room1 ようこそここは静かな部屋
クワイエットルーム
room1 ようこそここは静かな部屋
ジャンバーの内ポケットにしまわれていたものは一本のクラッカーだけだった。
痛みでガンガンする頭でまともな思考もままならない中、真っ先確認できたのはそれだった。
瀬山鶫は狼狽してしまった。つい癖で、そこにあるはずの財布の存在を確認してしまうのだ。だからすぐに分かった。固くて味のある黒の皮製。つやがあり、使えば使うほど年季がにじみ出るのだ。グッチの皮財布。バイト代を貯めに貯めて、ようやく買えた代物だ。
それが、こんな。クラッカー一本に変わって……
「畜生!」
何に怒りの矛先を向けていいのやら。瀬山は誰もいない空間に向かってそう叫んだ。何が起きているのか分からない。自分は今日、コンビニのバイトを終えて……いつものように、深夜の相方に引き継ぎをしてから、店を後にした。
自分はひどく急いでいた。家に帰るだけではなかった気がする。コンビニの自動ドアをくぐった時にはもう、走り出していた気さえする。
その後から記憶がない。
なぜそんな焦燥に掻き立てられていたのかも、まるで記憶になかった。
妙な胸騒ぎに襲われた。この頭痛は、眠り薬でもかがされたからでは? だとすればまさか、誘拐されたとでもいうのか。
「冗談じゃない! なんで僕が……」
大学を2年も留年して、定職にも付かずに半分フリーターみたいになっているこの僕を? 金もなく、慢性的に続く無意味な時間を過ごすだけの人間を、何のために。
そういえば、辺りが良く見えない。薄暗く、明かりは天井にとりついている一個の丸い電灯だけだった。
目をこすると、そこにあるはずのものがないことが分かった。眼鏡……瀬山の裸眼は両方0.05。あれがなければ何も見えないに等しい、ど近眼。彼は慌てて地面を探る。幸い、眼鏡はすぐ近くに落ちていた。すぐにそれを拾い上げ、顔にかける。
おぉ、いつもの世界が戻ってくる感触。
……いや、いつもの世界か? これは。
「どこだ」
頭が混乱する気分だ。ここは、僕の知らない場所だ。
四方がコンクリートの壁に囲まれ、床は何故か温かみのある色合いのフローリングが敷かれている。後ろの壁の一面にだけ、ピンク色のノブ付きドアが備え付けられている。場違いな、どこでもドアを思わせるような扉だった。それ以外に出入り口らしきものはない。
瀬山はいよいよ焦りを感じ始めた。
見知らぬ場所に閉じ込められただけではない。いつも持ち歩いている、肩掛け鞄もなくなっているではないか。完全に、物取り強盗の類に遭ったと思ったのだ。貴重品は全てとられ、挙句の果てにこんな何もない部屋に押し込められた。あぁ、大事な財布が。中に金は入っていなくても、その財布そのものの価値がでかすぎる。
「どうしよう……」
ヤクザか何かに襲われたのか。そうに違いない。
「今、何時だ?」
瀬山は左手の袖をまくる。そこには中学生の頃、今は亡き母親に買ってもらったG-SHOCKのデジタル時計が巻き付いている。女手一つで自分を育ててくれた母親、今となってはこの時計は、彼女の遺してくれた唯一無二の形見になってしまった。
しかし、自分の左手首にとりついていたものは、母の形見などではなかった。
銀色の円盤が取り付けてある、見慣れない金属製の腕輪だった。傍から見ればそれは腕時計の形とも言えるが、肝心の文字盤には時計に必要な機能を一切兼ね備えていなかった。小さな画面の中に、白いデジタル文字で三つの数字が刻まれている。
0 0 0
これが何を意味しているのか、全く分からない。
「何なんだ!?」
瀬山は怒りをこめてそれを殴りつける。
腕輪には留め金がついていなかった。一切の継ぎ目なく、のっぺりとした金属の輪を形成しており、ぴったりと皮膚に密着している。手首から先を切り落とさない限り外すことは不可能だ。逆につけることも不可能に見えるのだが……
瀬山は腕輪を凝視して震えていた。
おかしなことが起きている。なんだ? 僕は一体何に巻き込まれたのだ!?
