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クワイエットルーム   作者: 冬司
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room11 手を伸ばしても、伸ばしても

 room11 手を伸ばしても、伸ばしても



 じっとりと、靴に血だまりがしみ込んだ。

 椅子の血はふき取ったとはいえ、床はまだべっとりと東太の残骸がこびりついている。

「ゆ、夢だ……これは夢」

 そう思わなければ、とうに吐いてしまっているだろう。こんな非現実的な状況だからこそ、この空想に浸るのは有効だった。瀬山はげんなりとした顔で隣の清蓮を見やる。彼女はその顔を見て吹き出した。

「ちょっと瀬山ちゃん! なんて顔してるんだい?」

「話しかけないでくれ、吐きそうなんだ」

 切実だ。

 清蓮はニヤニヤしながら、先頭車両の横についているバックミラーの装飾を見やる。ただの飾りだろうが、ちゃんと鏡がついていた。そこにはギリギリ、後ろに座っているちえりの姿が見える。

 ちえりはじっと、清蓮のうなじに視線を送っているようだ。かなり気味が悪い。

「ひえ~……厄介な奴に喧嘩売ったかも」

 もっとも、ちえりは所々詰めが甘いし、凶器がなければ腕っぷしも並程度。

 真っ向勝負なら瀬山が仲間にいる以上、負けることはないはずだ。だが、それでもあの目は不気味だ。このまま、永遠と機会を待ち続けられるような、昆虫のように猛然とした獲物への執着を感じる。相手を仕留め、喰うことしか考えていないカマキリのように。

 清蓮が少しでも隙を見せれば、その瞬間に鎌が喉に食い込んできそうだ。

「……瀬山ちゃん」

「あ?」

「何か見つかったかい?」


 瀬山は青い顔になりながら足で席の下を探っている。ブー! というブザーが鳴った。発車まであと2分と言ったところか。

 すると、瀬山の靴底に、何かが当たった。

 カサリ、という音に違和感を感じ、それを拾い上げてみる。見つかったのはクレジットカードと、一枚の写真のようだ。東太の持ち物だろう。先程武器を回収した時に見落としていたようだ。

「モリモト……」

 クレジットカードは、彼女のものか!? と、言うことはこの写真も……

 そして、瀬山は写真を見てゾッとした。

 

 自分の写真だったからだ。

図書館でノートパソコンに小説を打ち込んでいる姿が写っている。しかも、カメラ目線ではなく、明らかに盗撮されている写真。もちろん、これがいつ撮られたのかは分からない。なぜ、ちえりがそんなものを持っているのかも。

「発車まで5分って、案外長いよな」

 瀬山はちえりにばれないよう、こっそりと清蓮に写真を回す。

 清蓮は左手でそれを受け取り、視線だけ落として内容を確認した。

「そうだねぇ。ちえりちゃんは、こういう乗り物は得意な方かな?」

「……」

 ちえりは無言だったが、写真の存在には気づかなかったようだ。

「僕は得意じゃないな。子供の頃、親に遊園地へ連れて行ってもらった時、ジェットコースターに乗ってね。一生分叫んだんじゃないかってくらい叫んだよ。降りた時は腰が抜けた」

「ははははは! おいおい瀬山ちゃん、ここで死ぬんじゃないの~?」

「猿轡でも噛んでいるさ」

 他愛のない会話をして、ちえりの注意を逸らす。

なぜ彼女が僕の写真を……理由は分からないが、この写真は少なくとも彼女は自分のことを前から知っていたという証明だ。さらに言えば、盗撮するくらい僕のことを、監視していたということ。なぜここで会った時、あたかも初対面のように振舞った?

 ――いや、落ち着け僕。そもそもこの空間にいる人間は記憶が曖昧なんだ。僕自身、彼女のことを知っていたのに忘れているだけかもしれない。これだけで彼女が怪しいと決めつけるのは性急だ。

「森本さん?」

 後ろに振り返り、瀬山はちえりの様子を伺いながら尋ねる。

「あ、はい。何ですか? 瀬山さん」

 ちえりは瀬山の問いかけには素直に応じた。

「気分はどうだい? 大丈夫か?」

 すると、彼女はけろりとした様子で、はっきりとした口調でもって応える。

「はい。私は大丈夫です。まだ少し震えてますけど……」

 しかし、一度持ち上がった疑念というのはそう簡単に立ち消えはしない。そもそも問題なのは、彼女が僕を盗撮していたことではないか。その行為はどんな理由があろうと変だ。

 それに、ついさっき、同じゼミ室のメンバーを殺してしまった人間にしては、顔色がいいように思える。顔色で言うなら自分の方が青くなっているだろう。

「……そうか。シートベルト、締めた方が良いよ。そろそろ発車だ」

「分かりました」

 彼女はベルトをまさぐる仕草を見せた。瀬山はそのまま体の向きを前に戻すが、いつまでたってもベルトが締まるカチリという音が聞こえない。

 なんでだろう。

 ベルトは閉めないと危ないのに。なぜ彼女はベルトをしない。まるで、拘束されるのを防いでいるかのよう。

 森本ちえりが気になる。さっき清蓮が二人きりで何かを放していた時も、様子がおかしかった。ちえりは何かを隠しているのか。

 考えても答えは出ないが、ここはちえりを信じすぎるのは危険だという結論に達する。瀬山はもう一度横目で清蓮を見やる。その視線に気づいた彼女は、瀬山にウィンクした。今はとにかく、清蓮の言う通りこの席にある何かを見つけ出すことに専念するしかない。クレジットカードや写真の他に、何か怪しい物はないか。

 足を延ばし、それで探れる範囲全てを調べてみる。この小さな空間に物を隠すなら、椅子の下か、前方の足元のスペースしかない。

 もうすぐ発車するという焦りも相まって、瀬山はより激しく足を上下させる。すると、つま先が何か固いものに触れた。これは……座席下の奥に何かが貼りついているようだ。大きさは、あまり大きくはない。もう少し力を入れて蹴ってみるが、それでも動く気配がないところを見ると、ガムテープなどで頑丈に固定されているらしい。

 一体なんだこれは?

 もしかすると、東太はこれを狙ってこの場所まで来たのではないか?

 

 発車まであと1分ほどある。一度締めてしまったシートベルトを外し、足元に手を突っ込んで謎の物体を取ってみるか。行動するなら今しかない。瀬山は胴体をきつく締め付けるベルトの解除ボタンを押そうとした。

 鳴った音は、カチリ、というベルトが外れる音ではなかった。

 もっと荒々しい、大きな金属音だ。部屋に誰かが入ってきた。力任せに開けられた扉は、180度開き切ると壁にぶつかって跳ね返っていた。

「瀬山ァ!!」

 男は怒りの吠え声をあげる。

 トーンは落としたようだったが、その声は十分に響いた。

「か、神沢……っ!」

「あれぇ? おかしいな、キミはあそこで縛られていたはずじゃなかったっけ?」

 しかし、そこに迫りくるのは紛れもなくあの神沢俊。

 恋人を奪った者に。復讐の鉄槌を下さんと彼は向かってくる。その速さはまさに俊足だった。

「瀬山さん!? あの人は誰?」

「っ!」

 なんて言えばいいのか。

 あんな結果を引き起こしたのは、他ならぬ自分だ。彼の恨みを受けるのは当然の帰結。だが、瀬山が咄嗟に口走ったのは。

「敵だ!」

 もはや、神沢俊と分かり合える時は来ない。現実社会ならともかくこの訳の分からないサバイバル空間では、彼との関係などその単語で十分だ。

「だーから言ったじゃん。あの時殺しておけってね」

 俊は一目散にコースターのもとに走ってくる。

 すでに手にはクラッカーが握られていた。

「まて、おかしいぞ! あいつの武器はすべて奪ったはず……!」

 瀬山が異常に気付き、シートベルトを外す。このまま席に拘束されては危険だと思ったのだ。そして、その判断は正しかった。

 開け放たれた扉から、さらに二人の人物が現れたのだ。

 1人は知らない顔だったが、もう一人は知っていた。

「よぉ~瀬山君……また会ったな?」

「安西…っ!」

 真澄は拳銃を構えた。

「どうでしょう、真澄さん。この距離で3人行けますか?」

「少し遠いな……もう少し近づいて」

「あれ? ちょっと待ってください真澄さん! おーい! そこに座ってるのはもしかして、もしかしてぇ~~!?」

 真澄の隣を付いてきた秋彦は急に飛び上がり、走り出す。真澄は予期せぬ彼の行動に思わずたじろいだ。

「おい! このまま撃てばお前ら死ぬぞ!」

 秋彦の耳には彼の忠告など届いていない。無我夢中で走る彼は、俊の背中に追いつくほどの勢いだった。

 

 ブーッ! ブーッ!


