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泥沼に落ちて

 トラックどかーん!で異世界へ。

 そういう本は読んだことがある。


 でもまさか、自分の身にそんなことが起きるとは夢にも思っていなかった。


 高速道路で事故が起きて避けるために車が止まって、でもバックミラーにはすごい勢いで迫ってくるトラックが映っていて。

 ぶつかる!と身を竦め目を閉じたのに予期した衝撃は訪れず… 恐る恐る目を開けた先にあったのは、今にも降り出しそうな曇り空だった。



 曇天、周りには木立、建物は見えず人の姿も無い。

 灰色の壁に覆われた高速を走る、赤い車の中にいたはずだったのに。


 身を起こそうとして自分の体が泥の中にあることに気がつく。

 湿地帯なのだろうか、全身泥まみれで気持ちが悪い。


 やっとの思いで立ちあがり、湿地の外を目指して歩きだす。

一歩、二歩。三歩目に踏み出した足が太ももまで沈み込んで震える。


 湿地…じゃない、ここってもしかして泥の沼⁉︎


 必死で後ろに戻ろうとするが踏み込んだ足が抜けず、もがくほど体が沈み込んでいく。

ついに胸元あたりまで沼にはまり込み、更に震えた。


 足をいくら伸ばしても、底に着かない。

 もしかしたらここが噂の、落ちたら死んじゃう底なし沼ってやつ…?

 

異世界転生して、目覚めるなり底なし沼で死亡ってどういうこと⁉

 殺すならせめて事故で潔く逝かせて!苦しいのはいやー!


 もがくほど早く沈んでしまう気がして、静かに絶望していると沼地の端で物音がした。

振り向けば背の高い男性が一人、荷物を落として立ちすくんでいる。


「嘘だろ…本当に落ちてた…」

 言葉の意味は分からないものの、私は必死で手を振り、叫び声を上げた。


「助け…ゲフゲフゲフ」

 手を振ったせいで体が更に沈み込み、私は泥を飲み込んでしまう。

 死ぬ!本当に死ぬからー!


 せめて最期の景色を…と必死に開けたまぶたの向こうに映っていたのは、空を駆ける美しい銀色の毛並みだった。


 カイザー。会いに来てくれたのね、カイザー。

 懐かしく愛おしい私の獣に、私は手を伸ばし…そのまま意識を失った。




「えふっ!ゲホゲホげほっ!」

 再び目覚めた時、私の口からは泥色のゲロが溢れ出ていた。

 口の中は泥の味で一杯。さ、最悪だ。

 

それでも生きていて良かったと、そして最後に巡り合えた最愛のカイザーの姿を探す。

 私の前に佇んでいるのは銀色の髪、蒼い瞳の…男性!?


 カイザー、と懐かしい名前を呼び掛けた私の口が凍り付く。

 この人は私のカイザーではない、どうやら人間だ。


 すがりつきそうになった手を必死で留め、私はフラフラと泥だらけの頭を下げる。

「助けて頂いて、ありがとうございました…」

 

とはいえ銀の髪のこの人は何人なんだろう。言葉は通じるの?私は不審人物?


「いいえ、迎えが遅くなり大変申し訳ございませんでした。異世界からいらっしゃった姫ですね、私はクラウス・オーギュスト・グスタフ。貴女が降り立った国の五番目の王位継承者です。どうかクラウスとお呼びください」


「えっと…クラウス、様?私は佐伯理帆と申します。理帆と呼んでください。異世界から来た姫ってなに?私はどうしてここへ?」


 良かった、日本語は通じてる。色々分からないことも多いけど、私のことも知ってるみたい。


 聞きたい事は溢れていたのに、次に私の口からあふれ出したのは泥にまみれたクシャミだった。

気がつけば曇天は夕闇に、着ていた制服はグショグショで氷のように冷たい。


「失礼いたします、近くに温泉がありますからとりあえず体を温めましょう」

 クラウスはひょい、と私を抱き上げた。

 それは所謂お姫様抱っこという恰好で。


「ふぉっ…⁉」 


初対面の男性と。思いがけない接触。


 生まれてこのかた彼氏ナシ、規律厳しい私立学園に通う十七歳の女子高生としてはカチンコチンに固まりたくなるシチュエーションだったのだけれど。


 不思議と、初対面の彼の腕の中で安らぎを感じている私がいた。

 なぜって、彼の容姿が大好きな『カイザー』によく似ていたから。

 銀色の短髪、大きな体、蒼い瞳、眉間に寄せられたシワ。


 一見いかついとか怖いと言われそうな容姿。それでもしかめ面の瞳には私を心配する気持ちが溢れていて、揺るぎなく支える大きな腕も優しかった。

 