着ている服はたしかに、コンビニ帰りに着ていたものと同じだ。グレーのポロシャツにジーパン。上にジャンバーを羽織っている。部屋の温度は寒くもなく、暑くもない。適温が保たれている。あとは……このクラッカーだけだ。
瀬山はそれを握りしめ、静かに思考を巡らせる。考えることは、己の精神を平静に持って行くもっとも簡単な手段。瀬山にとって考えること――『空想すること』は身の危険を感じた際に行う自己防衛本能だった。まぁ、自己防衛というよりは現実逃避に近い行為だということは、瀬山自身も常々自戒している。
――これは夢だ。悪い夢だ。
数日前に読んだ小説に、これに近いシーンがあった気がする。それが影響して、脳が幻覚を見せているに違いない。
そうだ、今も思い出せるぞ。稚拙な内容の小説で、むかっ腹が立ったから覚えている。
エレベーター内に閉じ込められる話だった。タイトルは確か『Merry show down box』。同じビル内にある3つのエレベーターが同時に止まり、一定時間ごとに1つずつ落とされていく、といういかにも趣味が悪いストーリーだった。主人公と、そいつの友人がいて、二人で脱出の方法を考えるのだが、結局あと一歩のところでエレベーターのワイヤーが切られ、地上50階から転落してしまう……――
「違う、違う!」
どうせ空想するなら、もっと前向きなことを考えろ。なぜ、これ以上絶望的な状況を自分に投影しなきゃならない。
瀬山は頭を掻き、今度は現実を見据えることにした。その方が幾分かましだと気づいた。
――今わかっていることは、自分がどこか分からない部屋に幽閉されていること。持ち物はクラッカー一本のみ。
以上のことから……攫った者は、僕に何かをさせたいのか。それとも、困惑する僕の姿をどこからか監視し、笑っている変態か。
いずれにしても、このままでは自力でここを脱出する方法はうかばないだろう。
とりあえずはあの扉が気になる。
何だあれは、本当にどこにでも行ける扉じゃないだろうな。一体向こうには何がある? この非現実感、明らかに、正常な社会とは隔絶された場所であることは確かだ。
瀬山は眼鏡を押し上げ、立ち上がる。足の震えは、あの扉の向こう側を想像することで意識外に追いやった。
「あるいはテレビのドッキリか何かか?」
思考が巡る。
それはないだろうという解答が瞬時になされた。いくらドッキリだからと言って、強制的に意識を奪って攫うなど、あり得ない。法に触れる。だとすると、法に触れても動じない、そんな力を持った組織的な犯行とみて間違いなさそうだ。
瀬山は意を決して扉へ向かった。ピンク色が異様な威圧感を放つ。ノブを回して、引っ張った。一瞬開かないことを想像して手が硬直しかけたが、確かな手ごたえと共に扉はすべるように動く。
扉をくぐり、目に入ってきた光景に瀬山は絶句した。「はぁ……?」と思わず声が漏れてしまう。
何よりもその部屋の異質さに、言葉を失ったのだ。
24畳はあるかという、広い和室だった。自分が通ってきた扉のある、後方の壁のみがコンクリートでできており、他は和の様式を崩さない、木製の壁でおおわれていた。正面は襖で仕切られており、半開きになったふすまの隙間から庭園が覗いている。どうやら向こうは縁側のようだ。外はこちらの明かりでかろうじて様子が見える程度なので、時間帯は夜だと分かる。こうしてみると、前に大学のゼミの研究旅行で行った、京都の『信楽庵』という老舗旅館の宴会会場を思わせた。