 コースターが動き出した。

 俊は間一髪でコースターの後ろから2番目の列の席に飛び乗ることに成功する。呼吸を整えると、彼はじりじりとした動きで前方に肉薄してきた。

 それと同時に秋彦が、俊が乗り込んださらに後ろの座席に潜り込むことに成功する。その姿は俊以外に気づいた者はいなかった。

「きゃっ!」

 俊がすぐさまちえりの座席を乗り越えてきた。間近にドスンという衝撃を受けて、ちえりは悲鳴をあげる。

「せ、瀬山ぁ……清蓮…てめぇらだけは許さねぇ! この手でぶっ殺してやる!」

 俊はちえりの前の座席の背もたれを乗り越え、先頭車両に迫ろうとする。瀬山は瞬時にクラッカーを取り出して背後に狙いを定めるが、だめだ。ちえりと俊の距離が近すぎる。

「おいおいみんなー。シートベルト締めないと危ないよ? 分かってんの? これさ、ジェットコースターだよ?」

「そんなこと分かってる! だけどこいつを止めないと!」

 コースターが徐々にスピードを上げ始める。緩やかな坂道を上がっているように感じられた。本格的に始まるまで時間はどれくらいだ?俊を倒すまであとどれくらい猶予がある?

「瀬山ちゃん、アタシはシートベルトを外さない」

 彼女は、瀬山の左足をしっかりと支えた。

「アタシがキミのベルトになってあげればいい。忘れんな、今はアタシ達は二人だ。協力しようぜ? 絶対離さないから、安心して。早くそいつら倒しちゃってよ」

 ね?

 彼女はにこりと笑いかけた。この状況でよくもそんな余裕があるなと舌を巻く瀬山だが、なんとなく、勇気が湧いてくるように感じた。そうだ。支えがあれば、しばらくは戦える。奴らはバラバラだ。圧倒的に僕が有利!

「瀬山さん!」

「君はシートベルトを締めろ!」

 ちえりに檄を飛ばすと、その気迫に押されたのか彼女は今度こそベルトを締めた。その時、何故か悔しそうに清蓮の席を睨んだのはなぜか。今はその理由を考える余裕がない。瀬山は目の前に迫る敵に集中した。

 俊はすでに、ちえりの隣の席で立ち上がっていた。そして瀬山と対峙する。

「森本さん! 喉元を守って蹲ってろ!」

 クラッカーを引く姿勢に入る瀬山。しかし、動きは俊の方が早かった。俊はクラッカーを隣のちえりに向けた。

「ははは、この女もあんたの仲間か? 瀬山。女はべらすのが好きだなてめぇは。で、お前は今度は誰を犠牲にする?」

 コースターの上昇は止まらない。

「無駄だぞ神沢。場所が悪かったな。このまま立っていればお前はコースターのスピードに耐え切れず吹っ飛ぶ」

 ここでかろうじて戦えるのは、清蓮に足を支えてもらっている僕だけだ。

「ジェットコースター乗ったことないのか? スタッフは散々確認するだろ? 安全ベルトの着用を。それだけ危険ってことさ。全く、よくもそんな危険な乗り物を好き好んで作るよな。エクストリームスポーツって知ってるか? 高いところからジャンプしたり、落ちたら死ぬような山を登ってみたり。理解できないよな? いつもそんなことを考えてるんだぜ人間は。ただ、スリルを感じるためだけに。逆にスリルを感じるためなら、人間はどんなに馬鹿なことだって思いつくってことさ」

 だが、瀬山の考えを読んだかのように、俊はせせら笑って言った。

「瀬山さんよ、長話して時間稼ごうって魂胆が見え見えだぜ? 俺はエクストリームスポーツをやらかす気もないし、スリルだって求めちゃいない。ただ、待っているだけさ。俺にも仲間がいるんだぜ? この指を対価に得た、いかれた仲間をな!」

 俊の親指は丸々かけていた。

 どうやって手錠をかいくぐったのかこれで分かる。目の前に掲げられた彼の4本指に気を取られたその瞬間だった。ちえりがまた悲鳴をあげた。

 後ろの座席から伸び出てきた手に、髪の毛を鷲掴みされたのだ。思い切り髪を引っ張り、蹲るちえりを上に向かせる。

「い、痛い!」

 まずい……! 瀬山は突如現れたもう一人の敵に四苦八苦するしかない。

「瀬山ちゃん!? 何が起きてるんだい?」

「もう一人だ! もう一人乗っている!」


「蓮子ちゃ~~ん! そこにいるんだよね!? ね!? ボクですよ! 音無! 秋彦っ!! ヒッヒヒヒヒヒヒヒ! やっとだぁ~! ボクはこの瞬間を待っていたんだぁ~!」


 途端に、瀬山の足を握る彼女の手の力が強くなった。

「清蓮?」

 あまりにも強く、握られている。怖いものを見た子供が、母親の体に抱きついているような。支えているというよりは、むしろ……清蓮が僕の足を支えにしているかのような。そんな感触を受ける。

「音無……」

 今の甲高い引きつけのような笑い声は。間違いない。

 奴だ。

 清蓮は体をよじって、背後を確認した。

 そこには確かにあの男がいる。秋彦は親指をしゃぶり、唾でべとべとにしながら清蓮を凝視していた。

「ヒヒッ! 大学の頃より可愛くなりましたね蓮子ちゃん。でも、ボクは前の方が好きだなぁ……メガネかけてた方が、良かったよ。文学少女っぽくてさ! へへへ」

 清蓮は瀬山のポケットに手を突っ込んだ。

「清蓮!?」

 そして、すぐに目当てのものを取り出す。小型目覚まし時計。彼女はそれを5秒後にセットし、後ろへ投げた。

「くたばりな、音無『先生』」

 歪に口角を傾けた鼠のマスコットが飛んでいく。だが、秋彦は慌てず、ちえりの髪の毛を掴んだままそれを片手でキャッチした。そして、すぐさまそれをコースターの外へ放り投げる。目覚まし時計は坂を下って転がり落ちていき、アラームが鳴り響くころにはすでに射程範囲を外れていた。

「駄目だよ蓮子ちゃん。こんな狭いところで目覚まし時計は」

 そう、秋彦は知っていた。

 地獄耳で、彼女と瀬山が初めて相対した状況を聞いていたのだ。当然、彼女の法具の効力もお見通し。

「お前は何者だ?」

 瀬山はクラッカーを俊に構えたまま秋彦に尋ねる。

「ああ! 自己紹介が遅れました! ボクの名前は音無秋彦。小説家です! 元ね……君は知ってるかな? Merry show down box!!」




 ――烈火のごとく照り付ける太陽が真上に。最高気温30度を超えるこの猛暑の中では外は愚か、密室の中は灼熱地獄の様相を見せ始めていた。

 そう、ここはまさに地獄。

 俺は地獄の底に閉じ込められていた。

 空調が切られ、なす術もなく今の状況ただ無意味に分析する。分かることと言えば、自分がとてつもない窮地に追い込まれているということだけ。その時、誰かが悲鳴をあげた。

 甲高い、金属がこすり合うような音。否、それは悲鳴ではなかった。上から聞こえたのだ。俺たちが閉じ込められている箱の外から聞こえた。

 やがて音は大きくなり、箱全体が揺れたのだ。俺たちは――



 そう、確かそんな冒頭だった。さして惹かれもしない書き出しだったな、と瀬山は密かにせせら笑う。

 秋彦の口から出てきたのは、あのクソつまらないむかっ腹の立つ小説だったのだ。

「それがどうした。あんたが書いたとでも?」

「ヒヒヒ、まさにビンゴ。そう、あれはボクの処女作だ。同時にボクの、小説家としての誇りが何もかも打ち砕かれた、呪われた作品ですよ」

 コイツも、プロ小説家だと?