こうやって誰かから一心に心配してもらえるのは本当に久しぶりで。


 私は、しかめつらのカイザーを思い出して、ほっこりした気持ちで、そっとクラウスの腕に寄り添ったのだった。




「ふにゃー、温かい…」


 沼地の先の洞窟の奥には、天然の温泉が湧いていた。

 クラウスは荷物の中から着替えを置いて立ち去ったので、私は一人ゆっくりとお湯に浸かっている。


 聞きたい事は山ほどあったけれど、とりあえず今は泥から解放され、綺麗になった体が嬉しい。そしてもう一つ、嬉しかったこと。


 クラウスの蒼くいかつい瞳、銀の短髪を見て思い出す、この世で一番愛おしい存在。

 三か月前に亡くした私のカイザー。


 銀色のシベリアン・ハスキー、享年十四歳。

 長生きした方だ、とは皆に言われる。それでも三歳の時からずっと隣にいてくれた彼を喪った日々はとても味気ないもので。


 どうやったのかは分からないけれど、沼地から私を救ってくれたクラウスは銀色の光のように、びゅんと飛んできたように見えて。


 それはとっても、私のカイザーみたいだったのだ。風のように早くて、愛と優しさに満ちていて。

私のカイザーはちょっとおバカな所もあったから、王子様のクラウスに似ている、なんて言ったら怒られるかも知れないけど。


 事故にあったこと、一緒に車に乗っていた弟や友人たちのこと、残してきた家族のこと…心配はたくさんあったけれど、久々に会えた銀色の光によく似た王子様に、私の顔はほころんでいた。



 …寛ぎすぎて疲れ果てた頭がこてんと落ちそうになり、慌てて温泉から上がる。

 

置かれた薄い手拭いで体を拭き、借りた衣類を身につける。

 大きなパンツは腰ひもをきつく締め、裾をまくればなんとかなった。

 しかしだぼだぼのシャツが危うい。下着を身につけていないので、襟ぐりから薄っぺらい胸元が覗いてしまいそうだ。

非常事態だから仕方がない、と諦めてそのまま外へ向かう。


 そういえば私の泥だらけの制服はどこへ?と思っていたら、外の焚火の上、クラウスの指の先で私の服が踊っていた。


 クラウスの指の先で、焚火の上をクルクル回り、乾かされていく制服たち。

「クラウス様…それは何を…」

 私の声が少し震える。


「上がられましたか、理帆様。私は風の魔法が使えますので、濡れた衣類を早く乾かそうと思いまして」

 なるほど、風の魔法。それはとても便利で異世界らしいお話ですね。底なし沼の上をビュンと飛んできた理由も分かった。


 …でもやっぱり、分からない。なぜ王子様が、制服と一緒に私のパンツやブラジャーまでくるくる直火干しで乾かしているのだ⁉やっぱりこの人、ちょっとおバカなカイザーと同類なんではなかろうか⁉




 返してもらったブラとパンツを洞窟で身につけて戻ると、クラウスは軽くうなだれていた。善意でしてくれた事に、恥ずかしさから軽く怒ってしまった自分が情けない。


「先ほどは失礼しました…」

「いえ!こちらこそ!」


 クラウスは慌てて立ち上がり、しかめ面で頭を下げた。

 その体は大きくて、ちょっぴり怖い顔で…でも蒼い瞳には反省の気持ちが溢れていて、私は思わず笑ってしまう。いたずらを怒られた後のカイザーも、こんな顔をしていたっけ。


 ふふふ、と笑った私の顔を、クラウスは不思議そうに見つめた。


「あっ、ごめんなさい笑ってしまって」


 失礼だっただろうか。真顔になった私に、彼は言う。

「いえ、自分は顔が怖いとよく女性から敬遠されるもので…そんな風に笑って頂いたのは初めてだから少し驚いただけです。その、理帆様は俺の顔が怖くありませんか?」


 クラウスの顔を改めて見つめてみる。

 眉間によったシワは、確かにちょっと怖いのかも知れない。

 けれどもそれは大好きなカイザーのものと同じで、だから私は少しうっとりしてしまう。常に側にいてくれた、カイザーがいつだって私の理想のタイプで…だからシベハス似のクラウスは、私にとっては理想の王子様かも知れなくて…


 うおっとお!いくら好みのタイプだからって、初対面の人間に何を考えているの私!

 相手は王子様!底なし沼にはまってた、泥だらけの女子高生がいきなり思いを寄せるなんてドン引き必須!


 気付け代わりに己の頬をびしっと叩くとクラウスが後ずさった。


「す、すいません…叩いて気を確かにするほど、怖いですか俺の顔…」

「えっ⁉ち、違いますこれは自分の事情でっ!怖くない、怖くないですからっ!」


「クラウス様は私の大切な…」

 イヌ、と言いかけて私はためらった。

 やんごとなき王子さまに「飼い犬に似ています」だなんて、さすがに失礼かも。

 

「クラウス様は私の大切な人に似ているのです。だからつい馴れ馴れしい態度を取ってしまって…不敬でしたら、申し訳ございません」

  「不敬だなんて!初対面の女性から笑いかけてもらえるのは久しぶりだから嬉しかっただけなんですが…そっか、大切な人いるのか…」


  最後の方は小声すぎてよく聞こえなかった。聞き返そうとした瞬間、強烈な眠気に襲われる。聞きたい事は山ほどあるのに、泥沼で体力を奪われ過ぎたのかまぶたを開けているのが辛い。


 気がついたクラウスが繋いだ馬から荷物を下ろし、毛布を手渡してくれる。

「ありがとうございます、でもこれクラウス様のじゃ…」


 毛布は一枚しか積まれていないようだった。

「自分は平気ですから気にせず使ってください」

「そんな訳にも…ああごめんなさいもう眠気が限界…」

 一緒に寝ましょう、と私は毛布をクラウスと自分の体にかけ、彼の隣に体を寄せて横になった。

 一枚の毛布を半分ずつ、これなら二人とも寒くないよね。


 その夜は久々に、カイザーと一緒に眠っていた、子どもの頃の夢を見た。


 焚火の暖かさ、それから私の肩に触れていたクラウスの体のぬくもりが、カイザーに似ていたからかも知れない。



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