しかし、そこが宴会会場でないのは一目瞭然であった。
部屋の真ん中に、巨大な棺桶が鎮座されているのだ。豪華な台の上に置かれた木製の棺桶はだいたい胸の高さの位置で安置されている。いつかの母の葬式を思い出させるものだった。瀬山は苦い過去を振り払うように、頭を振る。
心底意味の分からない光景だ。
そして、もっと問題なのは、部屋の中には自分以外に5人の人間がいることだった。皆知らない顔ばかりだ。
彼らは扉から入ってきた自分を見て興味深げな視線を送ってきたが、すぐに逸らされた。彼らはどうやらお互いが周知の仲というわけではないようで、2人同士、小声で何かを喋っている者もいれば、独りでぼうっと座っている者もいた。
「やあ、こんにちは」
右手方向から、声が聞こえてきた。学生風の若い男。歳は自分と同じか少し下か。困ったように眉を顰め、人のよさそうな朗らかな笑みをうかべている男だった。
瀬山は内心で彼をそう評しながら、呼びかけに応じた。
「こ、こんにちは」
「うーん、ひょっとしたらこんばんは、かもしれないですね! すみません、時間が分からないんだ。俺も何が何だかさっぱりで、ははは」
よくしゃべる男だった。瀬山はごくりとつばを飲み込み、口をつぐむ。
……落ち着け。
基本的に知らない見知らぬ人間と会話するのは苦手なのだ……コイツはあれだ、客だと思えばいい。
いつもやっているように、接するんだ。
「え、ええ。すみません。僕も状況がさっぱりで。突然連れてこられたっていうか」
「ああやっぱり!? 俺もね、そうなんですよ。昨晩友達と飲みに行きまして、ひどく酔っぱらって帰ったからてすぐに眠りについたんですよ。そしたら……目が覚めた時にあなたが出てきたその部屋にいました」
男は頭を掻きながらそうのたまう。今一つ緊張感が伝わってこない。コイツ、自分が今非現実的状況に陥っていることが理解できていないのか?
「ああ、申し遅れました。俺は志乃山東太って言います。風間市立文芸大学に通ってます、3年です」
瀬山はその大学名を聞いてさらに驚きを隠せなくなった。
「風間文芸!? 僕と同じだ……」
「え、そうなんですか? あ、専攻が違うのか。それなら会わなくても無理はないですよね」
「専攻っていうか……僕、今年で6年目で」
口元を濁らせながら、瀬山は言った。だが、東太は全く気にしていないようで、逆に感嘆の溜息をもらすのだった。
「へぇ~! じゃあ、大大大先輩じゃないですか!えーっと……」
「あぁ、名前は瀬山。瀬山鶫」
「瀬山さん! いやぁ~嬉しいです。年上の人といると安心できるんですよ俺!」
人懐っこい笑顔をうかべる東太に、他意はないようだった。
「瀬山さん、ひょっとして作家希望ですか?」
瀬山は黙りこくった。
「……いや」
「あ、そうなんすか? いや、うちの大学って、作家希望の人多いじゃないですか。教授も、編集社にツテがある人多いみたいですし。俺の部活の先輩にも、作家希望の人がいましてね、卒業しないで、教授と一緒に小説書いてるみたいなんですよ。瀬山さんも、そういう感じじゃないですか?」
「僕は要領が悪かっただけさ。……卒論が」
「書けてない……ってことですか?」
「そんなところ」
瀬山は扉を背につけながら座り込んだ。東太も、それ以上は突っ込んでこない。