 ここは文字書きの溜まり場か。瀬山は訝し気に思った。

「音無! 与太はいいからさっさと攻撃しろ! 瀬山は人質とられりゃ何もできない臆病者だ。俺がこの眼鏡女にクラッカー突きつけてるうちに早く!」

 話を続けようとする秋彦にしびれを切らした俊が、彼をせっついた。コースターの速度は収まり、今は平らな道を走っている。

 もはや、あと10数秒で『くだる』はずだ。とにかく時間がないということは、ここにいる全員が理解しているはずだった。 

 しかし、秋彦は満面の笑みをうかべ、俊に言う。

「ボクに口出しするな、ガキが」


 秋彦は彼の胸ぐらをむんずと掴むと、いともたやすくちえりの拘束解いて、その手で俊の顔面を殴った。

 突然すぎる彼の行動に、俊は抵抗する術もなかった。クラッカーも取り落とし、ただ殴られるしかない。今ならこの二人をまとめて葬れる――そんな考えが頭によぎった時だった。秋彦は俊の襟首をむんずと掴んで持ち上げ、自分の前方に盾にするように抱えたのだ。そして、自分はどっかりと席に座る。

「クラッカーの攻撃力はギリギリ致命傷を与えられる程度。壁一枚挟めばボクにその音が届くことはない。ヒヒヒ、戦力増強だよ、まさに、君を仲間にすることでボクの防御力が上がったてことだ! ヒッヒヒヒヒ!」

 ここで撃っても秋彦は殺せない。二発目を打つ前に、秋彦に攻撃される。しかし、どちらにせよ瀬山は直接人を殺す勇気がなかった。まして俊を殺すことは。

 だが、瀬山が黙っていても結果は同じだった。

「瀬山ちゃん!」

 いきなりバランスが崩れる。

 清蓮が足を引っ張ったのだ。瀬山は座席の中に倒れた。コースターが斜めに傾く。そして、一気に急降下した。

 ゴオオオオ、という風の音が反響し、トンネルへ侵入する。高速で動くコースターに体が持って行かれなかったのは、清蓮が支えてくれたことと、何とか座席の下に滑り込んだことで凄まじい風を一身に浴びることがなかったためだ。


「あははは、あっははははははははは! これは、いい風よけだぁ~~~!」


 秋彦は、目の前に立たせた俊を自分の風よけの盾にしているらしい。俊は風圧に耐え切れず、白目をむいて気絶していた。体が後ろに逸らされ、肌から血色が失われていく。秋彦は俊を完全に物のように扱っていた。激しい揺れと風圧を自分の代わりに受けさせる。

 

「蓮子ちゃん、お喋りしようよ~! ボクを無視するなよ。なぁ、君はボクの分身じゃないか! 君はボクで、ボクは君だ。へへへ、あの呪いの作品が生まれてからボクらは、切っても切れない絆を得たんだ。蓮子ちゃん。君は、ボクが失った小説家としての全てだ。君がプロとして得られた名声も全て、ボクと共有すべきものだよね」

 清蓮は、彼の話に一切応じず、ただ黙って瀬山の体をコースターのGから守っている。

「おーい、蓮子ちゃん? 聞いてる? ボクの話。ねぇ、蓮子ちゃん。蓮子。蓮子……聞けよ。その忌々しい男を放して、ボクの方を振り向けェ!!」

 秋彦は力任せに、足で前の席を蹴りつけた。

「ねぇ、音無さん。見て分かんないかなぁ?」

 コースターの動きが弱まった。第二の山場を迎えるために、再び上昇を始めているのだ。瀬山はよろよろと自分の席に着こうとしたが、途端に清蓮に腕を捕らえられて引き寄せられた。そのまま瀬山は流れるように、彼女の膝の上に座らせられる。

「ちょ、清蓮!?」

 この狭さで二人乗りはかなり窮屈だ。しかも、清蓮にはシートベルトがあるが、この状態では自分の身を守るのは清蓮の腕しかない。

「清蓮! 放してくれ。自分の席に戻らないと!」

「へへへ、大丈夫さ、これくらい。このジェットコースターは空中一回転したりするエグいアトラクションじゃなさそうだしね。……もうちょっと、ここに座ってなよ瀬山ちゃん」

 そう言うと彼女は、瀬山の腰に腕を絡ませた。

「見えるかい? 音無先輩。アタシさ、オマエに好意どころか、興味も関心もないんだよね。まぁ、最初からだけど」

 俊の襟首を握る手が、薄ら白く骨ばっている。あらん限りの握力をこめて、秋彦は拳を握る。絶えずうかべられている歪んだ微笑に、ガリガリという歯ぎしりが混じっていた。

 ――背もたれ越しに、二人が密着していることが分かる。一緒の席に座って……

瀬山とかいうどこの馬とも知らない男が、ボクの大事な人に触れている。その事実を目の当たりにし、秋彦は思考が黒く塗りつぶされていく感覚を味わっていた。

「今、アタシ瀬山ちゃんと付き合ってるんだ。せっかくのデートなんだけど、邪魔しないでくれる?」

「つ、付き合ってる? あ、あっはははははは……その男と? 君が? あはは、あはははははは……」

 

 再びコースターは急降下を始めた。

 凄まじいスピードに、瀬山は思わず目を閉じる。だが、吹っ飛ばされることはなかった。清蓮が瀬山の体をしっかり抱きしめ、繋ぎとめてくれている。

「清蓮……」

 どういうつもりだ。あんた……

 秋彦を挑発するためだけに。そんなことを言ったのか?

「清蓮、あんた何を考えて」

「なぁ~瀬山ちゃん。アタシさ、また一つ思い出しちまったよ」

 彼女はそう言うと、背中に顔を押し当ててくる。訳が分からず動揺する。

「思い出した? 何を?」

「大丈夫。キミも必ず、思い出せる」

 コースターはそれから、ノンストップで走り続けた。一回目の山場を上回るスピードだ。これには誰も、席を立つことなどできなかった。ただ一人、『立たされている』哀れな人間は、強力な風を一身に受けたことによって凍傷のような症状まで出始めていた。


 瀬山はひしひしと感じてた。

 背後から得体のしれない殺気のような気配を。それも、一つや二つではない。清蓮と一緒に座っているこの状況を作り出したことが、よからぬ方向への引き金になったように思えた。

 危険だ。本能がそう訴えかける。

 しかし、瀬山もしっかりと彼女の手を握り返していたし、そうしないと激しい揺れに耐えられそうになかった。いや、本心から言えば、自分は決して嫌ではない。この状況が、まんざらでもないことに気づいている。単に女性と近くにいるから、という理由ではない。

 もっと、精神的に、彼女と共にいるこの空間が、心地よく感じたのだ。

 そう感じるのはなぜなのか。

 瀬山にはまだ記憶のピースが足りなかった。




 コースターが終着点へ近づいた。

 スピードが落ち、やがて停車してしまうだろう。すでに、足場が見えてきた。ここはどうやら、別の部屋だ。読み通り、このコースターは次の部屋への移動手段になっていたらしい。

 瀬山は自分がやるべきことを分かっていた。このコースターが停まったと同時にやることだ。それは。

「奴らの先手を取ること……!」

 もはや、背後の殺気は爆発せんとばかりに膨れ上がっている。すぐに行動に移れるのは、シートベルトをせずに清蓮の膝の上で座っていた自分。そして、俊を盾にしていたおかげでシートベルをつけずに済んだ秋彦だけだ。

 刹那の見切りだ……どちらが先に仕掛けるか。コースターのスピードはまだ速い。ここで立ち上がりでもすれば死ぬ。いや、完全に停車するまでは動くことはできない。バランスを崩せばその時点でアウトだからだ。

 互いに考えていることは一緒だった。即ち、コースターが停まった瞬間に全ての勝負が始まる。瀬山はポケットの中の武器を握りしめた。


 コースターがもうじき停まる。

 瀬山には一つ懸念される点があった。それは、ちえりの存在である。

 どうしても気になるのだ。先の写真が。それに、今感じている殺気は秋彦のものだけではない。獲物をつけ狙うカマキリのような、獰猛な殺意。もっと言えば視線を感じるのだ。真後ろから、つまりはちえり本人から感じられる。

「森本さん……君は一体…」

 コースターが減速し、駅に差し掛かる。今はちえりへの疑念を解決している暇はない。

 足場が近づいた瞬間、秋彦は俊を足場に投げ出して、自分もそこへ身を投げた。まずい、先に地の利を取られたか!

 秋彦はYシャツの襟元から何かを取り出している。それを確認する余裕はない。

「行ってくる」

「気を付けて」

瀬山も急いで、足場に飛び込んだ。

 秋彦はもう体勢を立て直し、こちらに近づいてくる。手に持っている物を確認できた。

「あれは……」

 三角形に折られた新聞紙。

 まさか、あれは紙鉄砲か! 本当にあれを武器にしてくるとは。清蓮の言葉が頭をよぎる。所謂、ナイフ戦法……秋彦は近接戦闘を選んだというわけか。

 秋彦は首を捻って音を鳴らすと、地面を蹴って凄まじいスピードで瀬山に迫る。瀬山の法具はクラッカーと、東太の残骸から発見できた、彼に持たせていた小型目覚まし時計しかない。

「ッシィ!!」

 速い!

