを使って人間を殺したのはよ」

 思い出したくもない感触だった。

 思えば俺が殺し屋を廃業して、桐島さんとボディーガード業につこうと決めたのも、殺しの仕事が性に合ってなかったからかもしれないな。

「つくづく俺は、甘ちゃんらしい。だがな、秋彦。てめぇのそんな姿見ても全然同情しねぇ」

「ハァーーーーッ ハァーーーッ」

「くたばりやがれ」


 嘘だ。

 ボクが死ぬ?

 そんな、そんなことが……!


 うぉああああああああああああああああああああああああ!

 ちくしょぉおおおおおああああああああああああああああああああああああああ!!


 こんなところで終わるのか!

 ボクは!

 ふざけるな! 冗談じゃない! まだまだこれからなのに! 蓮子は、ボクの蓮子を取り戻さなきゃならないのに!

 ちくしょう。いやだ、死にたくない。死ぬものか!

 死ねるか!!


 蓮子!

 蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子蓮子!!


 蓮子ちゃぁあああああああああーーーーーーーーーーん!!


「レンコォオオオ! ボクヲミロォオオオオオオオオオ!!」


 

 秋彦は声にならぬ叫び声をあげて血を吐き出し、そのまま突っ伏して倒れた。

 そしてとうとう彼は、ビクビクと痙攣するだけになってしまった。

「さて、と。あとはてめぇだ、森本ちえり……――」

 彼は思わず息を呑んだ。

 菊泉が振り返ったそこに、ちえりはいなかった。慌てて辺りを見渡すと、彼女は思ったよりも遠い場所に立っている。

 このホールの出口の前に彼女はいた。

「てめぇ!」

「勝負はすでに決まっていた。そう、私があなたの背中を不意打ちで刺したあの時にね」

 ちえりは手に持っているそれを、菊泉に向けて掲げ持つ。彼は息を呑んだ。

 音響爆弾だ。

「私は最初から、あなたをナイフで殺そうなんて思っていなかったわよ」

 ちえりはショッピングモールで菊泉のショルダーバッグの中に法具が入っていたのを確認していた。音響爆弾を普段そこにしまっているのも知っていた。

 ちえりが不意打ちを仕掛けたのは、ただ彼に接近するためだ。目的は一つ、音響爆弾を盗むこと。あとは戦いに興じているふりをして、秋彦に狙いが集中するのを待てばいい。その隙に自分は二人から距離をとる。

 ちえりはピンを抜き、爆弾を放った。綺麗な放物線を描き、爆弾は菊泉と秋彦の間にポトリと落ちる。

「本当にありがとう。馬鹿な狐」


 菊泉はほぅ、と短く息を吐き出した。

 爆弾が爆発するまで数秒か。なんだか、夢の中にいるような気分で、時間の進みが遅く感じる。もう少しだけ猶予がありそうだったので、彼は無線機を取り出した。




 もうろうとする意識の中、耳障りな雑音が聞こえてきてうっすらと目を開ける。景虎は震える手でその無線機を持ち上げてスイッチを押した。真澄に暴行されて耳鳴りがひどかったから、うまく聞こえるかは分からなかったが、その声は不思議とはっきりと聞こえてきた。

「会長、申し訳ありませんでした」

『……なんだ、またしくじったのかい? 菊泉』

 まったく、この狐は本当に僕をがっかりさせてくれる。

『とことん使えない子だったな、お前は』

「会長、最後に一言だけ」

『なんだい?』

「俺をそばに置いていただき、ありがとうございました」

 景虎は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

 何がありがとうだ。

 僕を殺そうとしたくせに、調子の良い奴だ。

『もういいよ。お前は解雇だ。拾ってやった恩も忘れるような子なんてくたばればいい。桐島と一緒に、どこかへ消えな』

「会長はこれからどうなさるおつもりで?」

『これから?』

 決まっているだろう。

 僕の望みはただ一つだ。

『僕はずっとここにいるさ。徐歌と共にね』

 会長らしい。

 きっとこの人はいかなることがあろうとその意志に変わりはないのだろう。菊泉は心得たように頷くと、ゆっくり目を閉じた。


「桐島さんによろしくお伝えください」




 無線機の向こう側から、すさまじい爆音と雑音が聞こえた。

 その直後、景虎の体は膨張してはじけ飛んだ。しかし、彼はそれに気づくこともなく永遠に徐歌のことを思い続けていた。たとえその身が朽ち果てようと、彼の魂は愛する娘の創り出したこの空間にとどまることを選んだのである。




 ***




 ちえりは爆発が収まったのを見計らって再びホールの中に入った。通路の真ん中に肉片となった菊泉と、秋彦が倒れている。

「あら?」

 秋彦、コイツ体が爆発していない。まだ生きているのか? しかし、どうも呼吸している様子はない。生気も感じられなかった。

 念のためちえりはクラッカーを構えて秋彦に近づいた。彼は身動き一つせず倒れている。つま先で体を仰向けに転がすと、喉から大量の血を流して白目を剥いている秋彦の顔が露になった。相当苦しんだらしく、苦悶の表情に歪んでいる。

 首筋に指をあてて脈を計った。

「……脈拍はない。心臓は止まっているようね」

 間違いない。死んでいる。

 どうやら音以外の方法で殺すと体は爆発しないらしい。

「っていうよりはむしろ、喉仏がやられて爆発する機能が失われただけかも」

 彼女がナイフを引き抜くと秋彦の喉から血が噴き出した。血が顔にかかり、ちえりは不快そうにそれを拭う。

 まぁ、何にせよ秋彦も始末できた。それだけが肝心なことだ。ちえりは彼らが持っていたショルダーバックを回収し、亡骸を二つ手に入れた。

「さて、亡骸を持って火葬場に行きましょうか」

 場所は大体把握している。秋彦と行動していた時に、学生たちが話していたのを盗聴していた。亡骸を手に入れた者は皆そこへ行くはずだ。

 ということはようやく、瀬山先生に会える……

「コクリと秋彦の持っていた亡骸は手に入れました。あとは先生が残り二つの亡骸を手に入れていれば、私とあなただけでここから脱出できるわ! まさに理想の勝利よ!」


 はははは、残念でしたね。黒狗徐歌。

 お前の亡骸は私と瀬山先生のために利用されるのだ。死んだお前には先生と話すことも触れることもできやしない。

「敗北を知れ、黒狗徐歌。このたいそうな空間を作り上げても、お前は私に復讐することすらできないのよ!」


 残る式の参加者は4人のみ。

 彼らは最後の決着をつけるために、火葬場へと集結する。




 つづく



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