「小説家か……」
途端に、苦い回想に頭の中を覆いつくされる。
かつては自分にも志というものがあった。それは自分の人生におけるたった一つの指針であり、柱でもあったはずだ。だが、今でこそ、己の行く手を阻む足枷になっている。
自分に残ったものは夢の残骸と、いつまでたっても書けない卒業論文だけ。くだらない空想の産物が、認められずに散っていった。
卒論のテーマは一つだった。日本文学部のゼミに所属する瀬山に課せられたテーマは、一本のHappy endの小説を書くこと。
「……僕は、結局、最後までは生き残れないんだ」
彼の作品は皆、主人公が途中で死ぬ物語だった。
彼は自分の小説の主人公を自分に重ね合わせる癖があった。そして、その主人公は誰もがどこか世の中や人間に対し否定的であった。そして、必ず途中で死を遂げる。別に意図してやっているわけではない。自然とそうなるのだ。言ってみれば本能。筆が自然に、自分の分身たる主人公を殺してしまう。
瀬山はこれが、一種の自傷行為に等しいのではないかと疑念すら抱いていた。
「……ハ…」
苦笑した。
感傷に浸ることほど非生産的なことはない。今の状況ではなおさらだ。
「志乃山君……」
「あ、東太でいいですよ」
名前呼びは慣れていないが、彼に対しては気を遣うことなく名前で呼べる気もした。
「あー、じゃあ、東太君。ここにいる人達は一体……」
「うーん、面識があるのは、ごく一部ってとこですかね、例えばあそこにいる女子」
東太は棺桶の陰に隠れるように座っている女性を指さした。彼女も外出中に連れてこられたのか、薄いピンクの着飾りのないTシャツとズボンの私服だった。
「あの子は俺と同じゼミにいる子ですよ。名前、なんて言ったけなぁ~? あー……森本さんだ」
森本ちえり。という名前だそうだが、その名が出るまで結構な時間を要していた。彼曰く、本当に目立たない女子学生らしい。会話をした記憶もないという。
なるほど、確かにこれと言って特徴のない。所謂……リア充とはかけ離れたような風貌だ。化粧っ気もなく、大きな丸いメガネは顔の輪郭を大きく見せるだけであまり似合っていない。髪の毛もちぐはぐなショートだった。せめて長さは整えた方がいいように思える。
「ちょっと暗くてねぇ、近寄りがたいんすよ」
「分かる気はする」
――僕も付き合うなら明るい子がいい。なぜかって? 会話を投げかけるのが嫌いだからだ。受け応える方が楽。
「あとは……そこの壁に寄りかかっている奴。火永紫園……俺の、高校時代の同級生です」
瀬山は一瞬だけその男の顔をチラ見し、すぐに目をそらした。
ヤバい奴。
第一印象がそれだ。経験上、その勘は当たることが多い。仮にも、コンビニバイトをやっているとそういう人種か、そうでない人種かは判別できるようになっていた。
こげ茶の皮ジャンバーに、穴の開いたジーパンを着こなしている。見えるインナーは黒の下地に赤い血が飛び散ったような趣味の悪い柄。東太と同い年とは思えぬほど老けて見える、その目は落ちくぼんで充血しており、視点が定まっていなかった。頭はスキンヘッド。ヤクザの末端チンピラにしか見えない。
「瀬山さん、目を合わせない方がいいっすよ」
「え?」
「噂ですけどアイツ、大学にも行ってなくて、ヤバい連中と付き合ってるらしいんです。俺の住んでる町では有名なんですよ。……薬やってるって」
「まさか……」
チッ!