 こちらが武器を取り出す前に、秋彦は目前に迫っていた。そして、鋭い一撃を放つ。


 シパァアアン!

 

 思いのほか大きい音が鳴った。間一髪顔を逸らして事なきを得たが、もろに喰らえばどうなるか。瀬山は腕輪を確認する。0 5 4 デシベルの威力はそうでもないが、問題はこれが蓄積されるということ。紙鉄砲の弾数は無限だから、食らい続ければ確実に死ぬ。

「ヤバい……見かけによらず強い武器だ!」

 秋彦は目をぎょろぎょろむき出し、狂気的な笑い声をあげながら襲い掛かる。

 

 シパァアアン!

 

 この攻撃は見切った。瀬山は大きく後ろにジャンプしてかわす。ダメージは0 6 0、まだ大丈夫だが……50を超えると回復が遅いのが厄介だ。

「あははははは……瀬山さん、逃げるばかりではボクを倒せないよ?」

 秋彦は紙鉄砲を折りたたみ(リロード)しながら嘯く。

「君を葬ることができれば、蓮子ちゃんはまたボクのことを見てくれるに違いない。……ああ、そうとも! ついさっき出会ったばかりの男が、彼女に触れるなんて許されないことなんだよ。蓮子ちゃんに触れていいのはボクだけだ。だって彼女は、ボクの女なんだからぁ~!!」

 死ぬかもしれないというのに、かなりの声量で喋る奴だ。この男は、どう見てもいかれている。ヤク中の犯罪者がバッドトリップをキメているような顔をしている。瀬山は吐き捨てるように言った。

「誰がお前の女だ。気持ち悪い。清蓮は確かに頭のねじがぶっ飛んでいるが……素晴らしい才能を持った作家だ!」

 少なくとも、お前よりはな。

 秋彦先生?

「エレベーターの話だったか? 読んだことあるぞ、あれ。暇つぶしに古本屋で108円で買った、薄っぺらい文庫本だ。内容はないわ、落ちもないわ。ただ人が死んでいくだけの暴力。しかも、最後は意味深に伏線を残したまま終わっていたよな? 続きでも書く気だったのか、あれは。ハッ。やめておけよ。あんなひどい小説、続けた所で誰も読まない」

 Merry show down boxとかいう、あのくだらない小説を書いたのが秋彦だというのなら、全くの金の無駄をさせられたとしか言いようがない。そんな小説しか書けない奴が、彼女に近づこうとすることさえおこがましいように思えた。早い話が、瀬山は秋彦に対するひどいムカつきを覚えていた。

 なるほど、字書きの性格は文章に出るらしい。ムカつく文章を書く作家の人格も、たいそうムカつくのだと初めて知った。

「……この野郎、黙って言わせておけば」

「けなすなって? 馬鹿言えよ。お前はあれで金を取ったんだろ? お前は素人小説書きじゃない、プロなんだろ? なら、金を払ってあの本を読んだ客である僕は、お前の小説に対してものを言う権利があるはずだ!」

「黙れっつてんだろうが!」

 いきり立った秋彦が再び紙鉄砲を手に迫る。

 だが、今度は瀬山も武器を出して応戦した。その武器はクラッカーでも、小型目覚まし時計でもない。

 それを振るのは躊躇があったが、クラッカーよりは安全なはずだ。

 横一線に薙ぎ払われたそれは、秋彦を驚かせるには十分な効果があった。それは、東太の席に落ちていたナイフ。相手が近接で来るなら、こちらは本物のナイフ戦法を取らせてもらうことにする。

「ナイフ…そんな凶器をどこで手に入れたんです?」

「後輩が持っていてね」

この空間に訪れた者は皆、着の身着のままだ。だから、常に身につけているだろう衣服や、それに準ずるもの、例えばメガネやコンタクトも、最初から衣服と一緒に装備品として空間に持ち込むことができると、秋彦は考えていた。

現に秋彦は愛用のJPSとライターはいつでも肌身離さず持っていたため、この空間に来た時もポケットに入っていたままだったのだ。

 恐らくあのナイフも、同じような条件で誰かが持っていたに違いない。この空間には、音を出すアイテム以外の武器は存在していないから、そうとしか考えられない。だとすると、ナイフの持ち主は常に肌身離さずナイフをポケットに入れているというわけか。秋彦は笑いが止まらなくなった。どうやら、存外。頭のおかしい奴は他にもいるらしい。

 瀬山のナイフは容易にかわすことはできる。

 ただでたらめに振り回すしか能がなく、秋彦の足止めをする効果しか得られなかった。瀬山はやはり甘い。殺す気で切りかかっていない。殺意のないナイフなど、何の脅威でもなかった。秋彦は攻撃を軽快なステップを踏んでかわしながら反撃の機会を待った。

「後輩、ねぇ……そういえば蓮子ちゃんはボクの可愛い後輩だった。風間文芸大学、学年は一つ下だったかな」

 風間文芸……!

 清蓮も秋彦も、あの大学のOBだったということか。

 自分と東太、ちえり、そして清蓮と秋彦までもが同じ大学の出身者だった。これはきっと意味がある。秋彦は紙鉄砲を折りながら話を続けた。

「プロデビューしたのもボクが先だったのさ。ふふふ……そうだね、認めよう。ボクには才能がなかった」

 確かに自分は本を出した。だけど、その一冊以上に良い作品を書くことはできなかったし、その一冊でさえまともに読者から愛される作品にはならなかった。彼の文才は、独りよがりなまま完結してしまっていた。

 しかし、その一冊は彼の最高傑作であることは間違いない。

「だから……へへ、そうとも。ボクは彼女の作品を奪った」

 秋彦の攻撃にははっきりとした憤怒の念がこめられていた。瀬山は新聞紙めがけてナイフを振り、音を相殺する。

「彼女には、ボクが持っていないものが備わってた。ボク以上の才能! 成長性! だから必要だったんだ。彼女の力そのものが!」


 Merry show down box

――あの最高傑作ですら、ボクの力で書けたものじゃない。


「お前だったのか……彼女の処女作の原稿を奪ったのは」

「ふふふ、蓮子ちゃんから聞いたのかな? そう、『4.5㎥の処刑場』――あはははは、いい作品だったよ。だからあれを……」

「改悪した」

「うるせぇよ! リメイクだよリメイク! 話の大筋を参考にした程度だ!」

「もしも『4.5㎥の処刑場』がお前に奪われていなかったら、彼女はもっと早くプロになっていただろうな」

 本当に、最低な野郎だ。

 瀬山は心の底から、秋彦を軽蔑した。

「ヒヒヒ! でも結局は、突きつけられたわけだよ。ボクは作家になれないってね! 真に面白い作品を書けるのは、蓮子ちゃんの方だった。

でもさぁ、考えてみてくださいよ? 大学の文芸サークルで初めて彼女に会った時、小説を書くように勧めたのは誰だったと思う? このボクだ!」

 今となっては、遠い昔のように思えるが、確かに秋彦は覚えていた。

 大学時代。

 小中高と暗い思い出しかない秋彦にとっては、かつてないほどのハルシオン・デイズだった。そこで出会った、一人の女性。趣味の奴もいれば本気でプロを目指す奴もいた、文芸大学の文芸サークル。他の運動系サークルからはオタクの集まりなどと揶揄されるような場所に集まる女子の中では異彩を放つ不思議な魅力が彼女にはあった。清水蓮子は今と比べると少し大人しい風貌をしていたが、周囲の女子と比べようもなく美しい。少なくとも、秋彦の目にはそう見えたのだ。

初めて恋した女の子に、自分が唯一得意だと自負していた小説を紹介した。彼女が小説を書き始めたのは、間違いなくそれからだ。プロを目指そうと思ったのも、その時からのはずなんだ。

そうとも、ボクが彼女を、プロ小説家にするきっかけを作ってあげたのさ。

「ボクがいなきゃ今の彼女は存在しないんだ! ボクの破れた夢は、代わりに彼女が叶えてくれる! ボクは、小説家清蓮の生みの親であり、清蓮の処女作を世に出したのもボクなんですよぉ!!」

 ――小説家清蓮の始まりは、このボクだ。ボクが生んだ……


 唾をまき散らしてまくし立てる秋彦に、瀬山は思い切りナイフを振り下ろしてやった。秋彦は咄嗟に持っていた新聞紙でガードしたが、武器である紙鉄砲が切り裂かれた。無残にも大きな切れ目が入り、秋彦の目が動揺を隠しきれずに激しく蠢く。