と、嫌に大きな舌打ちが響いた。
「おい、そこのメガネェ」
ドキリ、として瀬山は振り向いてしまった。
火永はふらふらと指を振りながら、不気味な笑みをうかべてこちらを見ている。
「気をつけろよー? ひひ」
酒に酔っているだけだ。
そう思い込むことにする。そう断定してしまえば、よく来る酔っ払い客となんら変わらない。もっとひどい脅しを受けたこともある。
瀬山は愛想笑いをうかべ、すぐに視線を逸らす。
「あいつはいつも、ああなのか?」
「知りませんって! とにかく、関わらないようにしましょう。それが一番です」
ごもっともだ。
瀬山は他の人間を尋ねた。
「あそこの、角隅に寄りかかっているのは誰か分かるかい?」
背の高い、サラリーマン風の男。利発そうな顔つきで、涼しい目つきに細い眉毛。うっすらと生えている髭を処理すればそれなりに女にもてそうな顔だと思う。会社帰りだろうか、彼はまだスーツを着込んでいた。若々しい風貌ではあるがよく見ると年齢は結構いっているようだ。40代くらいだろうか。
「うーん……知らない人だなぁ、聞いてみます?」
「いや、やめとけ」
男はちらりとこちらに視線を送るが、すぐに興味なさげに顔を背ける。そして、しきりに左手首を見やっていた。腕時計を見る動作だと分かる。だが、彼はその動作をするたびにイライラと息を吐いていた。
その左手首には、自分と同じように奇妙な腕輪がついていた。
「あ、瀬山さん! あなたもその腕輪持ってるんすね?」
東太はちょっと興奮気味に袖を捲って、左手首を見せつけてきた。そこには、自分のものと全く同じ不気味な腕輪が絞められていた。三つの0の数字も健在だ。
「これ、何なんすかね?」
「さぁ、全く分からない」
不安は募るが、瀬山は思ったよりも自分は動揺していないことに気づいた。先程一人で目が覚めた時とは大違いだ。自分と同じ境遇に陥った者が隣にいる。それだけでこうも、心の中に勇気が湧いてくるものとは。
しばらく感慨にふけっていると、尖った声が聞こえてきた。
「ねぇ、真澄さん! これ、どうなってるのよ?!」
サラリーマンの男に向かって、一人の若い女が金切り声をあげながらしだれかかってきた。濃い赤の口紅がぬられた口元が、異様に目立っている。むしろ、他に特徴的なパーツがなく、目も小さく、鼻も、眉毛も薄い。へのへのもへじを具現化したような顔面の女だ。
彼女は茶色のガウンを羽織り、下着が見えそうな短いスカートをうまく履きこなしている。スタイルは抜群だった。女は真澄と呼んだサラリーマンの肩を掴み、聞き煩わしい声で喚いた。
「おうちに連れて行ってくれるって言ったじゃないのよ! なによここ? あたしさぁ、まだ飲み足りないの。今夜はずっと、一緒にいられるってそう言ってくれたじゃない!」
「ちょっと、離れろよ瑠実。俺だって今の状況がよく分からないんだ」
「嘘つき、本当は今の女と別れる気ないんでしょ? いつになったらあたしのことを本気で愛してくれるの? ねぇ」
瀬山は思わず目を背けた。
女の声が鬱陶しいだけではない。あの男に対して、ひどく腹立たしさを覚えたからだ。嫌な記憶が呼び覚まされそうになり、彼は胸ポケットに手をやった。そこに財布がないのは知っていたが、やらずにはいられない癖なのだ。
「おい、てめぇら。うるっせぇぞ」
一瞬、空気が凍るのを感じた。
始まった。膠着状態を破るきっかけ、ほんの小さなものでもきっかけがあれば、あの火永という男は動き出す。そう予感していた。
その予感は見事に的中する。真澄と瑠美が静寂を破ったことで、眠れる獅子を起こしてしまったのだ。
火永が、舌なめずりしながらもめている二人に近づいていくではないか。東太がさっと瀬山の後ろに隠れ、彼と目を合わせないようにする。そうしたいのは瀬山も山々だったが、好奇心が勝った。そのまま野次馬に徹することにする。
「なによあんた!?」
「おい、やめろよ瑠実。……す、すみません彼女ちょっと酔っぱらってて」
真澄は愛想笑いをうかべて会釈するが、その様が逆鱗に触れたのか。火永は彼を思い切り殴り飛ばした。
その惨状に、皆が絶句する。
こんな理不尽な暴力が、現実に行われるのを見たことがある者はこの場に誰もいなかったようだ。
「良いスーツ着てんじゃねぇかてめぇ。あ? 見下した目ぇしやがって」
なおも真澄を殴ろうとする火永を、瑠実が止めようとして羽交い絞めにする。だが、力は当然、火永の方が強かった。
「うぜぇ女!」
彼女を振りほどき、火永はなおも真澄に襲い掛かった。どうやら、そのスーツの中に隠されているだろう金品が目当てのようだ。しきりにポケットの中を漁っている。
奴はずっと物色していたのだろう。場を観察し、一番強いのは自分だと悟った。そして、何をしようと許されると思った。災害避難時の暴動と同じだこれは。
「瀬山さん! ヤバいですって」
だから何だ、東太。お前、暴徒を止められるのか?