「勘違い妄想男が……そんなわけないだろう。風間文芸大学はもともと作家志望者が多く入学する大学だ。何がきっかけだよ……彼女は最初からプロになるために大学に入ったんだろう」

 小説家清蓮の人生に、お前は何一つ影響を与えていないよ。

「彼女の言う通りだ。お前は清蓮にとって何でもない。ただのストーカー男だよ」

「黙れ……黙れ黙れ! うるさいんだよこのど素人が!」

 彼には必要だった。

 かつて才能がないとなじった後輩の小説が世間に認められるのを見ながら、崩壊しそうになる心をかろうじて繕うための逃げ道が。

 Merry show down boxはいわば、彼女との共同合作。秋彦はその意識を強く心に刷り込んでいた。

「それで、彼女に自己投影して心の均衡を保っているとでも?」

 ばかばかしい。

「彼女の名声は彼女のものだ。彼女の小説は、読者のものだ。お前みたいな奴が、プロを名乗るなんて本当に虫唾が走るよ。僕だって……目指していたんだ。夢を追って、夢破れて。それでも必死に夢の残骸に掴まりながら生きている。だがな、秋彦。いくら追い詰められたって、僕は他人の作品を横取りしたりはしない! そうまでして、プロになろうなんて思わないから……」

 ひょっとすると、僕にはそれが足りないのかもしれないが。

 構うものか。

「はは、やっぱり僕はネット小説書きが性に合ってるのかもな。金をとれる小説を目指すより、僕が書いていて楽しい小説を書く方が、好きなんだ」


 瀬山は再び、渾身の一振りを放った。

 紙鉄砲が音を打ち鳴らす前に、瀬山のナイフは銃口を切り裂いた。音はもう、完全に鳴らない。開き口が真っ二つになり、虚しく風を通すだけの空気口に成り下がった。秋彦は下唇を血が出るまで噛み、新聞紙を捨てた。そして、両手を上げて後ずさりする。


「ふー……ちょっと落ち着きましょうか。クールダウン、クールダウン。深呼吸して呼吸を整えよう、さあ、頭を冷やすんだ秋彦…ふーっ、はーっ……」

 彼は襟元を手で仰ぎながら深呼吸を繰り返す。それが終わると、彼は幾分か落ち着きを取り戻したようで、また不敵な笑みをうかべている。瀬山はじりじりとナイフを片手に秋彦へと迫る。


「やめましょうよ瀬山さん……君はボクを殺せない。武装解除が精いっぱいでしょう? それに、ボクにもう武器はないですしね」

「……ッ」

 図星だ。瀬山にナイフで秋彦の首を掻っ切れるような冷徹な心はなかった。

「ふふふ、それにもう一つ。ボクとの戦いに夢中で、君は一つだけ見落としていた。彼女のことを」

「清蓮のことか? 彼女が何を……」

「違いますよ、君の連れのこと」


 ハッと瀬山はコースターの方を見る。

 そこでは、清蓮とちえりが激しくもみ合っていた。ちえりがシートベルトを解き、前の席の清蓮へ襲い掛かっている。右手で彼女の髪の毛を引っ張り、クラッカーの紐を口で咥えて左手でつかんで、清蓮の喉元に狙いを定めている。

「何やってんだあの二人!?」

 信じられない光景だった。

 あのおとなしかったちえりが、能面のように不気味な無表情で淡々と清蓮の息の根を止めようとしていることに。瀬山は彼女の豹変ぶりに戦慄した。

 豹変というよりは、本性を出しただけなのか。あれが本当のちえりの姿だとすれば僕は、とんでもない勘違いをしていたことになる。東太が死んだのは自業自得だったのではない。黒はちえりの方だった。


「ボクは何となく、気づいていたよ。あのメガネちゃんは……ボクと同じ。誰かに恋い焦がれるあまり、周りが見えなくなるタイプのようだ。あっははははははは。まぁ、共感はできますがねぇ、できれば彼女を応援してあげたい、が。相手が問題だ」

 瀬山は今にも駆け出しそうになるが、間に合わないことに気づいた。コースターが再び唸り声をあげ始めたのだ。コースターは一周する。また、出発地点に戻るのだろう。

「まずいですねぇ……出発地点には乗り遅れた真澄さんがいらっしゃいます。真澄さんの法具はとても強力だよ? 知ってると思いますが」

 

 このままだと清蓮の命が危ないのは一目瞭然。たとえちえりの猛攻に耐えられたとしても、次にコースターが停まった場所で待ち受けているのは真澄の拳銃。駄目だ。どちらにせよ助からない。

「く、くそっ!」

 油断していた……どうして彼女をちえりと二人にさせた。ちえりを疑う根拠はいくつもあったというのに!

 焦る瀬山。とにかく手をこまねいているのだけは耐えられない。彼は再びコースターを追いかけようとしたが、秋彦が再び声をかけた。

「瀬山さん。ここは協力しませんか?」

 目を細めてにっこりと笑いながら、そんなことを嘯いてくる。

「何が協力だ! たった今殺し合ったんじゃないか。そんな奴と何を協力しろと?」

「もう分かっているでしょう? ボクは蓮子ちゃんが好きです。自分を愛するように彼女を愛している。君もでしょ? 彼女が死ぬのは見過ごせない。……彼女を助けるのは利害の一致だ。ボクと協力すれば蓮子ちゃんを助けられる」

「協力って何を……」

「そのナイフをボクに貸してくれ。ボクの腕なら、投げてちえりさんの脳天に命中させられる」

 秋彦はダーツを投げるような真似をした。

「失敗しても、突然凶器が飛んでくるんだ。ちえりさんは確実に驚く。それくらいの隙があれば、彼女ならコースターから脱出できるはずですよ」

 

 ……ナイフを、渡すだと!?


 そんな危険を犯せというのか。

「さぁ、何を迷っているんだ? それとも君は、この距離でちえりさんに投げナイフを命中させられるとでも?」

「それは……たぶん無理だ」

「ボクならできる。ほら、時間がない! ボクを信じてナイフをこっちに」

 秋彦に武器であるナイフを渡す。殺し合ったばかりの人間と束の間の握手をして、信頼する。

そんな危険を犯すなど……

「馬鹿じゃないのか秋彦」

「……はい?」

 そんなこと、誰がするんだよ。あまりにもおめでたすぎる展開だ。


「お前の小説じゃあるまいし」


 瀬山はナイフを思い切り、秋彦の方に投げつけた。流石の秋彦もこれには仰天し、咄嗟に手で顔をかばうことしかできない。ナイフは彼の右腕に深く刺さった。

「ぎ…ぃいああああああああああっ! せ、瀬山ァー!」

 

 瀬山はポケットから小型目覚まし時計を取り出すと、20秒後にセットする。

 そして、コースターに向けて放り投げた。そう、これならちえりに直接命中させるなどという高度な技は要求されないし、コントロールも必要ない。ただ、コースターの近くに落ちればそれでいいのだから。この空間では、それで致命傷になる。

 瀬山が投げた目覚まし時計は綺麗な放物線を描いて飛び、ちえりの真横の席に落ちる。

 ちえりは物音に気付き、そちらを見やった。

「これって……!」

 まずい。

 ちえりは清蓮にとどめを刺すのを諦め、急いで席を離れた。同時に、コースターが発進し始めていることにも気づく。彼女は急いで足場に飛び移る。後ろで清蓮も脱出を成功させたのが分かったが、今はそれを悔しがっている時ではない。

「はぁ、はぁ……危ないところだった」

 あの目覚まし時計は、確か瀬山さんが持っていたもの……

「先生……」


 私に動き始めるコースターから避難させるためにこれを?

 先生、私を助けるために大切な法具を投げてくださったんですね。


「やっぱり、先生は私のことを見てくださっているのね!」

 顔を輝かせながら、瀬山のもとへ駆け出そうとしたちえりだったが、ありえないことに先を越された。

どうして? あの忌々しい女が、先に瀬山のもとへたどり着いているではないか。先に脱出できたのは私なのになんで……

 違う。彼女が早かったんじゃない。

 

 先生が、彼女の方へ駆け寄ったんだ。




「清蓮! 怪我はないか?」

「大丈夫……ちょっと油断しただけさ。あの女、コースターが停まる前にシートベルト外してやがった。殺されるところだったよ」

 憎々し気にこちらを睨んでくる清蓮に、ちえりは怨念をこめた。

 あの女……許せない。

 いきなり出てきて、先生を取っていきやがった。私は覚えているのに。瀬山先生は誰よりも私のことを理解してくれていたって、ちゃんと覚えているのに!

「思い出させてあげないと……」

 ちえりは清蓮の背中にナイフを突き立てて、ぐったりと前のめりに倒れ込む様を想像し、笑っていた。




 地べたにはナイフを引き抜こうともがく秋彦、死んだように横たわっている俊がいる。そしてコースターの発着場の傍には、恐ろしい殺気を露にしたまま佇んでいるちえりがじっとこちらを見ていた。

 自分たちの敵は、皆戦闘不能状態だ。逃げるなら今しかない。

「清蓮! 向こうに扉がある。奴らが復活する前に逃げるぞ!」

 この部屋も、先のコースター乗り場と同じような作りになっていた。壁際によく分からない機械がたくさんあるのも同じ。唯一違うのは、コースターの乗り場を仕切る柵が立っていないことくらいだった。したがって、出口の扉の場所も大方見当がついた。瀬山はすぐに扉を見つけて、清蓮について来るよう呼びかける。だが、彼女は秋彦を見おろしたまま動かない。

「清蓮! 何してるんだ?」

「先輩にお別れ言おうと思ってさ」 

 清蓮はクラッカーを取り出した。秋彦は喘ぎながら、傷口を押えている。

「ねぇ音無先輩。覚えてますか? あなたが私に言ってきた言葉」

「……ああ、もちろんですとも」


 君に才能なんてない。

 プロじゃ通用しない。


「あなたはさんざん、アタシの作品をこき下ろした。別にまぁ、構わないですよ。実際にあの時のアタシは未熟な小説しか書けなかった。それに、アタシに才能なんてない。あなたの言う通りだったんですよ。だからアタシは……勉強した。他のうまい話を書く小説書きの作品を、読んで読んで、読み倒して、そして学んだのよ」

 他の作家の、いいところを取り込んだ。

 そうやって成長したんだ。

「そうやって学んで、アタシは今の形になった。ねぇ先輩……アタシはあなたの小説から多くのことを学んだのよ」

 だからこそ、音無秋彦。

 オマエのしたことが許せなかったんだ。

「アタシは少なくとも、あなたの小説を認めていました。でも、あなたは駄作だとなじったくせにアタシの作品を盗用した! 結局、オマエはアタシと、名声を手に入れたかっただけなのよ! アタシの作品をこき下ろしたのはアタシを叱咤激励するためじゃなかった。ただ、アタシの自信を削がせようとしただけだ。アタシに越えられるのが怖かったんだ。アタシの最高傑作を盗用して先に本を出したのも、アタシをプロにさせないために……」

 アタシは小説書きとしてのあなたに憧れていたのに。

 裏切った。

「違う……違うよ蓮子ちゃん……」

「何が違うのよ?」

「ボクはただ、君と一緒にいたかったんだ。君が成長するにつれて、ボクから離れていくのを感じていた。君にとっての、憧れの先輩であり続けるためには……仕方ないじゃないか。君をプロにするわけにはいかなかったんだよぉ~~!!」

 秋彦は清蓮の足元に縋りつき、その手で靴を撫でさせる。べろりと舌を出して、舐め始めた。

「あはは……舐めるさ…靴でもなんでも。へ、へつらって、君に足蹴にされてもいい。ねぇ~! 清蓮先生ェ~~!! ボクを見捨てないでくださいよぉ! 今度は、ボクの憧れの君として……ずっとそばにいて欲しいぃ~~……頼むよぉ!」

 哀願するように秋彦は、彼女の足を握りしめながら請う。だが、清蓮は首を横に振った。

「アタシさ、先輩のこと尊敬してたけど。あなたがアタシに抱いていたような恋愛感情なんてなかったのよ」

「……」

「それに、尊敬もできなくなった。もっと前から、そうなってたかも。ああ、例の呪いの作品、あれを読んだ瞬間に、オマエに対する感情は何もなくなったわ」

 仕方ないだろう?

 アタシの書いた原作の方が、数倍面白かったんだから。

「消えな、音無」

 清蓮は乱暴に彼の手を振り払い、瀬山のもとへ走っていく。

 

「クソ……ああ、なんで。蓮子ちゃん……」


 秋彦は遠ざかっていく彼女の背中を追い求めながら、未練がましく手を伸ばし続けていた。もはや、意識すらも朧げになっている。

 彼女に投げかけられた言葉のナイフで、完全にとどめを刺されたように感じた。

 一体ボクは、どこで間違ったんだ。秋彦は薄れそうになる意識の中で、清蓮との記憶を思い返した。

 ボクは君のことが好きで、好きで好きで好きで、たまらないのに。君を永遠にボクの物語のヒロインにしてあげたくて。ボクはずーっと頑張っていたのに。いつの間にか、小説家になりたいのか、彼女と恋人になりたいのかもわからなくなって。分からないから、とりあえず、愛という漠然とした感情でごまかした。

 小説も愛だし、清水蓮子も愛だ。二つの愛を同時に満たそうとして失敗した。

 ボクの全てがおかしくなった。


「だけど、何か変だなぁ……」

 

 おかしいんだ。

 こんなにうまくいかないわけがない。彼女の傍にはいつもボクがいたはずなのに。いつの日か、彼女がボクのことを見てくれなくなったように感じたのは。

 4.5㎥の処刑場を盗作したからじゃない。それ以外に、何か……原因があったはずだ。

 そういえば。

「誰かが、来た。あのサークルに……」

 そうだ。

 誰だった。思い出せ……――


 ああ、そうだった。

 あいつが来たんだ。

「新入部員……」

 ボクが大学を卒業してから。あのサークルに新入生が入ってきた。歓迎会の宴会で、OBとしてボクは参加した―――


 その時、ボクは彼女と隣の席には座っていなかった。別に、彼女に合わせる顔がなかったからじゃない。座りたくても、座れなかったんだ。先客がいた。

 彼女の隣に座っていたのは。


「あ…いつ……だ」

 


 瀬山鶫。




***




 煙草をふかしていると、一周してきたコースターが到着した。

「ったく……若者は元気なことだな」

 俺はもうオッサンだぞ……お前らみたいに全力疾走できるほど体力なんて残ってないんだっつーの。おかげで乗り遅れちまった。

 よもや、この年になって絶叫マシンに一人で乗るなど。何が悲しくて一人なんだ。こういうのは友達同士か、あるいは家族で楽しむものだと思う。

「傍から見るとひどい絵面だろうな。中年のオヤジが一人でジェットコースターに乗るとは」

「じゃあ、二人で乗ってみない? パパ」


 真澄は煙草を取り落とした。顔を上げて前を見やる。

 コースターに、かの日の少女が乗っている。

 知らない学校の制服を着て、髪はポニーテ-ルに結われている。挑発的な笑みをうかべて、こっちを見てきた。自分をパパと呼んだその子は、言うまでもなく。

「徐…歌」

 なぜ彼女がここにいるのか。それは議論したところで答えが出ない問だろう。質問するよりも考えるべきことがある。

 彼女は死んだはずではないのか。なぜここまで鮮明に、存在しているように見えるのか。俺の幻覚か? 徐歌のことを思い出したから、脳内で彼女の幻影が作り出されて、俺に語りかける妄想を生み出しているのか。

「早くしなよパパ。コースター、出ちゃうよ」

 いや、どうも違うらしい。

 俺は正常だ。そんな妄想、一度だって見たことがなかった。

「なぜ、その席なんだ?」

 真澄はどぎまぎする心臓を必死で落ち着かせながら尋ねた。

「お前の隣に座りたいのに、そこじゃ座れないだろう」

 徐歌が座っている席は、最前列の汚れていない方の席だ。彼女の隣の席は、血やら肉片やらでどろどろになっていた。

「いいじゃん別に。パパはそれ以上汚れたって大して変わらないよ」

「フン……口が減らんガキに育ったものだ」

 真澄は彼女の席を乗り越え、血みどろの席に腰掛けた。徐歌の前を横切る時、その肩に触れてみた。結果的に彼女は、そこに実態がない幻のようなものだと確信する。

「……なるほどな。俺のヤキが回ったってところか」

「別にそれでもいいんじゃない?」

「ああ。それでいいな」

 ブザー音が鳴り響き、コースターが発車する。

 真澄は娘の隣の席で、いざアトラクションに挑戦する。がたがたと音を立てながら、コースターが上昇する。

「徐歌」

「なによ」

 こうしてみると、自分の記憶の中の徐歌よりは明らかに年上な印象を受ける。なんだか奇妙な気分だった。自分の娘であるはずなのに、まるで赤の他人を見ているような気分。彼女が幽霊だろうが自分の幻覚だろうが、どうでもいい。そんな事よりも、真澄は彼女に何と言って声をかければいいのか、さっぱり分からない。