秩序がないこの場では、力が正義だ。普通なら警察を呼ぶところだが……
「東太、君、携帯電話あるかい?」
「持ってないっすよ! 瀬山さんは?」
外部との接触を断たれているのは、すでに分かりきったことだった。
「財布はないんだ! 気が付いたらなくなってて……」
「そーだ。財布がねぇ。ケータイもねぇ! クソムカつくよなぁ~? だからさぁ、小遣いくれよー、なぁーオッサン」
火永はどうも、うわごとの様に言葉を紡ぐ。薬をやっているという噂は、案外嘘ではなさそうだと思う。
「やめて! 放して!! 真澄さん!」
女の悲痛な叫びが響いた。
「瀬山さん……」
だからさっきから、何なんだよお前は。
「僕に、何かしろって言うのか?」
「だって、年上ですし」
馬鹿野郎。
瀬山は眼鏡を押し上げて東太を睨んだ。ただの半フリーター貧乏学生だぞ僕は。体を鍛えているわけでもない、腕っぷしはからきしだ。最後に運動したのもいつだったか分からない。ペットボトルの入った段ボール箱を二段重ねで持ち上げられる、その程度の腕力しかない僕に。
「君、何を期待してるんだ? やめてくれ」
「お、俺怖いですもん! でも、このままじゃマジでヤバくないっすか? あの真澄って人、火永に殺されちゃいますって!」
まさか、殺されるわけがない。
……いや、でも待てよ。
持ち前の空想癖は、こう働かなくてもいい時に限って洞察力を発揮してしまう。
「真澄がやられたら、次は誰だ?」
あの女だろう。
だけどどうせ、彼女も金は持っていないはず。すると、ここにいる全員がすべからく奴に殴られる可能性があるということだ。恐らく、瑠実の次に襲われるのは自分だ。最悪なことに、さっき奴と目が合ってしまったから。きっとターゲッティングされているに違いない。
力が秩序だというのなら、今最も危険なのは暴力をふるえる人間。運悪く、自分たちはライオンと一緒の檻に放り込まれたというわけだ。今はまだ、やられているのは真澄だけ、しかし、時間と共にあの男はここにいる皆を喰いつくす。
やるなら、手数が多い今しかない。
「おい東太、協力してくれ」
「えぇ!?」
「えぇ、じゃない。1対2なら何とか奴を封じ込められる」
「無理ですって。俺、人を殴ったこともないですし」
すると瀬山は財布の代わりに入っていた、例のアイテムを取り出した。なんとも場違いなパーティグッズだ。
「それ、クラッカーですか?」
「ああ、そうだ。貴重品の代わりにこれが入ってた。笑えないよな?」
目を丸くしている東太の気持ちはよく分かった。自分でも、これからやろうとしていることがあまりに荒唐無稽に思えて馬鹿馬鹿しくなってくる。
「これをあいつに向けて使う。奴が驚いた隙に、二人で抑え込むぞ」
「は…はははは……マジ、すか?」
うまくいったら、それこそドラマだよ。
できの悪いフィクション小説だ。瀬山は慰める様に彼の肩を叩いた。
「援護頼むぞ」
「あー……泥船乗りましたわ」
「さっきから先輩に向かって失礼だぞ君……」
東太はハハハ、と力なく笑っていた。
ちらりと、棺桶の方に目をやるが、相変わらず森本ちえりは沈黙したまま座り込み、こちらの様子をじっと伺っているだけだった。できれば彼女にも手伝ってほしかったが、声をかけづらかった。
なんとか、二人で頑張るしかない。
瀬山は赤と白のストライプが入ったクラッカーを握りしめ、激闘が行われている一団にそろそろと近づく。緊張して指が震える。それでも彼はクラッカーの紐を掴んで離さなかった。