 言いたいことはたくさんあったはずなのに。

 やがて真澄は言った。


「俺を恨んでいるよな?」


 その問いに関しては。


「当たり前じゃん」


 間髪入れずに返ってくる。

「殺してやりたいくらい、憎んでるよ。今更謝っても遅いからね」

 それは、よかった。

 真澄は声に出さず心の中でそう呟いた。恨まれてなきゃ、かえって辛い。俺はこの子から恨まれるべき父親なのだから。今も性懲りもなく、自分勝手に生きている。娘を山に捨てておいて、反省もせずにけろりと生活している俺は、この子から見ても、世間の目で見ても十分な犯罪者だろうな。

「相変わらず女の人好きだよね、パパ」

 何を分かりきったことを。真澄はククク、と笑う。

「お前のことも好きだよ?」

「……ねぇ、まさか私のことそういう目で見てないでしょうね!?」

 バカ言え。

 ガキの体に興味なんかねぇよ。真澄は鼻で笑いながら徐歌の胸元に目を這わせた。

「Gくらいあったら分かんなかったかもしれんがな」

「最低……」

「で、何しに出てきた。そもそも、そこにいるのか知らんが。俺は俺の作った幻覚と話しているのか、どっちでもいいがな。言いたいことがあるなら言えよ。何でも聞いてやるさ」

 他ならぬ、お前の言葉なら何でも聞いてやる。

「俺を、なじれよ。呪詛の一つでも。言ったらどうだ?」

「ははははは。なんだかパパ、私に呪って欲しいみたい。何? 私に憎まれれば少しでも罪が軽くなるとか思ってるわけ?」

「俺に罪はないぞ? 警察に掴まってないからな」

 真澄はふてぶてしく言う。

「パパって、ホント最低な人間だよね」

 キャーッ!

 と、黄色い悲鳴をあげる徐歌。コースターは猛スピードで斜面を滑り落ちる。真澄は前方の手すりにつかまって激しい揺れに耐えた。やがてスピードが弱まり、再び上昇を始めた。

「徐歌、お前は死んでしまったと聞いた。この空間では、お前の屍が故人の亡骸として、ここにいる人間達が脱出するための鍵になっている。なぁ、お前が本当に徐歌なら、教えてくれないか? この空間は一体なんだ? 現実なのか、夢なのか……」

「ふふ、どっちでもいいじゃん。ルールは知ってるでしょ? 静かにしないと、死ぬ。それだけよ。せいぜい私を怒らせないように、お口チャックね、パパ!」

 徐歌はコースターのスピード感を楽しんでいるようだった。


「いいよねーパパは。まだ生きてるんだもん。私なんてさ、こんな体になっちゃったんだよ? とっくの昔に」

「まだ?」

 『まだ』生きてる、と言ったのか。この子は。なんだ、まるで、今にも俺が死にかけているみたいな言い方は。この空間が今にも命を落とす危険がある場所だから、そんな比喩を用いただけか。

「なぁ、徐歌、もう一つだけ教えてくれないか? 本当に……お前の亡骸を集めて葬送の儀式を行えば、助かるんだよな?」

「もぅ~何よパパ。そんなに生き残りたいわけ?」

「当たり前だ!」

 シーッ。

 徐歌は唇に人差し指を当てるジェスチャーをした。

「パパの心の声が、聞こえてくるわ~。いやらしくて下品で、自分勝手で傲慢な心。やっぱり変わってないね。私を捨ててもきっと、パパは女の人と遊ぶのに夢中だったんでしょ? きっとこれから先も変わらないでしょう。でもね、私はパパと違って優しいから、クズにもちゃんとチャンスをあげるわよ」

 そう言うと徐歌は真澄の座席の下を指さした。

「なんだ?」

「探してみ。娘からの贈り物だと思って。正真正銘、最後の贈り物」

 気づけば、コースターのスピードは落ちていた。緩やかに平坦なレールの上を滑る。トンネルを抜け、終着点も見えてきていた。

 真澄は言われた通りに、座席の下をまさぐる。誰の血か知らないが、汚いものがへばりつくのも気にせず、真澄は娘からの贈り物を探した。とうとう、指先が固いものに当たった。マジックテープで固定されているそれを力任せに引き剥がすと、最強の法具が露になった。

「なんだ、これは」

 

 手にしたのは、安西真澄。

 皆がすっかり忘れていた『最強武器』の存在を、この空間に顕現させたのは彼だった。当の本人は、降って湧いた幸運程度にしか思っていなかったが。

 この形に名をつけるのなら、それは『銃』だ。しかし、今まで見たことがないような未来感を思わせる形状になっている。全体は白色で、全体的にのっぺりと丸みを帯びている銃口と思しき先端には、真澄が持っている拳銃と似たようなスピーカーがついていた。スピーカーの中心部には丸い球体がくっついている。これらは取り外しできないらしい。

 そして、撃鉄があるべき場所には、見慣れない電光板が取り付けられている。そこには数字が表示されていた。


1 0 0


 腕輪についている数値に酷似している。

「なぁ徐歌、これは一体……」

 真澄が振り向くと、そこにはもう、徐歌はいなかった。

 やはり、夢だったのだろうか。いや、そもそもこの空間自体が夢のようなものだろうに。何が何だか分からなくなる。


 真澄はコースターから降りた。

 そこにはすでに閑散としていた。秋彦の姿も、瀬山一行の姿もない。ただ、床に点々と付着している血痕を辿っていけば、誰かが奥の扉へ向かったということは容易に推測できる。しかし、誰もいないというわけではなかった。

 一人の男が、横たわって呻いている。もはや自分の力で立つこともできないらしい。ブツブツと、口から泡を吹きながら何かを言っている。

「殺して、やる……殺し……」

 哀れな奴だ。

 本当に、彼の行動には理解が及ばない。1人の女にそこまで執着し、復讐などという愚かな行為に走る。その思考回路が、これっぽっちも。

「俺は、娘すら愛することができなかった男だからかな」

 真澄は徐に新しい銃を構え、照準を俊に合わせた。銃の上部に、小さなカーソルがついているので、円の中心に俊の頭が来るように狙いを定める。俊は、真澄が自分を狙っていることに気づいていない。

「さて、徐歌のプレゼントは、俺の役に立ってくれるのかな?」

 口笛を吹き、真澄はしっかりと狙いをつけ、横たわる俊に向けて、引き金を引いた。


 カチ!


 手ごたえのない、おもちゃの銃を撃ったような感覚。

 1秒 2秒 3秒。

 何も起きないじゃないか、そう思った瞬間。


 俊の体がはじけ飛んだ。


「ぐおぁああーーーー!!」

 断末魔の悲鳴は、あまりの苦悶に満ちていた。彼の生首が吹き飛び、こちらと目が合う。俊の口はパクパクと動いていた。何かを言ったようだが、それを音にする声帯はとうに失われている。

 やがて頭部も爆散し、俊がいた場所はただの血の固まりになった。

 真澄はひと際長い口笛を上機嫌に吹き鳴らす。

「素晴らしい」

 仕組みが分かった。この銃は、最高に使える!

 先程の電子版を見ると、数値が0 0 0になっていた。そして、1秒ごとに1ずつ回復している。この銃は、100秒待てば即死の音波を出すことができるスピーカーガンだ。恐らくだが、弾数もないとみていいだろう。

「もう、弾数を気にする必要がない……クククク、俺は無敵になった!」

 

 敵を見つけ次第、これで殺せる。

 ありがとう徐歌。やっぱりお前は俺の娘だよ。

「俺を有利させた理由……分かるぜ徐歌」


 ――お前、ここにいる奴ら全員死んでほしいって思ってるんだろ?

 

 お前を虐めた奴。お前を捨てた奴。他にも、お前と薄暗い因縁を抱えた奴が集まってるんだ。この銃を俺に託したってことは……お前は俺に期待してるってことだろ? 俺みたいな奴ならどんな手を使ってでも生き残ろうとする。たとえ、どれだけ死人を出してもだ。なぁそうだろ、徐歌?

「任せろよ徐歌。これでも俺はお前のパパだ。お前を不幸にした奴には……きつい罰を与えないとな」

 その代わり、俺だけは助けてくれよな。

 徐歌。




***




 夢の国に行ったことは何度かある。始めて行ったのは小学生の頃だったかもしれない。母親に連れて行ってもらったのだ。初めて見たシンデレラ城の迫力には圧倒されたものだが、それ以上に瀬山は空想にふけっていた。あのお城の中はどうなっているんだろう?