火永は馬乗りになって真澄をいたぶっていた。瑠実はもう、背中を壁につけて頭を抱えて蹲っているだけだ。奇跡が起こるのを信じるしかないらしい。とはいえ、その奇跡を起こそうとしているのが自分とは、なんとも情けない。
奴の背中が近づいてくる。
距離にしてあと4歩と迫った。近くで見ると、火永は思ったよりも巨体だった。190㎝以上はあるんじゃないか。当然、自分よりもでかい。後ろ姿でさえ恐ろしく見える。もし失敗したらどうなるんだ?殴られるだけでは済まないんじゃないか。それに、今自分は後輩の身の安全も守ってやらなければならない立場だ。
「あぁ、くそ。なんでこんなことに」
瀬山はあまりの緊張で吐きそうになった。ひどく部屋が暑さを帯び始めたように感じ、目がかすんでくる。彼は眼鏡の下から自分の瞼をこすった。
――まだだ。
ここで鳴らしても、奴をひるませることはできない。肩を叩いて、こちらに振り返らせるのだ。そして、奴の顔面めがけてクラッカーを発動させる。そうすればどんな人間だって驚くに決まってる。問題はその後、果たして二人だけの力で奴を止められるのか。いや、足りなければそこにいる女二人にも手伝ってもらうしかない。
後は……縄とか、火永の身を拘束するものが必要だが、僕の着ている上着で代用するか?あまりうまく縛れなかったらどうしようか。やはり頭を殴って昏倒させるのがいいかもしれない。しかし、人を気絶させる絶妙な力加減で打撃を与えられる技術を持った者が果たしてこの中にいるのだろうか……――
「瀬山さん!」
東太の声で我に返る瀬山。
彼は自分の空想癖を呪った。現実を飛躍し、起こりもしない未来のことをうだうだと考え込んでしまうこの癖。
火永はもう、こちらに振り返っていた。怪訝な目つきで、こちらを睨んでいる。クラッカーを持つ手が今まで以上に震えだした。
ふと、かつて自分が書いた小説の中で、一番最悪な主人公の死にざまを思い出した。
唐突な交通事故死。
なぜそんな結末をかいたのか。今になって瀬山はようやく悟る。あれは自分の死にざまの予言だったに違いない。自分の手ではどうにもできない不可抗力によってもたらされる突然の死だ。
主人公は病気の恋人の見舞いに行くために、病院へと急いでいたのだ。主人公はひたすらに、思いを馳せていた。幸せな未来を。恋人は病気を治していた。これからは恋人との新しい生活が始まる。幸せを予感させる前章のラストを経て、今に至る主人公はただただ胸に希望を抱きながら横断歩道を渡った。青の横断歩道を。
白のセダンが主人公の体を跳ね飛ばす。確か、乗っていたのは主人公の友人だったっけ。
主人公は死に、恋人は生きた。
――主人公が可哀想ですよ。
そうだ。
誰かがそう言った。
一体誰が。
「瀬山さんってば!!」
力強く肩を揺さぶられ、瀬山は再び過去の記憶から顔を上げる。今のは――走馬灯と似たような現象だろうか。これほど短い間隔で現実逃避した自分が情けなく思える。火永は目の前に立っている。図体はすこぶるでかい。彼はワニのような小さく鋭い目で瀬山を見下ろし、拳を振り上げた。
「弱い奴、嫌いなんだよな」
もう、できること一つしかない。
瀬山は腕を持ち上げ、クラッカーを彼の顔の前に突き出す。そうでもしなきゃ、後は殴られるしかない。
瀬山は思い切り、右手を引いた。
クラッカーは喜びを表すかのように、陽気な紙吹雪と紐を吐き出し、それと共に轟音を奏でた。実に、景気の良い音が鳴った。
パァアアーン!
その音と共に、瀬山は尻餅をついた。彼は希望をこめた目でワニの様子を伺うが、奴は怪訝な顔をして顔にかかる紙吹雪を払っただけだった。
効果が、ない。
「おまえ、何。死ぬか?」
背中に怖気が走った。
もうだめだ。殺される。瀬山は両手を顔の前で覆ってガードし、アルマジロのように丸まった。
しかし、いつまでたっても強烈な痛みは襲ってこない。
「お、おまえ……」
火永のくぐもった声が聞こえる。
「な、にお、おう、おおお、うおおおお」
何か様子がおかしい。瀬山は顔を上げた。
目の前で起こる展開に、ついて行くのが難しい。
火永は後ずさりし、喉を押さえて苦しんでいる。かと思えば、今度は顔をしきりに掻き毟り、ついには全身を手あたりしだいに叩き始めた。苦悶の声は収まらず、どうも火永の意思とは関係なく漏れ出ている声なのでは、とそう思った。
東太が瀬山を盾にするかのように、後ろに着くのが感じられた。それに苦言を呈すこともできない。瀬山はその光景に目を奪われていた。
火永の体が、大きくなったのだ。
二倍くらいに、膨れ上がる。顔は見る影もないくらいに腫れあがり、血流が暴走して皮膚という皮膚が真っ赤に染まった。青い血管がそこら中に浮き出て、あたかも植物の蔦が体中に張りめぐらされたようだ。火永は両手を大きく広げ、絶叫した。うめき声にしか聞こえないが、確かにそれは絶叫だと分かる。彼の口がそれを物語っていた。開け放たれた口からは、大量の血が溢れ出てくる。
体は限界まで膨れ上がり、小柄な力士を思わせる体型まで変わった。そして、水風船が割れるような音と共に、火永は弾け飛んだ。
部屋中に内蔵と血をまき散らし、彼は『爆発』した。細切れになった臓器が天井に張り付き、そして落ちる。水が一滴ずつ滴る音がそこら中に反響した。
瀬山が動かした右手の指に、硬いものが当たった。
白くて硬い、綺麗な曲線美を持つそれは、肋骨ではないのか。瀬山はその場で嘔吐した。何も吐く物がなかったが、嗚咽を我慢できない。後ろで東太も同じような症状に苦しんでいる。
「い、いやぁあああああああああああああああ!!」
女の悲鳴が響き渡った。
次の瞬間、その悲鳴が電波の悪いラジオのように、断続して聞こえるようになる。瑠実は苦しそうにむせていた。
また、始まった。
瑠実が喉を押さえて咳き込んでいると、その華奢な腕が徐々に醜く膨れ上がっていくのが見て取れた。
「う、ううう」
皮膚が裂け、一本、二本と深い亀裂が走り始めた。やがて極めて薄っぺらい顔立ちだった彼女は、見るに堪えないカエル顔へと変貌していった。深海から引き揚げられた魚のように、目玉が異様に飛び出してきた。
そして、火永と同じように、体が爆発四散した。
「あ、あああ……うう」
だめだ。
これは異常だ。異常な世界だ。狂ったんだ。こんなものを見るなんて、頭がおかしくなったに違いない。とうとう、僕はいかれちまったんだ。
瀬山は何も考えられなくなる。ただ、この恐怖感から開放され、自由になりたい。地獄から逃れたい。もう、耐えられない。
彼は口を開けて、喉の奥を開いた。そして息を大きく吸い込んで叫びあげようとする。
「う、おおお……――」
「待ってください!」
突如、口の中に手を入れられた。声はでず、代わりに強烈な不快感に襲われた。咳き込み、絶叫することはできなくなる。
息も絶え絶え、瀬山は視界がぐるぐると回っているのをぼんやり感じていた。
つづく