 実は、あれはシンデレラ姫の城などではなく、恐ろしい魔王が潜む魔王の城なのではないか? 扉を開けた瞬間、つり天井が落ちてきて、侵入者を殺してしまう。怖い罠がいっぱいだ。子供心に、瀬山はあの城に対して恐怖を覚えたものである。


 そんな思い出が頭をよぎったのも、ここがまさに、かの夢の国に非常に似通っているためだった。

 この部屋には、空があった。空は常に黒雲が立ち込めており、薄暗い。しかし、地上の派手さは見れば見るほど明るい物ばかりだ。そう、ここはまさに、遊園地だ。着ぐるみを着たマスコットキャラクターが風船でも配っていたら、果たして自分が今残酷なサバイバルゲームの渦中に巻き込まれていると思うだろうか?

 ただし、遊園地にあるはずの子供たちの声や、絶叫マシンに揺られて悲鳴をあげる者もおらず、メリーゴーランドの馬たちは死んだように沈黙している。傷や汚れ一つない綺麗な遊園地だが、どうしても廃墟を思わせた。一切の音がないのだ。自分たちの呼吸音と心臓の音以外は、全くの静寂に包まれている。そして、遠くに佇んでいる巨大な観覧車は、まるで墓標のように陰気な影を落としていた。

瀬山と清蓮は一足先に『ワームコースター』と書かれた建物から出てきた。ここには他にも、アトラクションと思われる建物が点在している。

この部屋も、式場の一つなのだろう。今まで見た中でも最も広く、様々な部屋に繋がる拠点となる場所だと察する。

「秋彦やちえりが追ってくる。早く別の建物に入ろう!」

 これだけ多くの建物があれば、よほど運が悪くない限り鉢合わせることはあるまい。

「待って瀬山ちゃん。それならあの部屋を探そう」

「式場J、マッド・ハウスか?」

「その通り! ここは間違いなく、コクリエンターテイメントパークだ! アタシの記憶が正しければ……確かこっちに」

 大きな噴水がある広場。(もちろん水は吹いていない)に差し掛かり、ちらりと立て看板を見やって「こっちだ」と案内する。

 清蓮は『メインストリート』と書かれた道には入らず、右の道『ダウンタウン』に入った。

「この先にマッド・ハウスっていうアトラクションがあったんだ」

「それ、どんなアトラクションなんだ?」

「お化け屋敷…っていうか、ドッキリ屋敷っていうか。いろんなからくりが仕掛けられていて、ある床を踏むと壁が倒れて来たり、冷却ガスが噴出したりするのさ」

 石造りで舗装された道。英国風のお洒落な建物が立ち並んでいるが、どこも入れない。ただの外装に過ぎないらしい。ダウンタウンを進んでいくと、彼女の言う通り、怪しげな建物があった。

 黒いレンガで覆われた家。3匹の子豚の三男の家だろうか。これまたゴージャスな両開きの扉がこしらえられ、そこから入れるようになっている。

「なぁ瀬山ちゃん」

 清蓮は突如口火を切った。

「なんだよ?」


「アタシさ。思い出しちまったんだ。全部」

 

 清蓮は、寂しげな顔をして言った。

「何を……」

「だからキミも、早く思い出して欲しいな」

 彼女は扉の向こうへ進んでいく。瀬山も慌ててそれを追った。

 思い出した?

 一体何を、思い出したのか。

「僕だって知りたい」

 失っている記憶を。知りたいのは一つだ清蓮。

 あんたは、僕にとっての何なのか。

 秋彦が言っていた。彼も、清蓮――清水蓮子も、自分と同じ大学に通っていた。文芸サークル。そうだ。僕だって4年間、文芸サークルに入っていた!

 繋がりが、あったのか? 僕と、清蓮は。


 あと一歩でつかめそうだった。そして、その真実は、自分がこんな目に遭っている理由の答えにもつながる。そんな予感が瀬山にはあった。




***




「会長、これで3人の姿を確認致しました」

 会長、黒狗景虎は頷いた。

 景虎は高いところが好きだった。高いところは、下を見おろせる。多くの人間達が、自分を見上げるさまを眺められるから好きだった。

 そんな気分を味わうなら、この観覧車はまさにベストポジション。桐嶋は双眼鏡を片手にワームコースターの出口をずっと見張っていた。

「瀬山と清蓮はすでにマッド・ハウスに到達。真澄は遊園地内を散策中。音無と森本はどうやら一緒に行動しているようですね。どこに向かっているかは不明」

彼は顔にかかった鼠の面を直し、向かいに座って足を組んでいるもう一人の部下に問う。

『菊泉。マッド・ハウスに学生どもは手配したか?』

「もちろんです。会長の法具、モスキートですでに調教済み。逆らえばあの音を聞かせると脅してありますから、きっと全力で戦ってくれますよ」

 娘さんの亡骸を守るためにね。

菊泉はそう付け加えた。

 景虎はゆっくりとした声で『はっはっは』と笑った。

『やはり、食堂から遊園地への道を閉ざしたのが功を奏したな』


 この空間の構造はだいたい把握している。

 式場B、『学生食堂』は、ここ式場Aコクリエンターテイメントパークの『レストラン』に繋がっている。彼らはそこから遊園地を行き来することで、他のエリアの移動を行っていた。

 しかし、この空間にいる人間達の数が減り、法具の量も充実してきた今、わざわざ遊園地への入り口を2つにしておく必要はない。コクリ達は学生食堂の扉を塞ぎ、道をワームコースター一本に絞ったのだ。この遊園地はコクリエンタープライズ自慢のアミューズメントパークだ。決戦を行うには、ここ以上の土俵はないと思えた。

コクリ一行が初めて入った部屋はこのアトラクション、観覧車の乗り場だった。

 そこに置いてあった棺桶から、景虎は法具『モスキート』を手に入れる。この法具は年齢を指定することで、その年齢にしか聞こえない音を発生させることができる。モスキート音と言って、特定の年代の人間しか聞こえない周波数の音を出すことができる技術は存在する。景虎はそこから名前を取ったのだった。音はひどい不快感をもたらすものであり、訓練を積んだ菊泉や桐嶋でさえ長時間聞けば頭がおかしくなる代物だった。

『これで、万事抜かりはないようだね。残りの亡骸はこの遊園地のどこかにあるのは分かっている。ここからは奴らの始末と、亡骸の散策を同時に行おう』

「あのさぁ……会長さん」

 景虎は面を菊泉に向けた。

『ん、何だね? 菊泉』

「その声何とかなりませんかねぇ? sofTalkって……なんか緊張感ないんすよ」

「おい、菊泉!」

 しかし景虎は機械的な声で笑うだけだった。

『確かにそうかもしれないけど……我慢してくれないかな? この声は娘が気に入っていたんだ。どうせなら、聞いて不快にならない声の方が良いって、あの子が選んでくれた声なんだよ』

 自分の喉仏を大事そうに撫でる。

「まぁ……別にいいっすけど」

「菊泉、ここからが正念場だぞ。気を引き締めるんだ」

 観覧車が一周し、地面に戻ってきた。狐と熊は、しなやかな身のこなしで動く籠の中から飛び出した。

『それじゃ、僕はもう少しだけ散歩を楽しんでるから。優先事項は分かってるね?』

「はい」

「もちろんっす」



 安西真澄。

 瀬山鶫。

 清蓮。

 この3名を抹殺すること。

『あいつらだけは、ひどい目に遭わせなきゃね。徐歌が味わった苦しみを、百倍にして返す。

娘を捨てた奴……娘を惑わせた奴……そして、娘を殺した奴だ!!』

 殺すだけでは足りない。

 苦しめろ。景虎は二人にそう命じた。


『僕の遊園地を……血で染めろ。それこそが、あの子への贖いになるんだ』

 

 彼はゆったりとしたボイスの裏に滾らせるような怒りをこめて、2匹のハンターを狩場に放った。

 


 つづく





 New Holy tool



 新聞紙(紙鉄砲)

 騒音値:20~60 レア度:★★★ 

備考:近くで発動させなければほとんど効果がない。しかし、一度50を超えるダメージを叩き出せれば、そのまま蓄積させて相手を葬ることができる。何度も使えるのが最大の強み。


 パラメトリック・スピーカーガン

 騒音値:0~100 レア度:★★★★★

 備考:ついているカーソルで照準を合わせ、円の中に入っている範囲に音波を飛ばすことができる銃。音波は『地獄耳』が捉えるデシベルそのものであり、電子板に表示されている数値がそのまま相手のダメージになる。一度に複数のターゲットを捕捉して攻撃することも可。ただし威力は分散される。一度撃つと0に戻るが、1秒で1回復する。何度でも使える。

 射程距離は壁などに遮断されない限り無限。

 最強の法具。




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